第4話「美味しいものは分け合わないとね」
「そうだよね、美味しいものは分け合わないとね。だからはい、レーナ」
意気揚々と籠からクッキーを摘まみ上げたイレイは、目を輝かせながらそれをレーナへと突き出した。その行動はアサキも予想しなかった。
レーナは困ったように笑いながら、ちらとだけアースへ一瞥をくれる。二人の背後に立つアースは先ほどから無言だ。負の気を纏っているわけではないが、威圧感がある。アサキは妙な緊張感を覚えた。青葉との違いは一体どこから来るのだろう。
「ちゃんとレーナも食べてね。はい、アースも!」
けれどもイレイは意にも介さない。クッキーを一つレーナに握らせると、今度は振り返ってアースにもクッキーを押しつけた。
この強引さはイレイにしか発揮できないだろう。アースが困惑気味にクッキーを見つめるという珍しい光景を横目に、アサキはさらに笑顔を心がける。
「ほらほら、美味しいよ」
クッキーを口へと放り込んだイレイはすぐにそれを咀嚼した。やはり誰にも真似できない芸当だ。くすくすと笑ったレーナもクッキーを一囓りする。
その見慣れぬ様子を思わずまじまじと見つめてしまってから、アサキははっとした。ここで黙り込んでいてはいけない。会話は始まったのだから次の段階だ。
「ところで、こんなところで何をしてたんでぇーすか?」
このまますぐに立ち去っては、わざわざ訓練室まで来た意味がない。できる限り自然な振る舞いを意識してそう問いかければ、もう一枚クッキーを頬張ったイレイがぱっと目を輝かせた。
「あのねー、えっとねー」
「ちょっと相談事だ」
もごもごと喋り出そうとするイレイの背中を、レーナがぽんと叩いた。食べながら話すなとでも言いたいのか。どこか見覚えのあるやりとりだ。するとイレイはすぐさまクッキーを飲み込んだ。その喉の動きは慌てた時のようのものと同じだった。
「うん、そう。相談事! 話し合い! 僕たちの部屋についてだよー」
イレイの声がますます弾んだ。思わぬ単語にアサキは目を丸くする。部屋。そうか、彼らにも部屋が必要なのか。
考えてみると、イレイたちは今までずっと五人一緒に生活していたはずだった。――いや、生活していたという表現が彼らにも当てはまるのかどうかはわからないが。どうやら食事も睡眠も必要はないようだし。
「い、今まではそういうのはなかったんでぇーすよねぇ?」
「うん。洞窟暮らしだよ」
「だから我々の分はいらないかなと思ったんだが……カイキたちが個室が欲しいと強く主張してな。それで検討していたところだ」
思い切ったアサキが問いかければ、そんな答えが返ってきた。カイキたちの主張と聞いて、アサキは咄嗟に事情を察する。イレイが個室を欲するとは思えないので、おそらく訴えたのはカイキとネオンの二人だろう。要するにそういうことだ。
アサキはこっそりアースへと目を向けた。黙ってクッキーを食べる横顔はどこか不機嫌そうにも、満足そうにも見える。これは意外だ。
「僕は皆と一緒がいいから、いらないかなと思ったんだけど。でもベッドって奴には飛び込んでみたいかなぁ」
アサキの思いには気づいた様子もなく、イレイは無邪気にそう続ける。そして籠を抱えたまま夢見るように天井を見上げた。
なるほど、彼らはまともな寝床というものも経験したことがないのか。それは若干かわいそうにも感じるが、人間の感覚で考えてはいけないのだろうか。
「まあ、場所がないわけではないのだが」
微苦笑を浮かべたレーナは、それでも特段嫌そうには見えなかった。これだけの設備を作ったのだから、今さら部屋を増やすことは問題ではないのだろう。つまり、反対しているのは一人ということだ。アサキはまたアースへと一瞥をくれる。
「でもね、アースがレーナを一人にするのは駄目だって」
予測を裏付けるよう、イレイが即座に付言した。イレイだから言えることだ。ここでなんと反応すべきかとアサキは逡巡する。カイキたちがいない理由も察せられた。おそらく逃げたのだ。
「ま、まずいことでもあるんでぇーすかぁ?」
「誰も見てないと、レーナはずっと動き続けるから……」
怖々と尋ねてみれば、イレイはもごもごと口を動かした。すぐさまアサキは梅花の行動を思い出す。
必要とあらば常に仕事を続けていた梅花と同じだとすると、確かに動きっぱなしだ。しかもレーナには睡眠も食事も必要ではない。梅花には必然的に訪れる食事の時間、睡眠の時間というものが、レーナにはないのだ。
「それは確かに心配でぇーす」
「でしょ? だからアースが反対してるんだ」
イレイは深々と頷く。その件に関してレーナが何も言わないのは、散々説得を試みた後だからだろうか? 片腕を抱えた彼女は、どうとでも受け取れるような微笑みをたたえて黙している。
こと彼女に関して、アースが一歩も譲らないだろうというのは想像できることだった。敵側から観察していた時でも如実にわかる。妙な話に首を突っ込んでしまったとアサキが内心で悩んでいると、黙り込んでいたアースがこちらを睥睨してきた。
「実際、この建物を作り始めてからは休みなしだからな」
冷たい気がざらりと背を撫でるような感触に、アサキは固唾を呑んだ。「お前たちのせいだ」とその双眸が訴えている。
この基地とやらの機能は目を疑うものばかりだ。これだけのものを短期間で作り上げるために何が行われていたのか、アサキたちには知るよしもない。
しかしいくらレーナといえども、大作業であることは想像に難くなかった。休む暇などあるはずもない。アースが接触を拒んでいるのはそういう理由なのか。
「うん、だからアースの心配もわかるんだけどさぁ。あ、それならアースとレーナが一緒ならいいんじゃない? 部屋が欲しいのはカイキたちでしょ?」
だがそんな微妙な空気をも、イレイは気にしない。名案が浮かんだとばかりに手を叩き、顔を輝かせた。アサキはすんでのところで噴き出すのを堪える。それはあまりにも、あまりにも難がある選択だとは思うが。そう考えてしまうのは人間の発想なのだろうか?
「……え?」
どうやらそれはレーナにとっても問題だったようだ。頭を傾けて一瞬動きを止めた彼女は、おもむろにイレイへと視線を向ける。当のイレイは何も考えていないような顔で不思議そうに瞳を瞬かせていた。アースの表情を確認する勇気はなく、アサキもただただイレイの横顔を見つめ続ける。
「え、なにレーナ、嫌なの?」
「いや、その、嫌というか……。できるなら作業場も欲しいし」
レーナは言葉を濁す。とんでもないところに顔を出してしまったことを、アサキはますます実感した。
彼女が遠回しに拒否をしている理由については憶測するしかないが、五人一緒と二人きりという状況に大いなる違いがあることは予想できる。二人が既に恋人同士だというのなら話は別だが、今の言動を見る限りそのようではない。
アサキは恐る恐るアースの様子をうかがった。彼はしかめ面のまま口をつぐみ、レーナの後ろ姿を凝視していた。彼女の反応を見ているといった方が正しいかもしれない。
やはりこの二人の関係にも何かがありそうだ。今のアサキの距離感では触れられるものではないが、カイキたちが逃げ出したことを考えると、距離感の問題だけではないのだろうか。
「えー、駄目なの? アースは気にしないと思うけど。あ、じゃあアースとレーナの部屋の真ん中に扉をつける! これでどう? これならいつでも監視できるよ!」
と、イレイがさらに強く手を叩いた。アサキはさらに顔を強ばらせた。それは部屋が同じことと何が違うのだろうか?
「監視……」
レーナは困惑気味に小首を傾げ、そこでようやくアースの方へと肩越しに振り返った。まるで「これならよいだろうか?」と許しを請うような、そんな様相だった。ますます二人の関係がよくわからなくなる。実力でも知識でもレーナの方が勝っているように思えるのだが、力関係ではアースの方が上らしい。
「……お前がいいなら、それで妥協する」
アースは深々と嘆息した。これでようやく話がまとまった。喜んだイレイがぴょんと飛び跳ねるのを横目に、アサキは肩の力を抜く。青葉たちの関係を見守っている時よりも疲れるのは、慣れていないせいか。
それでも、敵なのか味方なのかと考えている時よりはずいぶんと気が楽だった。仲間たちと同じ顔の存在と戦う、あのやりづらさよりはましだ。そう考えれば、こんな悩みは些細なものになるだろうか。
「やったね!」
「ああ、わかった。ではその方向で部屋を作る。イレイもこれでいいな?」
「うん! ベッドよろしくね! 丈夫な奴!」
瞳を輝かせたイレイは、抱えた篭からまたクッキーを一つ摘まんだ。ふわりと漂う甘い香りにアサキも頬を緩める。やはりお菓子はよい。これはまた今後も言い訳に使えるだろう。美味しい物を分け合うことは、仲良くなる秘訣だ。
いつかまた別の困難にぶつかるのだとしても、せめて今くらいはささやかな平穏に思いを向けたい。そんな願いを胸に抱きつつ、アサキは真っ白な天井へと視線をやった。
中央制御室にいる時間が長くなっていることは、誰に指摘されるまでもなく明かであった。自室にいるよりも皆が声が掛けやすくなるらしいという理由もあるが、相談事をするのにもここは便利だ。
部屋の中央に位置する椅子へと腰掛けた滝は、咄嗟にあくびを飲み込む。早朝にレンカが淹れてくれた珈琲は既に冷めつつある。梅花との話し合いが長引いたせいだろう。これは彼女のせいではないが。
傍にある小さなテーブルへと、彼は視線を落とす。そこに置かれた紺色のカップももう見慣れてしまった。
この白を基調とした場所に少しでも彩りが必要であるとの結論が一致し、新調した食器類は色のある物ばかりが選ばれていた。特に滝が好んで使っているのはこれだ。無世界の「幽霊屋敷」で使っていた物と似ているからだろう。あの生活も、知らぬ間に染みついていたようだ。
「滝、ジュリが来たわよ」
そこで背後の扉が開く気配がした。ほとんど音はしないが、それでも空気の動きが伝わってくるような気がするのだから不思議だ。
立ち上がって振り返れば、篭を抱えたレンカの後ろにはジュリがついてきていた。珍しくもジュリだけだ。普段は大体よつきたちか、そうでなければリンたちと行動を共にしていることが多いのに。
「はい、朝のパン。まだ食べてないでしょう?」
「悪いな」
レンカが手渡してくれた篭からは香ばしい匂いがした。まだまだ料理班の準備は整っていないはずだが、彼女は時折こうして差し入れをしてくれる。ともすれば滝が食事を忘れがちなのがばれているからだろう。苦笑をしつつ受け取った彼は、そのままジュリの方へと視線を転じる。
「それで、オレに何か用か?」
「すみません、お忙しいのに」
「いや、忙しいというよりもつい忙しくしてしまうだけなんだが。で、何かあったのか?」
滝が首を捻れば、ゆっくりジュリは近づいてくる。彼女は掃除班のリーダーだから、その件だろうか? 別に彼が統括しているわけではないのだが、皆は当たり前のようにそう扱ってくる。それをいちいち指摘するのも面倒になっているので、この頃はあえて気にしないようにしていた。
「我が儘だってことはわかっているのですが、一つお願いがありまして」
ジュリはわずかに目を伏せた。予想外な切り出し方だ。彼女のそんな様子は初めて見ると、滝は思わずレンカと顔を見合わせる。レンカの表情を見る限りでは、彼女も事情は知らないようだ。
「あ、ああ。とりあえず内容を聞いてみようか」
「ここへ、妹を連れてきたいんです」
顔を上げたジュリの双眸が、真っ直ぐ滝へと向けられた。その茶色い瞳には一切の迷いが見られなかった。言われた意味を飲み込みかねて、彼は瞬きをする。妹。その響きが奇妙に鋭く耳に残った。
「それは、つまり、この基地に住まわせたいってこと?」
彼が思考を止めている間に、要求を察したらしいレンカがそう問いかける。ジュリは即座に頷いた。はっとした滝は顔をしかめそうになる。今この瞬間まで、彼の中にはそういう発想など全くなかった。
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