第4話「みんなの後を追っているのかもね」

 二つの気が、一直線に急降下してきた。それらに向かってリンは技を放つ。青い風だ。周囲の空気を巻き込むよう空へと舞い上がったそれは、竜巻のようにも見えた。

 迫り来る二つの気、その速度が落ちるのがわかる。あれに巻き込まれてはまずいと判断したのだろう。

 ついで、降りてきた気の一方がぶわりと膨らんだ。攻撃を仕掛けるつもりか? まだ目視で確認できる距離ではないから、シンの攻撃は届かない。

「結界は任せて!」

 けれども動じる者はいなかった。すかさず前へと飛び出したミツバが、頭上に結界を生み出す。青い風の下に生まれた透明な膜が、雲の合間から降り落ちてきた赤い光弾を次々と霧散させた。まだ薄明かりの朝に赤い光が散る。

「炎でここら一帯を焼く気か?」

 ホシワが小さく呻くのが、シンの耳にも届いた。なるほど、あちらはあちらで考えているのか。戦いが長引けば草原に引火する可能性は高くなる。つまり早めの決着が肝要だ。

「リン、引きずり落とせるか? オレが叩く」

「了解!」

 リンの傍へと寄れば、躊躇いのない返事が響いた。相手の能力がわからない以上、空中戦は避けた方がいいだろう。シンも長剣がなければ思うようには戦えない。一対一の状況だけは避けたかった。

 すぐさま、彼女は大きく右腕を振った。その動きにあわせて青い風の流れが変わる。少しずつ世界が明るくなる中で、その軌跡はまるで光の流れそのもののように見えた。

 ――来る。シンの直感がそう告げた。降りてきた二人の気の動きに、乱れが生じたのがわかった。リンの風に翻弄されたに違いない。シンは強く地を蹴り上げる。二つの気の一方が落ちるその地点目掛けて、彼は大きく飛んだ。

 緑へと足を下ろしたのは、月夜を思わせる容姿の男だった。金の髪をなびかせた、紺の衣に身を包んだ青年。その鋭い黄金の眼光がシンをねめつけている。やはり人間の持つ色彩ではない。人ならざる者だ。

 シンが構えると、月夜の男もこちらへと駆け出してくる。いや、そうしようとしたその直前に、その体が傾いだ。

 金の瞳に驚愕の色が滲んだところをみると、男の技ではない。よく見れば彼を中心にぼこぼこと土が盛り上がっている。これはおそらくホシワの技だ。対戦したのでシンの記憶にも残っている。ホシワは土系を得意としていた。

 今が好機だ。体勢を立て直そうとする男の方へ、シンは思い切って飛び込んだ。振り上げられた男の右手をかいくぐるように、一気に懐へと踏み込む。短剣に精神を込めれば、その刀身が淡く輝いた。

 それがただの武器ではないことに、男も気づいたようだ。しかし時既に遅い。半身を引いた男の脇腹へと短剣がめり込む。くぐもった悲鳴がシンの鼓膜を揺らした。がむしゃらに振られた男の左手が、飛び退くシンの髪をかすめる。

 同時に背後で誰かの声なき悲鳴が響き渡った。短剣を構えたまま気を探れば、もう一人の魔族の気が揺らいでいるのがわかる。あちらも大丈夫そうだ。

 胸を撫で下ろしたシンは、片膝をついた男をきつと見据えた。脇腹を押さえる手は赤く染まっているが、ぜいぜいと荒い息を吐いた男の双眸から光は消えていなかった。とどめにはもう一撃、必要だろうか。

 シンは息を呑んだ。それは名も知らぬ相手を殺す行為であると、今まさに実感する。

 だがここでこの男を取り逃がしたら、またミリカの町の惨劇が繰り返される。誰かの大切な場所が、人が、失われるかもしれない。それを防ぐために、力が欲しいと思ったのではないのか?

 背筋が冷たくなる。口の中が粘つく。それでも腹を決めたシンは、立ち上がろうとした男へと短剣を向けた。そして踏み出した足に体重を掛け、その勢いを利用して体当たりするように突き刺す。短剣を握る手が熱くなった。

 そのまま男の体は草原へと転がり落ちた。叫声とも呼べぬ、空気が漏れるような音だけが辺りへと染みる。

 肩で息をしたシンは左手で額を拭った。どっと汗が噴き出してきた。今さらながら急に鼓動が速くなる。ちらと視線を落とせば、短剣が赤く濡れていた。独特の臭いが鼻をつくような気がして、シンは眉根を寄せる。

 不意に、男の手がかすかに空へと伸ばされた。いや、そう思った次の瞬間には、それは光の粒子となって消えていた。顔を上げたシンは眼を見開く。

 ――そうだ、魔族の最期とはこのようなものであった。彼らは何も残さず消えていく。

「やったねシン!」

 後方からミツバの声がした。振り返ったシンはすぐに声を出すことができず、かといって反応しないわけにもいかず、曖昧に頷く。ぴょんと飛び跳ねたミツバの髪が、昇りつつある朝日に照らされて煌めいた。無邪気な声が朝の空へと吸い込まれる。

「そっちも倒したね!」

「そっちも」ということは、リンの方の魔族も葬ったのか。シンはゆっくり視線を転じた。すると風で乱れた髪を整えていた彼女と目が合う。彼女は一瞬何か言いたげな顔をしたが、それでも思い直したらしくにこりと微笑みかけてきた。

 シンは左手を上げる。どんどん日が昇れば、血だらけになった短剣が皆の目に留まってしまうだろう。彼女の得物をいきなり汚してしまったことに罪悪感を覚えつつ、彼はゆっくり歩き出した。

「無事なようでよかったです。ということは、そっちも?」

「うん。リンが倒してくれたよ! いきなり大勝利だね!」

 ミツバの嬉々とした声が鼓膜を揺らした。右手の重さを意識しつつも、シンはよくよく考えを巡らせる。

 ここで苦戦するのは、他の仲間たちにはいい影響がないだろう。ミスカーテの印象が強い分、魔族と聞くとどうしても太刀打ちできない相手のことを思い浮かべてしまう。そうではないのだと皆に知らしめられたのは幸いだ。

 そして最初の重さを、他の者に押しつけずに済んだのも幸いかもしれない。

「どうかしたのか? シン」

 そこでふいと、近づいてきたホシワが訝しげに問いかけてきた。こちらを見下ろす眼差しには懸念の色がある。シンは慌てて首を横に振った。ホシワは察しが良いのだと、滝から聞いたことがあった。余計な心配をかけている場合ではない。

「いや、何でもないです。その、ちょっと剣を血だらけにしてしまったものだから」

 シンは軽く右手を見下ろした。刀身はいまだ血濡れたままだ。魔族の体そのものは瞬く間に消えてしまったというのに、どうして返り血は残っているのだろう。まるであの魔族がこの世に存在したことを、消すまいとでもしているかのようだ。

「リンに悪いなって」

「あーもう、そんなこと気にしないで!」

 そこへぱたぱたとリンが走り寄ってくる。いつもと同じ溌剌とした声音だったが、朝焼けの中でもその顔がわずかに青ざめているのがわかった。慌てて短剣を引っ込めようとすると、彼女の手が真っ直ぐ伸びてくる。

「こんなの貸しちゃったのが悪かったのよね」

 赤い拳ごと両の手で包み込まれて、シンは動転した。リンの手まで汚す必要などない。だが手を引っ込めようとしても、彼女はそれを許さなかった。

「嫌な役回りさせてごめんなさい」

「いや……」

「だって、こんなの、後味悪いでしょう?」

 そのまま気遣わしげに見上げられ、シンは閉口した。全く何も伝えていないつもりなのに、彼が感じ取った重みまでわかってしまうのか?

 隠し事など無駄だと言われているようでいたたまれなさを覚える。同時に、ほっとする気持ちもあった。

「魔族っていったって見た目は人間と同じだものね。刺す感触だってあるものね。……あの恨みがましい目を見ただけで、私も嫌な気分になったわ。前に梅花が言ってたこと、ちょっとだけわかったかも」

 拳に触れるリンの手が震えた。シンは固唾を呑む。近づいてきたホシワとミツバが何か察したように目を見張ったのが、余計にシンの胸にも染みた。

「ラウジングさんが、レーナと戦った後から、ずっと様子がおかしかったの。あれってたぶん、こういうことじゃないかって思うのよ。必要なんだって思っていても、それでも自分の手が誰かの命を奪うのってきついわね。意思のない、怪物みたいな相手と戦うのとは、やっぱり違うわ」

 リンの唇が引き結ばれる。シンはようやく全てを理解したような気がして、血に濡れた短剣を見つめた。自分たちがこれから立ち向かわねばならない戦いというのは、こういうものなのだ。

 ――心が折れた者から負ける。以前シリウスが何を言いたかったのかも、ようやく腑に落ちたような心地だった。

 自分のしていることが正しいと、それしかないのだと信じられなければ、迷いがあれば、たとえ勝利したとしても次が戦えなくなる。

「そうだよな」

「うん。もしかして私たちって、みんなの後を追っているのかもね」

 手を離したリンはやおら頭を傾けた。ふわりと揺れた黒髪の影で、彼女の瞳が何か考えるよう細められる。

「誰もが通る道だなんて言っていいのかはわからないし、嫌な話かもしれないけど、でも先人がいるのって心強いと思ってもいいのかしら」

 リンが何を言わんとしているのか、シンは咄嗟に飲み込めなかった。瞠目してしばし考え込み、ようやく何かがすとんと胸に落ちる。

 一人ではない。ただそれだけのことが、今はとにかくありがたかった。困った時に手を差し出してくれる人がいることも、一緒に悩んでくれる人がいることも、この上もなく幸せなことだ。

 ――たとえどんなに理不尽な状況に置かれていたとしても。

「ね、シン。帰ったら先人たちに聞いてみましょう。心を折らないために」

 そう言ってふわりと微笑むリンに、シンはゆっくりと首肯した。そしてそっと明けつつある空へと一瞥をくれた。




 モニターを見上げていた青葉はほっと息を吐いた。大丈夫だとは思っていても、勝利の瞬間を確認するとどっと肩から力が抜ける。

「勝った……」

 中央制御室に集まっているのは青葉を含めて五人だった。放送をかけていたレーナの他は、青葉と梅花、そして滝とレンカである。たまたま食堂へ行こうとしていたところだったため、そのまま真っ直ぐここに駆けつけてくることになった。

 じきに他の仲間たちも辿り着くことだろう。あの放送は強烈だったから、そのまま寝てなどいられない。

「さすがシンにいとリン先輩。あっさりだ」

「ホシワ先輩、ミツバ先輩の援護も的確だったしね」

 青葉が胸を撫で下ろすと、その横で梅花も安堵の声を漏らしていた。緊張していたのは彼女も同じらしい。その横顔はいつになく優しかった。

「ああ、最初が肝心だからな。あいつらでよかった」

 次に答えたのは滝だ。モニターを見上げつつ相槌を打つその姿にも、人心地ついたといった感情が滲んでいる。皆同じだ。

 普段はただ外の景色を映し出しているだけのモニターだが、パネルをいじればカメラを寄せることができるらしい。だが音までは拾えない。

 だから戦闘が終わったシンたちがどんな言葉を交わしているのかまではわからなかった。勝ったというのに、どこか浮かない顔をしているのは気にかかる。

「うーん」

 気になると言えば、前方でパネルをいじっているレーナもだ。先ほどから彼女は左手を顎に添えて唸っている。何か引っ掛かることがあると言わんばかりの気を漂わせつつ、時折モニターの方へ目を向けていた。

「レーナ、何かあるの?」

 意を決したように問いかけたのはレンカだ。澄んだ声が天井の高い空間で反響する。ゆっくり近づいていったレンカへと、振り返ったレーナは微苦笑を向けた。

「いや、何かがあるというわけではないんだ」

「でも気になることがあるんでしょう?」

「イーストにしては、らしくない人数だなと思ってな」

 一つ頷いたレーナは、また考え込むように頭を傾けた。青葉は眉根を寄せる。人数が「らしくない」とはどういう意味だろう?

「この人数は、まるで使い捨てみたいで。明らかに勝てないとわかっていて寄越しているのが、イーストらしくない」

 そう説明されても青葉にはぴんとこなかった。そもそもイーストという魔族のことを全く知らないのだから当然か。

 だが確かに、これだけあっさり倒すことができる人数というのは違和感があるのか。――よほど舐められていると思えば腹が立つが、こちらにレーナがいることは相手だってわかっているだろうに。

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