第4話「君の女神は手強いから」

 イーストが気に掛けなければならない存在というのは多い。この研究所に住む者も、その一人だった。

「ご機嫌はどうかな? アスファルト」

 灰色の一室に通される度に向けられるうろんげな眼差し。それをものともせず、イーストは微笑んだ。

 破壊系による怪我のため療養中という扱いになっているアスファルトは、以前と変わらぬ無愛想な顔で出迎えてくれた。一見したところでは無傷なように思えるのが、破壊系の厄介なところだ。

 核への傷は、技を使う際に広がっていくことが多い。だからしばらくは技の使用を控えなければならない。技がほとんど使えないくらいの傷を負った場合は、仕方がないが戦力外だ。

「見ればわかるだろう」

「いつも通りだね」

「何しに来た」

「ひどい言いぐさだな。私はただ、お見舞いに来ただけさ」

 机の上の紙束を整えながら、アスファルトはあからさまにうんざりと嘆息する。朝の森を思わせる彼の髪が、壁際のパネルの光に照らされて煌めいた。

 相槌を打ったイーストは笑う。こうしたやりとりは慣れたものだ。同じ五腹心でもラグナやプレインは無駄な会話だと呆れるが、イーストはそうは思わない。普段のこの男を知るからこそ、異変に気づける。出し抜かれずにすむ。訪いの目的はそこだ。

「それと、一つ報告があってね」

「手短に言え」

「今度、君の愛しい申し子の顔を見に行こうと思うんだ」

 イーストがそう切り出せば、アスファルトは無言でそれに応えた。彼の気は凪いだままだったが、それでも内心快く思っていないことは態度から知れる。軽口を叩く場ではないと感じているのがその証拠だ。

 相槌を打ったイーストは、そっと壁に背をもたせかける。そして揺れた空色の髪を耳へとかけた。

「大丈夫、挨拶だけさ。別に、私は君があのお嬢さんを連れ戻すことに反対していないよ。だから安心して早く調子を取り戻して欲しいと思ってね」

 できるだけ穏やかに、裏はないのだと告げるようにイーストは続けた。じっと見つめてもアスファルトの表情は変わらない。ただただ無愛想に紙束を睨み付ける横顔から、読み取れることは少なかった。

 イーストが与えたのは圧力だ。いつでもかの申し子たちへ手を伸ばすことができるという現実の確認。同時に、それが彼の本意ではないことの意思表示。これもいつものやり方だった。

 ――適切な時に動け。そのために養生しろ。それがイーストの求めることに他ならない。イーストたちが眠っている間に、魔族の数は激減していた。アスファルトは数少ない戦力だ。その使い方を誤ってはいけない。

「傷、なかなか響くんだろう?」

「……手ひどくやられたからな」

 優しく問いかければ、渋々といった様子でアスファルトは頷いた。彼がここで大人しくしている理由などそれしかなかった。

 そうでなければ、イーストたちの動きを待たずに何か始めているはずだ。アスファルトにも時間がない。イーストたちの準備が整う前に、本当は仕掛けたいところだろう。

「だってラグナを斬った刃と同じだろう? 仕方がないさ」

 壁から背を離したイーストは、やおら肩をすくめてみせた。ぴくりとだけ、アスファルトの眉がひそめられる。当たりだったようだ。

 アスファルトを負傷させるだけのものとなれば、考えられるのはそれだった。あの少女には切り札の刃がある。それはイーストたちも警戒しなければならない。

「……どこで覚えてきたんだか」

「さすがはあの女神の血を引く者だね」

 呆れたようなアスファルトの声に、イーストは半ばかぶせて発言した。わずかに、辺りの空気が重くなる。アスファルトはゆっくりこちらを振り返った。剣呑な光を宿したその双眸からは、かすかな敵意が見え隠れしている。

「君は明言しなかったけれど、そうだろう? あのお嬢さんに情報を注いだのは君ではなくあの女神だ」

 悠然とイーストは破顔した。こちらに他意はないと告げるように、声も気もひたすら穏やかに。それでもアスファルトの警戒が解けないことは重々承知だが、こちらも別に諍いを引き起こしたいわけではない。

 神の技術を使い神が力を注いだ者は、どう考えても魔族側の存在ではない。そう捉えられる危険性を恐れてだろうが、アスファルトはその辺りのことに今まで触れていなかった。しかしそうだという確信は、以前からイーストの内にあった。

「気の相性の問題だ」

 無愛想に返ってきたのは肯定だった。ここでうそぶくことに利を感じ取らなかったのだろう。

 こちらとしては、アスファルトを揺さぶる一つの好機を得たことになるが。いいや、彼が白状したということは、もうそんな事実など意味がないと考えているのか。

「なるほどね。それでひょっとして、あの女神がこの世界に戻ってくる前に連れ戻したいと焦っているわけか」

 深々と頷いたイーストは口角を上げる。

 あの女神――ユズは、別の世界からやってきた異端者だという。度々この研究所を訪れていたのだが、今は転生神キキョウの力となるために長期間不在となっているようだった。しかし、それは永遠にではない。

「君の女神は必ず戻ってくる。そうだろう?」

 いつか彼女は帰ってくる。それはアスファルトの態度を見ていてもわかることだった。

 そうでなければ、巨大結界の穴に気がついたからといっていきなり地球に乗り込んだりはしない。――ミスカーテの動きを牽制したかったとしても、もっとうまくやるのがこの男だ。

「……近々だ」

 紙束を指で叩いたアスファルトは、そっと視線を逸らした。その端正な横顔には苦い色が滲んでいる。

「あいつはオリジナルも気に掛けていた。おそらく転生神キキョウの言葉が絡んでいるんだろう。この時期を狙って、おそらく戻ってくる」

 なるほどとイーストは相槌を打った。ユズの帰還時期については推測するしかないのだろうが、しかし手がかりはアスファルトの内に幾つもあるようだ。あのレーナが地球にいたことも、きっと確信を裏付けるものになっているのだろう。

 記憶を取り戻したただ一人の転生神、キキョウ。その妹であり意志を継ぐユズ。彼女たちが『今』という時を重視しているのなら、いずれ動きがあるはずだ。

 その時にイーストたちが目覚めたのは、こうしてその時に居合わせることができるのは、果たして偶然なのか? いや、そこは問題ではない。とにかく、間に合ったことに今は感謝すべきだろう。

「それはなかなか大事だね。君の女神は手強いから」 

「手強いですめばいいな。動くのなら早い方がいいぞ、イースト」

 アスファルトの珍しい忠告に、イーストは口元を緩めた。突き放すようなことを言いながら、最後の最後でこの男はこう来る。見捨てるということが苦手なのだろう。

 それはいつまでも語られぬこの男の過去の影響なのか。イーストには知るよしもない。

「大丈夫。もう準備中さ」

 首肯したイーストは踵を返した。確認すべきことがすんだとなれば、長居は無用だった。ミスカーテを野放しにする時間は減らしたいし、レシガを退屈させる時間も短い方がいい。やらねばならぬことは数えきれぬほどある。

「君の快復を祈っているよ」

 おざなりに残した言葉は、灰色の壁で跳ね返って落ちていった。返る声はなく、代わりに鼓膜を揺らしたのはため息だけだった。




「滝先輩、梅花からの報告書です」

 中央制御室の扉が開くなり、リンの声がした。モニターから晴れた空を眺めていた滝は、立ち上がりながら振り返る。

「ああ、リンか。そういえば今日だったな」

 待機当番ではないせいか、彼女は珍しくも長いスカートをはいている。揺れる鮮やかな青い布が、白に包まれる室内では目映く見えた。

 急いで近づいてくる彼女の腕には白い紙の束があった。今日は梅花が宮殿に行くと言っていた日だ。このところの不穏な噂について、できるだけ確認してもらうことになっていた。

「はい。ただ梅花の話だと、例の宮殿陰謀論の話は表立っては出てないみたいですね」

 リンから紙束を受け取った滝は、続いて部屋に入ってきたシンを横目に相槌を打った。当番でなくとも一緒にいるのが当たり前らしい。仲の良いことだと微笑むべきか、最近は判断が難しい。このところのシンは、やけに滝の反応に過敏だ。

「まあ、噂の段階ですしね」

「だが技使いへの風当たりが強くなっているんだろう?」

 紙をちらと見下ろし、滝はため息を飲み込んだ。このところの異変――実際、魔族が攻め込んでいるのだから人々にとっては一大事だ――の原因を、宮殿に求める人々が増えている。

 それだけであればまだよかったが、どうやら技使いが宮殿側に加担しているという噂まで流れ始めているようだった。知らせてくれたのはミケルダだ。宮殿側はそれを神技隊にも隠しておきたいらしいが、念のためにと続報も教えてくれている。

「……はい。そのことでミケルダさんたちが大変みたいですね。戦闘があったことは隠しきれませんし。ミリカの件がありますし。皆が不安になるのは、しょうがないですもんね」

 モニターへと近づきながら、リンは浮かない顔をした。滝は小さく唸る。

 町を破壊することができるとなると、技が絡んでいる。それは技に詳しくない人間であっても、誰もがすぐに想像できることだろう。だからこそ技使いがやり玉に挙がっているに違いなかった。

 技使いではない人間が、技使いに抱く気持ちは複雑だ。そう耳にすることは珍しくない。便利な力。いつでも誰かを害することが可能な力。そんなものを持った人間がすぐ傍にいるという意味は重いらしい。

 何かあった時に対処してもらえるという保証があるから、気にせずに日常生活を送れるだけなのだと、そう直接言われたこともある。

 勝手に危険人物扱いされる側からするとどんな顔をすべきかわからない話だが、気持ちを想像することはできる。

 無世界で、いつ狙われるかとびくびくしながら過ごした日々のことを思い出せばよい。対抗手段がないというのは、思っていた以上に恐ろしい気持ちにさせられる。

「そうなんだが」

「でも嫌な話ですよね。何も知らない技使いも、疑われてるんですから」

 滝が言葉に詰まっていると、背後から近づいてきたシンが重い声でそう漏らした。その気にも苦々しさが滲んでいる。

 確かに、平穏な生活が脅かされているのは事実だ。不安に思うなというのは無理な話だろう。

 しかしそれを宮殿は守ろうとしているのに。自分たちなど、その矢面に立たされているというのに。なのに何も知らぬ人たちから疑われなければならないのか。

 もっとも、上の言動を怪しんでいた過去を思えば、勘ぐるのは当然なのだと理解はできる。今回の件も、きちんと説明していないのが問題に違いなかった。隠しているから、人々はあれこれと疑心暗鬼に駆られてしまう。

「なんだかやるせないですね」

 次第に空気が沈んでいくのが感じられた。滝は手元の紙を睨み付けながら言葉を探す。魔族の攻撃で、また町の一部でも破壊されるようなことになれば、一体どうなるのか。考えたくもない。

 と、不意に扉の開くかすかな気配が感じられた。顔を上げた滝は、おもむろに出入り口の方を見遣る。この気に覚えはなかったが、何故なのかはその主を見てすぐに納得した。想像したよりも低い位置にある顔がこちらを見上げるのが目に入る。

「お邪魔します」

 赤茶色の髪を揺らしながら近づいてきた少女の手には、大きな籠があった。まだ十歳だというこの少女の名はメユリ。先日この基地にやってきたばかりのジュリの妹だ。

「あ、メユリちゃん!」

 気づいたリンが目を輝かせ、ぱたぱたと走り寄っていく。メユリも顔をほころばせた。蓋の開いた籠からふわりと湯気が上がっているところを見ると、飲み物でも持ってきてくれたのだろうか。

「はい、リンさん。珈琲です。お姉ちゃんたちが持って行ってって」

「お手伝い? 頑張ってるのね」

 満面の笑みを浮かべたリンは、すぐさまその籠を受け取った。灰色に濁っていた空気が一瞬で軽やかなものへと変わったかのようだ。滝も思わず肩の力を抜く。子どもの前で重苦しい顔をし続けるわけにはいかない。

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