第2話「可能性の問題だよ」

「本当はこちらの戦力になるはずだったのにねぇ。どうして逃げ出したのかしら、あの子。プレインたちの前のめりな計画でも知っちゃったのかしら。だから言ったのにね」

 ほとんど独りごちるようにレシガがぼやくと、控えるフェウスの気に黒いものが滲んだ。イーストは何も言えずに口をつぐむ。

 プレインたちの計画というのは、申し子抹殺についての策略のことだろう。特にラグナとプレインは、力と知識を得ていたあのアースらを危険視していた。そして本計画の前に、全員の同意も得ずに、排除しようと動いていた。

 だからイーストは彼らを逃がすよう、アスファルトに忠告したのだ。

「本気で潰そうとすれば、本気で反撃される。プレインたちもそれはわかっていたはずなのにねぇ」

 レシガの指摘は、一体どの範囲まで含まれているのだろう。ふとイーストは疑問に思う。

 神との戦いを思い出す時、得も言われぬ違和感にさいなまされることがある。果たして、終わりはあるのだろうか? 自分たちが今の役目を手放したとしても、何も変わらないのではないか?

 そんな不安を打ち消したくて、顔を上げたイーストは口を開く。

「でもあのお嬢さんについては、ラグナたちは何も言っていなかったはずだけどね」

「ええ。なかなか目覚めなかったから、出来損ないくらいに思っていたのかもしれないわね。女形はどうこうと言っていたし。でもあのラグナが興味を示すようになるなんて、よほどのことよ」

 くつくつと笑うレシガの横顔を、イーストはちらと見た。先ほどとは違い、ほんのわずかな罪悪感はどこかへ消え失せたようだった。イーストはまたあの頃のやりとりを思い出す。

 まるで他人事のようだが、ラグナたちが敵視しないようにと、都合の良い情報を流していたのはレシガだ。

 女形と呼ばれる魔族の数が減ってしまってからというもの、彼女は特にそうした者たちを生かすことに心を砕いていた。敵であるはずのかの女神でさえそれとなく庇っていたその心中は、イーストでさえ推し量るのは難しい。

 ――単に彼女の心願に叶うものを愛でているだけ、という可能性もあるが。

「それはレシガがお気に入りだなんて言ったからだろう?」

 だがここでそんな裏事情を披露するわけにもいかず、イーストはそう言うにとどめた。先ほどから絶句したままのミスカーテは、仕方なく放っておくことにする。

 あの時のレシガの真意にラグナが気づいていたかどうかは知るよしもない。それでも何故だか眠ったままの少女に興味を抱いていたことは確かだった。

 だから目覚めたと聞き、わざわざ顔を見に足を運んだのだ。それがあんな事態に繋がるとは、誰も予測できなかった。

 そこでようやくミスカーテが息を吐く。その切れ長の瞳に宿っているのは怪訝な色だった。彼が何を言いたいのか、おおよそイーストも推測はできる。

「ですが、いくらなんでも彼女に、それだけの力があったようには……」

 案の定、遠慮がちに発せられたのはそんな言葉だった。その通りだ。ラグナを斬るだけの力が申し子にあるなら、今ここにミスカーテがいるはずがない。――既に打たれている。

「そうだね。少なくとも今のお嬢さんからは想像できない。力を発揮するには条件があるのだろうね。その辺りが一つの鍵かもしれない」

 静かにイーストは首肯した。あれは危機に追い込まれた時に引き出されるものなのだろうか。現状は、そこに至っていないだけなのか? それとも別種の何らかの事情があるのか。

 やはり情報は不足している。活動を続けていた同胞たちの証言を繋ぎ合わせても、確たるものは得られなかった。

 ただ部下たちの恐れようから、あの少女にラグナを斬るだけの力が隠されていることに疑問はなかった。

 ならば地球という環境がまずいのだろうか? その可能性はある。転生神アユリが巨大結界以外に何らかの『罠』を仕込んでいたとしても不思議はない。

 そもそも封印結界の崩壊を避けるため、あの少女が力を抑えているのは間違いないだろう。

「それを掴むには、炙り出すしかないかと」

 途端、ミスカーテがねっとりとした笑みを浮かべた。背後に控えるフェウスが、体を強ばらせたのが振り返らずともわかる。イーストは曖昧に頷いた。それも一つの方法だ。

「そういうやり方もあるね。でももう一つ、彼女から直接聞き出すという方法もある」

 そう指摘してやれば、予想外だと言わんばかりにミスカーテは瞳を瞬かせた。彼の中にそういった選択肢はなかったのだろう。それはプレイン派閥の特徴とも言える。外にいる者を、外に出た者を内に迎え入れるという発想がない。

「直接? イースト、また何か考えているの?」

 レシガが興味深そうにこちらを見遣ったのが視界に入った。その声には好奇心が滲み出ている。イーストは破顔した。こういう時、彼女は反対しないとわかっているから安心だ。

「ああ。彼女が逃げ出した理由がわかれば、こちらに織り込むこともできるかもしれない」

「イースト様、本気ですか?」

 さすがのミスカーテも慌てた声を出した。フェウスも動転した気を放っていた。二人にとっては信じがたい提案なのだろう。くすりと笑ったイーストは、揺れた髪を耳へと掛ける。

「可能性の問題だよ。何せ彼女の目的は、私たち魔族を滅ぼすことではないようだからね」

 かの少女については謎が多いが、部下たちの話から推測できることもあった。少なくとも彼女は魔族を憎んでいるから邪魔立てしているわけではなさそうだ。

 そうとなれば、可能性は皆無ではない。危険視したがために追い出した戦力をどうにか取り込むことができれば、形勢は一挙に変わる。

 これはラグナたちが復活する前に検討しておくべきことだろう。失敗しても、イーストたちに損はない。

「相変わらずね、イーストは」

 呆れたようにレシガが笑った。やはりその気に責める色はなかった。

 好悪や誇りで選択肢を減らすのは、イーストの望むところではない。そうでなくとも戦力は減る一方だ。神と魔族、どちらの戦力が先に尽きるかを争っているといっても過言ではないかもしれない。

「さて、それでは作戦会議といこうか。時間は限られている」

 苦笑したいのを堪え、イーストは肩をすくめるにとどめた。その声は灰色の室内にじんわりと染み入っていった。




 屋上へと出る扉を開けると、肌に突き刺さるような風が頬を撫でた。昨日のように雪交じりではないだけましだろうか。梅花はついと瞳を細める。

 朝焼けに染め上げられた空は、季節によって表情が違う。春はどこか華やかで明るく、夏は清々しく、秋は儚くも妖艶だ。冬の朝は空気が冷たいせいか、どこか凜とした面持ちをしているような気がした。

 特に今朝は澄み切っているように感じられる。それは欄干にもたれかかるレーナの後ろ姿が、堂々として見えるせいもあるだろう。その背中は決して大きくないはずなのに、何故か頼もしく見える。

 梅花がゆっくりと近づけば、彼女は悠然と振り返った。

「オリジナル、どうかしたのか?」

「ううん。レーナは何を見ているのかなと思って」

 歩きながら、梅花はコートの襟に手を掛けた。用心して羽織ってきたのだが、それでもやはり朝は冷え込む。吐く息の白さもそれを物語っていた。

 それなのにレーナはいつも通りの恰好だ。剥き出しになったままの膝を見ているだけで、こちらも寒くなってくる。

「何をってこともないが。強いて言えば空かな」

「考え事?」

「まあ、そんなところかな」

 レーナの横へ静かに並べば、強い風に髪が煽られる。梅花は慌てて手で押さえた。

 レーナの横顔は相変わらず、微笑をたたえたままだ。彼女はいつも何も言わないが、その奥で色々と考えているのだろう。それくらいは梅花にもわかる。

 魔族の動向が読みづらくなってからというもの、こうして頻繁に屋上に出ている。何か懸念があるのかもしれない。

「……今後のこと?」

「ああ。これからと、そして今までのこと」

 少しだけ踏み込めば、答えるレーナの声にわずかな寂しさが滲んだような気がした。梅花は固唾を呑む。

 レーナについて、梅花たちが知っていることは少ない。魔族や神については教えてくれても、レーナ自身の過去となるといつもごまかされてしまう。知る必要がないと言われればそれまでだが、気になってしまうのは仕方がない。

「後悔しているの?」

 咄嗟に口をついて出たのはそんな一言だった。失礼な問いかけだとわかっていても、聞かずにはいられなかった。何故だかそんな気がしたのだ。レーナの横顔と、纏う気から感じ取れる何かが、ざわざわと梅花の胸を揺さぶる。

「いいや」

 レーナはほんのわずかだけ頭を傾けた。端的な一言が、冷たい風に乗って運ばれていく。

「ただ、積み重ね方を間違えたかなと思うことはある」

 ついで弧を描いた唇から放たれたのは、予想外の言葉だった。梅花はまじまじとレーナの横顔を見つめる。

 それは悔いるのとは違うのだろうか? 在りし日のもしもを考えるのと同じではないのか? きっと梅花の気には疑問が宿っていただろうに、レーナは何も言わなかった。彼女の気は凪いだままで、そこに強い感情は含まれていない。

「振り返ったところで、どうしようもなかったものばかりだしな」

「それはつまり、もし過去に戻れるとしても、そうしただろうってこと?」

「大概は」

 レーナの口調は軽いが、その裏にしまわれた感情まで軽いとはとてもではないが思えなかった。色々あったのだろうと予想はしていたが、それはもう過去のものとして乗り越えてしまったわけではないのか。

 傷はなかったものにはならない。治ったように見えても、傷を受けたという事実も、その時受けた痛みも残る。それはその後の生き方に影響する。

 よくわかっていたはずなのに、何故かレーナは例外だと思っていたことに気づかされた。梅花はそっと瞳を伏せる。

 申し訳ないと思ってしまうことさえ、失礼に当たるだろう。そんな薄っぺらい感情は、彼女の重荷にしかならない。

「その時々の最善を積み重ねてきたつもりだが、全部が全部、正解だったとは限らない。それでもここまで来られたのだから、きっと間違ってはいなかったんだろう」

 ふいとレーナの声が和らいだ。やおら向けられた視線が穏やかで、梅花は何も言えなくなる。

「オリジナルに会うために」と言われた時のことを思い出した。いまだに自分にそのような価値があるとは到底信じられないが、レーナがそう思っていることを否定するつもりはなかった。そう思うことでレーナがどこか救われるなら、と。

「地図のない旅路のようなものだ。立ち止まらずにいられるなら、辿り着けるなら、それでいい」

 そう続けたレーナがくすりと笑った時だった。屋上へと続く階段に、見知った気が近づいたことを梅花は感じ取る。この気はアースだ。梅花はちらとだけ後方を振り返った。また風に煽られた髪が、はためく布のように揺れる。

「アースか」

 ぽつりとレーナも呟いた。その声にも、やはりこれといった感情は滲み出ていなかった。それはあえて何も表に出さないようにしているのだと、このところ梅花にもわかってきた。

 普段のレーナは言動と感情をひたすら切り離している。そして場と状況に応じて加減している。時に深刻に、時に軽やかに、時にわざとらしく振る舞っているのは、大体そうする目的がある時だ。

 その必要がなければ、レーナは大抵こうした淡々とした物言いをする。

「朝からずっとここにいるからじゃない?」

 梅花はわずかに首をすくめた。レーナがアースに対して日頃何を思っているのか杳として知れないが、逆は明白だ。アースはいつもレーナのことを案じている。

 この基地に住むようになってからもろくに言葉を交わすことはなかったが、彼の行動はわかりやすい。

 しばらくもしないうちに、背後の扉が開く音がした。風の鳴き声も弱まったせいか、その音はやけに強く鼓膜を叩く。

 肩越しに振り返ると、不機嫌なのをかろうじて覆い隠しているアースが見えた。彼は様々な思いを飲み込んだ様子で、一つため息をこぼす。

「いつまでここにいるつもりだ」

 語気は強いが、レーナに真っ直ぐ向けられた視線には呆れの色がある。こういう時、どうしてだかアースは心配しているという一言を口にしない。これも気づいたのは最近のことだ。

「ああアース。何か用か?」

「いや、用があるわけではないが……」

 破顔したレーナはさらりと聞き返した。アースがそう答えるのをわかっていて、あえて尋ねているようにも見えた。そういう意味では意地が悪いのかもしれない。

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