第6話「お前が言うと嫌味みたいだな」

「たぶん、陸ならちゃんと残してるはずだから」

 青葉は独りごちた。口数が多くなっていることは自覚していたが、梅花は何も言わなかった。

 本当は、やっぱり顔など合わせたくはない。しかしゆっくりとでも歩き続けていれば家は近づいてくる。その荒れた庭で、何かが動くのが見えた。

 彼は思わず息を呑み、足を止めかけた。心臓がかすかに軋んだ。彼は瞬きをしつつ感覚を研ぎ澄ませる。思わず長いため息を吐きそうになった。

 家の中にいるとばかり思い込んでいた気が、実は外にあった。口の中が粘つくような感触がする。

「親父だ」

 小さく囁いたのは、ほぼ無意識だった。青葉の父――積雲は、厳格で寡黙な人間としてここらでも知れ渡っている。技使いを快く思っていないのも知られていた。

 が、無論だからといって誰彼かまわず喧嘩を売るほど子どもではない。むしろ彼は引きこもって生活していることが多かった。

「珍しい」

 だからこそついそう呟いてしまう。ほとんど書斎にこもっているような父だからこそ、青葉も言葉を交わさずに過ごすことができていた。そんな父が、秋も深まってきたこの時期に庭に出ているとは。

 足下を見ていなかったせいで、つま先が小石を蹴った。それはでこぼことした土の上を勢いよく転がり、前方の石にぶつかった。思いの外軽やかで甲高い音が辺りに反響する。

 積雲が顔を上げた。その双眸が真っ直ぐこちらへ向けられるのを、青葉は無感動に見た。記憶にあるよりもずいぶんと老けた印象の父に年月を感じさせられる。乱雲がやけに若く見えていただけに、余計に年老いて感じられるのかもしれない。

「……出戻りか」

 眼を見開いた積雲は、その場でおもむろに立ち上がった。庭をいじるような恰好ではなかったから、本当に偶然出てきただけなのかもしれない。

 ここで何と答えるのが適当なのか、青葉には判断しかねた。この父にまともに言葉が通じた経験がない。――いや、それならむしろ何も悩むことはないのか。

「仕事中だ」

 たった一言だけ、青葉はそう告げた。神技隊を辞めさせられたわけでもないし、この家に戻るつもりもないと、暗に端的に述べる言葉だ。伝えるべきはそれで十分だった。これ以上の情報をこの父に与えたくもない。

 張り詰めていく空気の音が聞こえるような錯覚に陥る。後ろで梅花が困惑の気を漂わせた。けれども技使いではない積雲にはそんなことなど伝わるはずもない。

 青葉はちらと肩越しに振り返る。彼女はいつもの無表情はそのままで、ただ視線だけが「それでいいの?」と尋ねていた。

「玄関はそこだから」

「でも……」

 積雲の後ろを指させば、梅花は静かに小首を傾げた。積雲を無視して家に入ることには抵抗があるのだろう。彼女は戸惑ったように瞬きをして、ちらと積雲の方へと双眸を向ける。

「初めまして。乱雲の娘の、梅花です」

 ついで梅花はゆっくり頭を下げた。口調は穏やかだったが、声ははっきりと響いた。はっとしたように積雲が息を呑む気配が感じられる。いや、それは青葉自身のものだったのかもしれない。彼女がそう出てくるとは予想していなかった。

 絶句した積雲は、その事実を飲み込めていないようだ。当然だろう。まさかこんなところで姪と顔を合わせることになると、一体誰が想像できようか。

 積雲の動揺を誘えたことに、青葉は若干胸のつかえが取れる心地がした。しかし同じくらい梅花の心中が心配でもあった。彼女の気が凪いだままであることがせめてもの救いか。

「父が、よろしく伝えて欲しいと言っていました。この世界にはいないので、もう会うことはないでしょうがと」

 抑揚の乏しい彼女の声は、積雲の耳にも届いたのかもしれない。ぱちりと音がしそうな瞬きをしながら、積雲は唇を引き結んだ。そこに明確な感情は浮かんでいなかった。

 父のそのような表情は初めて見るような気がして、青葉は不思議な心境になる。青葉の知る積雲はいつも難しい顔をしているか、苦々しい眼差しを向けてくるか、そうでなければどこか遠くを見て嘆息していた。虚を突かれた風に黙り込むことはない。

「それでは失礼します」

 梅花はまたぺこりと頭を下げる。彼女は父の思いをせめて伝えたかったのだと、ここでようやく青葉は気がついた。それが目的だったのか。

 もう二度と神魔世界に戻ることのない人間として、それでもかつての家族に一言だけでも伝えたいと思う心は何なのだろう。青葉には想像できなかった。

 ――いや、一つだけわかることはある。あなたを忘れているわけではないという意思表示だ。

「青葉」

 息を呑んでいると、ぐいと袖を引かれた。我に返った青葉が視線を下げれば、梅花は困ったような微苦笑を浮かべてこちらを見ている。気遣わしげな彼女の眼差しに、胸の奥が軋むようだ。

「行くんでしょう?」

「あ、ああ」

 頷くと同時に風が吹き込み、辺りの草木を撫でた。手入れされていない庭の雑草も一斉にざわめいて、まるで急き立てられているような心地になる。

 青葉はここを捨てたのだと、今ならわかる。神技隊に選ばれたと宣言した時、泣きそうな顔をする弟と、無表情に視線を逸らした父を眺めながら感じたものは、それだった。この思い出の地に背を向けることを、青葉は選んだのだ。

 どれだけ各地を放浪しても、結局彼にはここしか戻るところがなかった。それが悲しく歯がゆく、後ろめたかった。しかしあの時彼はここを拠り所とすることを止めた。

「悪いな。たぶんすぐ終わる」

 青葉は咄嗟に梅花の手を取った。半ば無意識の行動だったが、彼女はそれを振り払ったりしなかった。その小さな手のひらが冷たくなっていることに、時間の流れを感じる。秋も深まっているから当然だろう。やはり長居はよくない。

「あいつめ」

 歩き出した青葉の耳に、そんな積雲の呻きがかろうじて届いた。彼の気に滲んでいるのが恨みだけではなかったことに、青葉は少しだけ胸を撫で下ろす。

 乱雲の残したものがどう響くのかは知れないが、梅花はきちんと役目を果たした。後は父の問題だ。

 積雲の横を通り過ぎ、荒れた庭を抜けると、見慣れた玄関へと辿り着く。その先も記憶の中と変わりなかった。扉の立て付けの悪さも同じだ。

 戸を開けば、薄暗い廊下が視界に飛び込んでくる。若干埃っぽく感じられるのは、掃除が行き届いていないからだろう。弟が長期間不在なのだとしたら、積雲だけでは手に余るのも理解できる。

 そもそも積雲は家事全般が苦手だ。母が甘やかしていたせいもあるだろうが、手先が不器用なのは見ているだけでも明らかだった。その分、母がいなくなってからは青葉たちがやらなければならなかったわけだが。

「広いのね」

 後ろをついてくる梅花は、周囲を見回しながら物珍しそうに言う。彼女が一般の家というものをどの程度知っているのかは聞いたことがなかった。もしかすると、中に入ったことはないのかもしれない。

「どちらかと言えばそうだな。ひいばあさんの代からここにいるらしい」

 掴んだままだった手を離した青葉は、そのまま真っ直ぐ二階を目指した。一階に用はない。上には部屋が幾つかあったが、目的とするのは弟との共同部屋だ。

 昔は祖母が使っていたところだというが、青葉には祖母の記憶がなかった。全て母から伝え聞くものばかりだ。母は嬉しそうにそういった話を色々してくれた。

「そんなに昔からなのね」

「ああ、この辺は何もないから技使い向きだって理由らしい」

 慎重に足を進めても、階段はギシギシと鳴る。そろそろ修理の申請が必要な頃合いかもしれない。

 神魔世界では、家は全て契約制だ。住居の確保は各長によって保証されており、最低限のものは必ず与えられるようになっていた。この辺りの家屋に立派なものが多いのは、町中から外れているためだ。

 本当に最低限の等級の家屋はもう少し狭いが、ここらなら少し等級を上げたとしてもさほど追加金が掛からない。技使いの子どもが思いっきり遊べて、それなりの人数が住める場所という理由で、この家が選ばれたようだった。

 そう考えてみると、あの乱雲もここで育ったことになるのか。青葉はあらためてその事実を噛みしめる。なるほど、梅花が興味津々に見ているわけだ。ここは彼女の父にとっても故郷に当たる。

 二階の古びた扉を開ければ、その先にも見慣れた風景が広がっていた。家具の配置も変わらない。

 青葉はすぐさま視界に入った棚の方へと向かった。雑多に色々な小物が乗せられているが、ほとんどが弟のものだ。そのうちの一つ、写真立てへと青葉は手を伸ばす。

「あった」

 かつて、まだ母が生きていた頃の写真。それは貴重な物だ。無世界とは違い、神魔世界では写真を撮るのは一般的ではない。持ち運べるカメラというものが流通していないせいだ。

 しかし母は何かの記念の際には写真を撮りたがった。写るのを嫌がる父を説得し、何回かは家族皆で撮ったようだ。その最後の一枚がこれだった。

 手に取った写真立てを見つめていると、横から梅花がのぞき込んでくる。

「写真?」

「あ、ああ。これは弟の分。オレのは後ろのだけど」

 幸福だった時代の証をあまり目に入れたくなくて、青葉はその大事な一枚を弟の写真の後ろに隠していた。弟のと微妙に表情が違うのは撮り直したからで、どちらも選びがたくて母は両方もらってきた。それをずっと宝物のように扱っていた。

 ――そんな母でさえ、あの父は疑っていたのだ。

「全然色褪せてないな」

 写真立ての後ろから取り出した一枚は、記憶にあるよりも色鮮やかだった。いつ見ても母の笑顔は眩しい。彼女は家族の太陽だった。彼女がどうして父を選んだのかが、青葉にとっての最大の謎だ。

「お母様? 綺麗な人ね」

 梅花がしみじみと言うのが何だかおかしくて、青葉は肩をすくめた。お世辞だと思わないのは、彼女がそういった物言いをしないと知っているからだ。

 母は確かに身綺麗にしていたが、特別な美人ではなかった。滝たち一家を見て母がいつも「絵本の中のような美男美女家族だ」と羨んでいたのも覚えている。

「お前が言うと嫌味みたいだな」

「どうして?」

「……お前の方が綺麗だからだよ」

 躊躇うのをぐっと堪えて正直なところを告げれば、梅花は心底驚いたように目を丸くした。

 その反応があんまり素直なものだから、「自覚ないのか」と言って苦笑することもできなかった。彼女が今まで受けてきた扱いについて思いを馳せるのも辛い。青葉はわずかに右の口角を上げた。

「まあいいや。とりあえず、持って行きたいのはこれだけだ」

 この写真を破り捨てようとした時があったことを、青葉はつい苦々しく思い出す。

 あれは酔った父が口走った一言が原因だった。父が一体何を疑い、何に怯えていたのかを知った瞬間だった。――父は母の不貞を恐れていた。母は最期まであんなに父を案じていたのに。

 あの日を境に青葉はことあるごとに理由をつけて友人の家に転がり込むようになった。この家に戻ると吐き気がして、気が狂いそうになる。そう思ったから離れることにした。

「用はここだけだ」

 写真を上着のポケットに突っ込んで振り返れば、梅花はまだ不思議そうに小首を傾げていた。しかしこんな話を彼女にするわけにもいかない。意を決した青葉は、また彼女の手を強引に握った。

「帰るぞ」

 父を許せないという思いは今日まで変わりなかった。何も知らぬ他人は容易く「仲直りせよ」と助言してくるが、きっと今後もこのまま変わることはないだろう。梅花が何も言ってこないのは、青葉にとっては救いだ。

「うん」

 静かに首を振る梅花が何をどこまで知っているのか、気にならないわけではない。だがどんな情報が渡されていたのだとしても、青葉の内心まで伝わっているはずもなかった。

 彼はいまだ外にいる積雲の気に思いを馳せ、唇を引き結んだ。この道を選んだこと自体は後悔していない。だが置き去りにした弟にだけは、いつか懺悔したいと願い続けていた。

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