第4話「守りたいものは昔から決まってるから」

「心配だわ」

 呟きながらものんびりと進むリンの後ろ姿は、見慣れたもののはずだった。しかし風景が異なるだけでいつもとは何かが違う気がする。

 日の光の下では、青いワンピースがやけに眩しい。それはどこか大河を彷彿とさせた。彼女が好んでその色を身につけていた理由がようやくわかった気がする。

「あ、見えてきた!」

 と、そこでリンは声を上げた。坂をさらに下ったところに建つ、一軒の家。ヤマトでもよく見かけた素朴な形のものを、彼女は真っ直ぐ指さした。

 ウィンの外れにあると聞いていたが、なるほど確かにそうだ。ここから町中までは少し距離がありそうだった。

「よかった、ぼろぼろになってなくて。お母さんたちだけだと心配してたのよねぇ」

「大丈夫ですよリンさん。ほら、リュンクさんのパートナーさんがいますから」

「あ、そうか。そうよね。だから安心して出てきたんだったわ」

 顔を見合わせたリンとジュリは、軽やかに言葉を交わす。覚えのない名前が登場したが、リンの兄弟だろうか。

 思い返してみれば、兄が一人いたと聞いたことがあった。その時は意外に思った記憶がある。てっきり弟か妹がいるものとばかり想像していた。

「ではリンさん、シン先輩」

 そこでふいと、ジュリが立ち止まった。よく見れば、緩やかに下る坂道の途中が分かれ道となっていた。ジュリはその左手の方へと手のひらを向ける。

「私はこちら側なので」

 林とは逆側へ伸びていく細い道の先には、ぽつぽつと家がたたずんでいた。どれもヤマトにもありそうな、よく見かける形のものだ。小さな庭がある点も共通している。そのうちの一つがジュリの家なのだろうか。

「うん。ジュリの方が早く終わったらそのまま家で待ってて。お茶持って行くから。メユリちゃんの好きな奴ね」

 リンは大きく頷くとひらりと手を振った。ジュリは「はい」と朗らかに微笑んでから包みをぎゅっと抱きしめ、やおら背を向ける。まるで何かを決意するよう、肩に力が入っているのが見て取れた。

「また後でねー」

 遠ざかっていくジュリの後ろ姿を、シンはぼんやりと目で追った。ジュリの気はいつになく暖かで、この時を待ち望んでいただろうというのが聞かずとも読み取れる。それなのに気張っているのが腑に落ちなかった。

「あ、メユリちゃんっていうのはジュリの妹ね」

 彼の疑問を察したように、歩き出そうとしたリンは肩越しに振り返った。青いスカートがふわりと翻り、同時にトンと軽快な靴音が響く。

「もう十二歳になったかな? しっかり者のいい子なのよ」

「ああ、まだそんなに小さいのか」

 シンは思わず眼を見開いた。ジュリの正確な年は把握していないが、リンよりは上なはずだ。つまり、ずいぶん年の離れた姉妹ということになる。

「うん。だからジュリが神技隊に選ばれたことを知った時、びっくりしたのよね」

 かすかに頷いたリンのしんみりした声が、辺りに染み入った。

 ジュリと再会した時といえば、レーナたちに遭遇したあの頃のことだ。それどころではない混乱だったので、ジュリについては詳しく聞けずじまいだったが。リンはそんなことまで考えていたのか。

「そうだったのか……」

「そうそう。まあでも、結果的には早く戻ってこられてよかったわー。いや、状況は全然よくないから、目下の話になっちゃうわね」

 微苦笑を浮かべたリンは、また悠々と足を踏み出した。確かに、現状を考えれば喜んでいいのかどうか判然としない。大股で歩を進めたシンは彼女の隣へと並んだ。

 神魔世界に戻ってこられたのは別段忌避すべきことではないが、それに付随する状況が厄介だ。先ほどのシリウスの忠告がすぐに脳裏をよぎった。

「ま、やるだけやるしかないんだけど」

 それでもリンは早くも割り切っているらしい。彼女のその強さは真似したくとも真似できないものだ。横目に見る彼女の様子は普段と何ら変哲がなく、それだけにシンの心はざわつく。

 彼女は遠くに見える大河の煌めきへと視線をやり、おもむろに破顔した。

「私が守りたいものは昔から決まってるからね」

 言い切るリンの横顔に、胸の奥がちくりと痛んだ。彼女が持っている確固たるものは、シンの目にも明確だ。常に曖昧で揺らいだものしか持ち得ていない彼とは雲泥の差だった。

「あ、ほらほらそこ。もう着いちゃった」

 そこでリンの声が一段と高くなった。ぱっと顔を輝かせて小走りで塀へと寄っていく姿は、年相応に見える。

「……ん?」

 だが門の前に辿り着いたところで、シンは首を傾げた。気のせいだとは思うのだが、既視感を覚える。

 腰よりも少し高い程度の塀が庭と道を区切っているのは、よくある造りだ。その門の前に小さな箱が据え付けられているのだが、それに見覚えがあった。小鳥を模した飾りが特に印象的だ。

 彼が首を捻っているうちに、リンは軽い足取りで門の奥へと進んでいく。何かの野菜が収穫されたばかりの庭は、小さいながらも生活感に溢れていた。

「お母さんいるー?」

 意気揚々とした声で戸を叩いたリンは、そのままゆっくりと扉を開けた。鍵は掛かっていないらしい。不用心だと言いたくもなるが、この辺りは民家も少ない。おそらく知り合いばかりなのだろう。不審者の心配をする必要はないのかもしれない。

 彼女が力を込めると、深い緑色の扉がぎぎっと音を立てた。それなりに年数は経っていそうだ。するとその向こうからどたばたと誰かが走り寄ってくる気配がした。リンが「あっ」と声を漏らす。

「お母さん危ない!」

 ついでがらがらと何かが崩れる音が続き、シンは思わず額を押さえた。この音にも既視感がある。仕方なくゆっくりリンの方へと近づいてみれば、玄関の向こうで空き箱が散乱しているのが見えた。

「もうお母さん、だから玄関は広くしておかなきゃって――」

「リン、帰ってきたの!?」

 たしなめるリンの言葉を、甲高い声が遮った。がばっと空き箱の山から女性が立ち上がるのがシンの目に映る。

 リンよりも少しだけ背が低いが、面差しには似たところがあった。彼女は目一杯瞳を見開いて、胸の前に掲げた手をわなわなと震わせていた。

「うううう嘘っ。だって、え、幻? 夢?」

「ごめん、夢じゃないし蜃気楼でもないから落ち着いて? はい、深呼吸深呼吸」

 リンの背中越しに見るその女性には、案の定見覚えがあった。あれは……確か、宮殿に神技隊として招集される前のことだ。本当にその直前の頃だ。

「いや、まさか」

 シンは口の中がからからと乾いていくのを自覚した。否定したい思いと、じわじわと蘇る記憶の板挟みで、鼓動が速くなる。あれはそうだ、妹と共に挨拶に出向いた時だった。

「落ち着けるわけがないじゃないの! あ、リュンクならちょうど京華ちゃんと一緒に旅行に出ていて――」

「あ、お兄ちゃんいないんだ。だから静かだったのね。あーよかった。じゃあ今のうちに荷物あさっちゃうから。勝手に上がるね」

 リンは笑顔のまま、慎重に箱の山へと近づいていった。その足取りに慣れを感じるところを見ると、こういったことは日常茶飯事なのだろう。

「実は色々あって早くこっちの世界に戻ってくることになったんだけど、宮殿の側に住まなきゃいけなくなっちゃったのよね。だからちょっと私物を持っていきたいの」

 わかりやすく狼狽える母へと、リンは大雑把に説明していく。不安要素をできる限り排除した、嘘にはならない程度の情報だ。

 おそらく心配させまいという配慮だろう。今の一連のやりとりだけでも、リンの母が動揺しやすい人間であることは容易に読み取れた。

 そこでリンは何かに気づいたようにこちらを振り返った。そしてどこか気恥ずかしそうに、すまなさそうに首をすくめる。

「ごめんなさいシン、騒がしくて。上がってく? 中はたぶん片付いてると思うんだけど」

「いや……それをまたいでくのは気が引けるからな。ここで待ってる」

 シンは笑いながら首を横に振った。散乱したあの空き箱をどうにかしてからでないと、さすがに家の中にお邪魔する気にはなれなかった。

 と、そこでようやくリンの母も第三者がいることに気づいたようだ。今の反応からすると彼女は技使いではないらしい。そもそもよく考えれば彼らは気を隠していないのだから、技使いなら近くまで来たことに気づいていたはずだ。

「あ、あら、お客さん? 嫌だどうしよう、また恥ずかしいところ見せちゃった」

 おろおろするリンの母の双眸が、はっとしたように見開かれた。それが決定打となった。どうやらシンの見間違いではなかったようだ。そんな偶然などあるはずがないと思うのだが、勘違いではなかったらしい。

「えっと、もしかして……」

「あ! ごめんねお母さん、紹介もしなくて。同じ神技隊のシン。ウィンも見てみたかったんだって。ということでほらお母さん、この空き箱片付けて。シンも困るから。どうせまたたくさん買い込んじゃったんでしょう?」

 朗らかに笑ったリンは母の背をぐいと押し出し、玄関奥の廊下へと進んだ。リンの母は何か言いたげに、それでも言葉を探しあぐねて口をぱくぱくとさせていたが、やにわにふっと頬を緩めた。

 その眼差しが確実に自分を捉えていることに、シンは動揺を覚える。

「玄関が片付いたらシンも上がって? 私はさくっと必要な物を最低限見繕っちゃうから。それが終わったら、ジュリの家に行きましょ?」

 リンは箱の山越しに声をかけてくる。一人でぐいぐい話を進めていくのは相変わらずだ。それはこのそそっかしい家族に相対するうちに身につけたものなのだろうか。

「お母さん、箱潰すのは後でいいから、とにかく道だけでも作ってね」

 ぱたぱたと足音を立てて奥へと入っていくリンの姿を、シンは黙って見送った。騒々しい空気が静まれば、一気にいたたまれなさが押し寄せてくる。やけに心臓の音が強く響くように感じられ、背中を汗が伝った。

「ごめんなさいね。今片付けますから」

 リンの母はにこりと微笑むと、側にある空箱を一つ拾い上げた。大きさからでは一体何が入っていたものなのか予測もできない。

 ただリンの買い物好きは母譲りなのだなと、漠然と感じ取るくらいだ。そう思うと何故だか少しだけ気持ちが和む。

「心配しなくても、京華ちゃんは元気よ」

 けれどもついで放たれた一言に、シンの鼓動はどくりと跳ねた。やはりと思うと同時に、申し訳なさが胸に染みる。

 京華。それはパートナーのもとへ行った妹の名だ。妹が一体誰と一緒になったのかもろくに把握していなかった兄であることを、眼前に突きつけられたようだった。

 ほとんど入れ違いで神技隊に選ばれたからというのは理由にはならない。彼はあの時既に重圧から解放された気でいた。

「そうですか」

 今のシンの様子は、リンの母の目に一体どう映っているのだろう。この女性は、彼が全てを知った上でこの家にやってきたと思っているのだろうか。

「ええ、とってもよい子で助かってるわ」

 箱を抱えたリンの母はふわりと笑った。それが記憶の中の彼女とは違っていることを、この時になってシンはようやく思い出す。

 彼が挨拶に行ったあの日、彼女たちは皆どこか狼狽えていた。落ち着かなかったし、心ここにあらずだった。肝心の妹のお相手とやらも、動転して支離滅裂だった。

 その理由が「家族が倒れたから」だと知ったのは帰り際のことだ。京華が教えてくれなければ、疑問と違和感を抱いたまま去ることになっただろう。自分が拒絶されているのだとさえ考えたかもしれない。

 彼にとっては、一つの忘れたい記憶だった。

「あなたのおかげね。リンも元気そうだし」

 素直に喜びを表現するリンの母へと、返す言葉は見つからなかった。助けられているのはこちらだと告げることは、現時点では無理だった。

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