第十章 不信交渉
第1話
一息吐けるようになったのは、室内を走り回る者たちがいなくなってからだった。
宮殿の人間が全員部屋から出て行ったのを確認し、梅花はベッドの端に腰掛ける。ようやく訪れた静寂に気が抜けたのか、どっと体が重くなる。
手足がばらばらになりそうな疲労を堪え手続きに奔走したのだから当然だろう。
魔神弾の触手に絡まれた左腕はいまだじんじんと痛んでいるし、歩くだけで足はもつれそうになる。体力的には既に限界を超えていたはずだが、それを気力でもたせているだけだった。
そうなだけに、安堵が加わると今度は急激な眠気に襲われる。
彼女は慌てて数度瞬きをした。自分が寝てしまったら何も知らぬ仲間たちはこの静養室に放置となる。
手続きは終わったが、いずれ確認のために宮殿の誰かが顔を見せるはずだった。――おそらくミケルダのおとないもあるだろう。今一度気合いを入れるべく頭を振ると、不意に肩に手が置かれた。
「梅花、大丈夫か?」
この声、気配は青葉だ。これだけ近づかれるまで気がつかなかったのだから、もはや半分眠っているといっても過言ではなかったのかもしれない。
かろうじて顔を上げた梅花は、気遣わしげな青葉の視線を受け止める。そして慎重に言葉を選び取った。
「大丈夫とは言えないけど、最悪ではないわね」
「……お前がそう言うってことはよっぽどだな。寝た方がいいんじゃないか?」
「まだ、だめ。たぶんもう少ししたらミケルダさんが来るし」
青葉が隣に腰を下ろすと、硬いベッドがかすかに揺れた。何故かぐいと肩を引き寄せられても、抵抗する力はどこにも残されていなかった。
人の体温に心地よささえ覚えて、ますます眠気が強くなる。目を瞑ってこのまま意識を手放してしまえたらどんなに楽だろうか。
そんな誘惑に必死に抗っていると、別の気配が近づいてくるのに気がついた。かつんと軽快な靴音が響く。梅花がそちらへ顔を向けようとした途端、肩に置かれた手が引き剥がされた。
「はい、そこまで。こんなところで付け入らないの」
「……リン先輩」
見上げた先にいたのはリンだった。彼女もぎりぎりの戦闘で疲労困憊のはずなのに、梅花よりはまだ体力が残っているようだ。青葉を見下ろす眼差しは普段と変わりなく強かった。
服は砂だらけで汚れているが、それでも一目でわかるような傷は見当たらない。あれだけ強烈な気を持つ魔族と対峙したというのにさすがだ。
「ほら、隣退けて。休ませるつもりなら横にしなきゃだめでしょ。何でちゃっかり抱き寄せてるのよ。……ねえシン、青葉の教育なんとかならなかったの?」
リンに追い払われた青葉がベッドから渋々と立ち上がる。満足そうに首を縦に振ったリンは、梅花のさらに後ろへ視線を転じたようだった。
後半の言葉から察するに、そこにはシンがいるのだろう。年の差一歳なのだから、シンに青葉が教育できたとは思えないが。
「オレに言うなよ」
梅花が座り込んだ隣のベッドで、シンは胡座をかいているはずだ。振り返って確認したわけではないが、たぶん先ほどと同じ姿勢だろう。
ミスカーテの毒にやられていたらしい彼は、技が使いにくい状態で無理やり戦っていたようだった。毒が微量だったからどうにかなったものの、その反動が今になって来ている。
具体的に言うと手足が痺れてうまく動かないらしい。今の返答を聞く限り、口や舌は大丈夫なようだが。
「青葉の面倒見てたのは滝さんだからな。言うならせめて滝さん……に言っても駄目だな」
そう続けたシンは、徐々に声の調子を落とした。何も考えずに口にしてから、現状を思い出したのだろう。「そうね」と答えるリンの声も萎む。室内の空気が一気によどんだ。
シンのさらに向こう側のベッドに、滝は寝かされていた。あれからしばらく時間が経ったが、今も目を覚ます気配はない。呼吸が穏やかなのがせめてもの救いだろうか。
宮殿でも滅多に使われることのないこの静養室には、ひたすら細長いベッドが並べられていた。いや、それだけとも言う。
この奥にある治療室ならもう少し医療らしいものが受けられるのだが、ここでは本当に休むことしかできない。毛布にくるまって床に寝ころぶよりはまし、という程度だ。
もっとも、だからこそ突然の交渉でもどうにか使用許可が出たのだと思う。欲張って治療室をと希望を出せば、突っぱねられていた可能性がある。
「滝にい、まだ眠ってるな」
ぽつりと呟く青葉の声が、静かな室内に染み入る。この部屋の中にいるのは今のところこの五人だけだ。先ほどまでレンカがいたが、梅花と入れ違いにどこかへ呼ばれていった。おそらく誰かの応急処置のためだろう。
神技隊をここまで連れてくるにも、自力で動けない者がいては難航する。最悪なことにミリカのワープゲートが破壊されてしまったので、それを使うこともできなかった。
そうなると空を飛ぶのが一番手っ取り早いが、技を使うだけの精神が枯渇してしまうと本当にどうにもならない。怪我さえ治れば技が使えそうな者はまだましなのだ。
ついでに言えば、人を抱えて空を飛ぶというのは体力も気力も使うのでこの場合は推奨されない。それ故に、宮殿まで辿り着いた神技隊はごく一握りだ。
「レンカ先輩、結局飲ましたのか?」
シンが言っているのは、レーナから手渡された薬のことだろう。その判断は恋人であるレンカに委ねることにして青葉に届けてもらったが、結局どうしたのかまだ確認していなかった。すると目の前のリンが首を縦に振る。
「そうみたい。この部屋に入る前にそんな感じのこと言ってたわ。……少なくとも悪い作用は出てないみたいだけど、効くかどうかはわからないわよね。気は安定してきたから大丈夫そうな気はするけど。その辺はジュリでもないとわからないかなぁ」
リンの言う通り、滝の気から不安定なところは感じられなかった。苦痛そうな表情でもない。この様子を見る限り、命の危険はなさそうだった。
シンの体に生じた効果を考えれば、体が動かしづらいだけなのかもしれない。もう少し安めば目を覚ましてくれると信じたいところだ。
「ジュリはまだみたいっすね」
青葉がちらと扉を見遣ったのが感じ取れた。気怠さを我慢して首を回せば、出入り口の方を睨み付ける彼の横顔が目に入る。
さんざんな言われようだったせいで表情は硬いが、さすがに今日は喧嘩を売るつもりはなさそうだった。疲れのせいか、それともシンとリンが相手では勝てないと踏んだのか。
どちらにせよこの場で言い合いが始まらなかったのは、梅花にとっては幸いだった。話をしていればまだ意識を保っていられるが、ただ会話を聞いているだけだとあっという間に眠りに落ちてしまいそうだ。
「ジュリたちなら」
眠気を追いやるために梅花は口を開く。すると、リンと青葉の眼差しがぱっとこちらに向けられた。視界には入っていないが、シンもこちらを見たのだろう。そんな気が感じ取れる。
「先ほどミケルダさんから、ジンガーのワープゲートを利用して移動してるって聞きました。たぶんもうすぐ着くと思います」
梅花はゆっくり言葉を紡ぎ出した。静養室に戻る直前、すれ違ったミケルダから取り急ぎその報告を受けた。その手がすぐに思い浮かばなかったことを恥じつつ、正直なところほっとした。
確かに、よく考えれば思いつくことだ。ミリカの隣に位置するジンガーの町にもワープゲートは存在する。そこまで辿り着くことができれば宮殿の近くまで一瞬で移動することができた。
もっとも、ミリカの町からジンガーまではそれなりに距離がある。一番端のゲートを利用するとしても、あの戦闘の後そこまで歩くのは骨が折れるだろう。
「なるほど、その手があったな」
「よかった、ジュリたちは無事なのね!」
シンとリンの声が重なった。リンの顔はわかりやすく華やいでいる。その一方、青葉は何か言いたげな気を放っていたが、口を挟むのは止めたようだ。
ジュリたちも「無事」とは言い難い状況なのだろうか。ジンガーまで移動することができる程度には間違いないが、負傷者はいるのかもしれない。やはりどこも厳しい戦況だったのだろう。
「ところで。あのシリウスとかいう人は何者なんですか?」
話題を変えるためか、それとも純粋に疑問だっただけか、青葉はそう口にした。それは梅花も気になっているところだった。
何故か自分たちを守ろうとしてくれた点や、ミケルダの名をすぐに出したところを見れば、おそらく上の者――神の一人なのだろうと推測はできる。
ただ、それだけにしては変だった。何より奇妙なのはレーナのことを知っている様子だったことだ。今までの上は、レーナを得体の知れない存在と受け取っていたはずだ。
「さあ」
「さっぱり」
梅花が黙していると、シンとリンの即答が部屋の空気を揺らした。どちらかというと親しげに声を掛けていたので何か聞いているのかと思ったが、どうも違ったらしい。
「倒れているオレのところに来て助けてくれた……というか、助言をくれたってだけしかわからないな」
「私も似たようなものよ。守ってくれた人……というか神? じゃないかなぁってことしか掴めてないの。あのミスカーテって魔族と知り合いなのか罵り合ってたり、レーナともお久しぶりって感じだったわよね。一体何者なのかしら」
二人は顔を見合わせつつそう付け加える。つまり梅花と同程度の情報しか得ていなかったようだ。
遠くにいても感じ取ることができるほどの強烈な気が二つ。それとほぼ前後して増えていたのがおそらくシリウスの気だろうと踏んでいた。タイミングを考えると、彼は魔族の存在に気づいてやってきたのか?
「ミケルダさんが戻ってくれば、聞けるんですけどね」
そっと梅花はぼやいた。仲間たちのことも気がかりだが、シリウスについても一度詳しいことを確かめたかった。
できれば助けてもらった礼を言いたいところだが、それは叶わない気がしている。上の混乱具合を考えると彼はきっと多忙に違いない。
「あ、噂をすれば」
そこで見知った気が近づいてくるのが感じ取れた。ミケルダともう三人――よつきにコブシ、ジュリだ。ベッドに手をついた梅花はもう一度扉の方を見遣る。疲れのせいで距離までは把握しきれないが、さほど遠くはなさそうだった。
すると案の定、しばらくもしないうちに静養室の戸を叩く音がした。梅花が返事するよりも早くリンの「はい」という声が響き、ほぼ同時に扉が開かれる。
「お仲間さんたち連れてきたよー」
まず扉から顔を出したのはミケルダだった。手をひらひらと振った彼はちらと後方を振り返る。静養室の扉はそれほど大きくないのでよつきの頭くらいしか見えないが、その後ろにコブシとジュリがいるのだろう。
「ほら入って入って。ここまで来れば大丈夫でしょう?」
ミケルダが扉に張り付くようにすると、静かによつきたちが部屋へと入ってきた。皆砂だけの服だし、疲れた様子だ。「ここまで来れば」の意味を考えると、もしかしたら迷いかけていたのかもしれない。
一方、陽気な顔をしたミケルダは、そのままくるりと背を向けた。そそくさと去ってしまいそうな気配を察知し、梅花は慌てて声を上げる。
「ミケルダさんっ」
手を振りかけていたミケルダは、ふいと肩越しに振り返った。垂れた瞳を目一杯見開いたところを見ると、呼び止められるとは思っていなかったらしい。
彼がそうしている間に、よつき、コブシ、ジュリがぐったりとした顔で手近なベッドに座り込む。近づけばわかるほのかな血の臭いに、梅花の眉根は寄った。やはり怪我をしているらしい。
「何かあった? あ、飲み物の用意とか全然してなかったね。梅花ちゃんごめんごめん」
「あ、いえ。そういうことではなくて。飲食なら運んでもらえるように手配しましたし」
「うわっ、梅花ちゃん本当? それ大変だったでしょう? よく呑んでくれたね」
ミケルダは何かをうかがうよう辺りを見回し、そして後ろ手に扉を閉めた。軽い話題ではないと伝わったのだろう。こうして戸を閉めてしまえば廊下に話し声が漏れることはなかった。この部屋はそういう作りになっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます