第5話「まさか何も聞いてないのか?」

 苦痛な時間というものには何度も覚えがあったが、滝にとってこれはかつて経験したものとは別種の苦しみだった。ため息を飲み込む努力を一体どれだけ重ねてきただろう。隣にレンカがいなければ、数回はこぼしていたかもしれない。

「ここで最後みたいね」

 皆がそれぞれの故郷へと戻ったため、取り残された滝たちは仕方なく建物を見て回っていた。二階三階の部屋は聞いた通り同じ作りだったし、四階はまだ未完成のようだった。最後に一階へ降りてきたのだが、そこで問題が生じた。

「そうだな」

 食堂や大浴場がある一階の廊下の突き当たりには、大きな空間が存在しているようだ。そこにレーナたちがいるのは気で感じ取れた。

 このまま引き返してもよいのだが、その先に何があるのかは気になる。大体、ここまで来ているのはあちらにも伝わっているはずだ。あからさまに避けているというのも大人げない態度だと思う。だが、気は進まない。 

「何があるのかしら?」

「ちょっと、のぞいてみるか」

 けれどもずっと避け続けるのも不可能だ。決意した滝はそうレンカに声をかけ、ひっそり喉を鳴らす。彼女が断らないことはわかっていた。ただ彼の決心がつかなかっただけだ。

 廊下の奥にある扉は、逆側の端にあった扉と似ていた。左右に開く形だ。彼はかろうじてわかる程度の窪みに指を掛け、ゆっくり力を込める。見た目よりも重量感のある扉が、静かに開いた。

 その先も白だった。何もないただひたすら広い空間が、一面の白。それは雪に覆われた晴天下の草原にも似ている。滝はつい瞬きをしながら辺りを見渡した。物一つ置かれていない空間は、天井まで真白で統一されている。

「な、何なんだここは」

「何だと思う?」

 思わず独りごちると、左手から声が返ってきた。廊下よりも一段とよく音が響くのは、床の材質でも違うのだろうか。

 固唾を呑んでやおら視線を向ければ、壁に片手をついたレーナがこちらへ顔を向けたところだった。相変わらずの余裕の笑顔だ。彼女から少し離れたところにはアースたちもいる。ただ彼らはちらと視線を寄越しただけで、すぐにそっぽを向いた。

「まあそう固く考えるな。中でも技が使える空間が欲しいだろう? それで作ってるんだ」

 レーナが手の甲でこんと壁を叩くと、小気味よい音がする。

 滝は思わず顔をしかめた。一体どういう理屈からそのような発想に至ったのだろう? 中で技など使ってどうするのか。わからず滝が首を捻れば、続いて入ってきたレンカがぽんと手を打った。

「それって、もしかして。訓練用ってこと?」

「ま、そんなところだな。武器だって試しに使ってみたいだろう?」

 つまり、ここは技の実験場なのか。思わず滝は周囲へ視線を巡らした。もしかすると、外装と同じものが使われているのかもしれない。だからやたらと白いわけかと合点がいく。廊下や部屋と違うのもそのためだろう。

 一方、武器という言葉は引っ掛かったままだ。滝の脳裏をよぎったのは、上から借りたあの剣だった。通常の剣では魔族に致命的な一撃を与えることができないが、上の物は違う。

「武器?」

「ああ、対魔族用の武器だ。この星の人間はそういうのは持っていないだろう? あれなしに、魔族に対抗するのは至難の業だぞ」

 その聞き捨てならない単語をレンカが繰り返せば、レーナは悠然と首肯した。それでもレンカは戸惑ったように小首を傾げている。

「え……まさかそれを、レーナが用意してくれるってこと?」

 放たれたのは予想外の疑問だった。確かに、上はこれ以上滝たちの装備について協力してくれるつもりはなさそうだった。借りた武器とて未調整だという話だ。上に期待できないとなると、レーナに頼る他なくなるのだが……。

「もちろん。そうじゃないとお前たち死ぬだろう? まあ無論、われが作ったものなど使いたくないというのなら無理強いはしない。ただ、人間が使う程度の普通の技では、魔族にはさしたるダメージはないからな。それは覚えておいて欲しい」

 半信半疑な滝たちへと、レーナは深々と頷いた。どうも本気だったようだ。

 特別な武器が必要であることは、今までの戦いでも嫌という程実感している。精神系の技は効果があるようだが、他の技では動きを止めることはできても決定的な一撃とならない。

「作れるのは剣だけなの?」

「いや、形態は問わない。あれは精神を込めた物質を直接相手にぶつけることに意味があるから、各々の扱いやすい形が一番だ。それぞれの精神にあわせることができれば、最も威力を発揮する。そこまで目指すとなると調整を繰り返す必要があるがな」

 レーナはよどみなく説明した。なるほど「未調整」というのはそういう意味なのかと、滝は納得する。

 それにしても、レーナと相対していてもレンカは普段と変わりないのが不思議だ。気にも動じる色が見られない。元々レンカはどんな人間に対しても態度の変わらない方ではあったが、それは相手がレーナでも同じなのか。

「そういうわけだから、必要だと思えば声かけてくれ」

 ふわりとレーナは微笑んだ。自分が信用されていないことに関しては、どうも慣れきっているらしい。

 それでもこうして丹念に何度も厚意を示されると、滝としてはどう反応するのが正しいのかわからなくなる。信用してしまいたいと思うのは、楽になりたいという心境からなのか?

「武器を含め、魔族と戦うのもコツがある。われが信用できないならシリウスにでも聞いてくれ。あいつなら人間の技使いがどんな風に魔族と戦っているのかも知ってるだろう」

 笑顔で相槌を打っているレーナの後ろから、一瞬だけアースが睨み付けてくるのが見えた。彼らにとっては面白くない話に違いない。レーナがいるから黙っているだけだろう。

 しかし滝はあえて気づかない振りをした。ここで諍いを起こすのは得策ではない。

「そういえばシリウスさんはいないのね」

 そこで今気づいたとばかりに、レンカが辺りを見回した。案内と内部の観察が終われば、てっきりレーナのところに戻るのだと思っていたが。どうやら違ったようだ。するとレーナは首を縦に振る。

「あいつなら、お前たちが来たからわれも悪さをしないだろうと思ったらしく、一度神界に戻った」

 笑顔を崩さず、レーナは手をひらりと振った。そのあんまりな言い様に滝は絶句する。彼女は自分を悪し様に言うのも抵抗がないらしい。

「悪さをしないって……」

「彼らにとっては、われなんて依然として得体の知れない奴だろうさ。わけのわからない理屈で動いていると感じてるだろう。一応明日一通り話をすることになっているが、それでもどこまで通じるのやら……」

 手を下ろして大仰に肩をすくめたレーナは、わざとらしいため息を吐いた。だがそれよりも滝には聞き捨てならない単語があった。

「明日?」

 今の口ぶりは、明日に決められた何かがあるかのようだった。また神技隊には内緒で上の者と話し合うのだろうか? すると顔を上げたレーナはきょとりと目を丸くし、首を傾げる。まるで子どものような反応だった。

「お前たち、まさか何も聞いてないのか? 明日あの宮殿とかいう建物で、説明会が開かれることになっているんだが」

 レーナの明瞭な声が白い空間に染み渡る。説明会という可愛らしい響きが、どうにも滝にはぴんと来なかった。しかし宮殿で開かれるとなれば、くだらない話であるはずもない。滝は思わずレンカと顔を見合わせた。

「そういえば、後で説明されるみたいなことをシリウスさんが言っていた気が……」

 レンカの呟きではたと気がつき、滝も記憶の中からその一言を拾い上げる。シリウスはそれがいつのことなのか明言していなかったが、まさか明日なのか?

「本当に聞いてなかったのか。あいつ、肝心なことは言わないな。説明会は明日の早朝だ。人間たちが本格的に動き出す前に、あの建物に集まることになっている。たぶん神の誰かが迎えに来るはずだ」

 レーナはまた手をひらりと振って微苦笑を浮かべた。彼女の気ににわかに宿る緊張感を感じ取り、滝は唇を引き結ぶ。今回は、はぐらかされない。その確信が奥底から湧き上がってきた。

 ずっと待ち望んでいたものとようやく対面できる。自分たちの立場がやっと理解できる。嬉しいはずなのに、高揚感と共にせり上がってくるのは得体の知れぬ畏怖の感情だ。滝は固唾を呑んだ。

「――そこで、今一体何が起こっているのかわかるんだな?」

「ああ、そうだ。少なくとも今お前たちが置かれている状況はおおよそわかる。そして、これから何が起きようとしているのかも」

 淡々と告げられるレーナの言葉が、重く鼓膜を揺らした。この事実を帰ってきた仲間たちに告げる時のことを思い、滝はひっそり拳を握った。




 戻ってきてしまったというのが、青葉の正直な気持ちだった。

 土の感触も道の曲がり具合も体は覚えており、考え事をしていても間違えることなく足は進んでいく。肌寒い風が吹く中、見慣れた景色の中に見える一軒の家を、彼の目はすぐさま見つけ出した。

 十分すぎる広さのその家は、ここらでも大きい方だった。だがその立派な庭も、今は誰にも整備されず荒れ放題になっている。かろうじて雑草が刈り取られたあとがあるくらいだ。

 彼は眉間に皺を寄せた。気が重い。けれども行くと決めたからにはここで逃げ帰るのも癪だ。彼はぐっと息を詰め、耳の後ろを掻いた。一人だったら途中で理由をつけて帰っている可能性もあっただろう。梅花をつれてきたのは正解だったと思う。

「青葉、大丈夫?」

 ふいと、後ろから声が聞こえた。歩調を緩めれば、追いついてきた梅花がどこか心配そうな眼差しでこちらを見上げてきた。

 緊張感が気に滲み出ていたのか? これだから技使い同士というのは厄介だ。あの父親には、これっぽっちも伝わらなかったというのに。

「ん、ああ。庭が荒れてるなぁと思ってな」

 青葉は軽く笑って首をすくめてみせる。母が健在だった頃はたくさんの野菜を育てていたし、季節ごとに様々な花が咲いていた庭だ。

 母が亡くなってからは、それを名残惜しむように青葉たちが手入れしていた。特に弟は成長するにつれて熱心にやるようになった。これだけ放置されているのは珍しい。

「……そうね」

 梅花は一瞬何か察したような目をしてから、かすかに頷いた。冷たい風に煽られた髪を押さえる様は、いつも通りに見える。しかし誘いにあっさり応じたところを見ると、彼女も思うところがあるのだろう。

「陸の奴、いないのかもな。気も感じられないし」

 青葉はそう結論づけた。弟の陸は時々友人たちの家に泊まり込むこともあったから、どこかへ遠出でもしているのかもしれない。

 青葉が頻繁に家を離れるようになってからは、そういった日が多くなっていたようだ。彼が神技隊に選ばれた後、なおのこと増えていたとしてもおかしくはない。

「そう。会えたら挨拶したかったんだけど」

 肩を落とした梅花はため息を吐いた。彼女にそのつもりがあったことに、青葉は少なからず驚く。彼と当初出会った時には、そういうことを口にしたがらなかった。

 ――いや、彼女は言いたくなかったのではなく、言う必要性が感じられなかっただけかもしれないが。

「まあ、仕方ないな」

 青葉はつと瞳を細めた。弟が不在という事実は、あの家には父しかいないことを意味している。ますます体が重くなった。

 最後に言葉を交わしたのはいつだっただろう? 記憶が曖昧になるほどに避けていた。姿を見かけても声をかけないことも多々あった。存在を認識していても交流はない。そんな期間が長く続いた。

「それでも行くの?」

「ん? ああ。手元に置いておきたいものがあるんだ」

 怪訝そうに尋ねられ、青葉は言葉を濁す。神魔世界を離れる時には諦め、家に置き去りにした物は多かった。弟に託すという意味もあった。

 しかし今もう一度この世界に戻ってきたとなれば、気持ちも変わる。梅花が家族と向き合おうとしているのを知ったことも無関係ではないだろう。

 できる限り視界に入れないようにしてきた、母が生きていた頃の形見を、もう一度見てみたいという気になった。

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