第2話

「飲まず食わずで回復しろだなんて無理な話ですから、粘りました」

 ベッドについた右手に体重を預けて、梅花は首をすくめた。

 ミケルダの言う通り、一番の難関はそこだった。静養室の使用はすぐに許可が出たのだが、何か物を消費するとなると渋るのがこの宮殿だ。神技隊のような異質な存在に対してとなるとなおのことだった。

 部屋の使用の際にミケルダの一言があったから、押し通すことができたようなものだ。

 回らない頭での交渉は正直相当な苦痛だったが、この後のことを思えば避けては通れない。今の自分たちに自力で食料を調達する力は残っていない。無論、まさかこんなことでミケルダの手を煩わせるわけにはいかなかった。

「もう、また梅花ちゃんはそんなこと言って。無理しないでよー」

「これを後回しにする方が辛いので」

 ミケルダは一歩こちらへと近づいてくる。青葉が何やら恨めしげな気を放っていたが、理由を問いかける気力もなくて無視することにした。「そんなに大変なことだったのか」とでも言いたいのかもしれない。

 ならばと、梅花はすぐに本題に切り込むことにした。

「ところでミケルダさん、シリウスさんは今どちらにいらっしゃいます? 助けてもらったお礼がしたいんですが」

 シリウスの名を出した途端、ミケルダの纏う空気が変わった。そこには確かな喜びとわずかな後悔が含まれていた。ミケルダにそうさせる者となると、ただの知り合いではないのか。

 だが口に出してしまった以上撤回もできない。どうしたものかと梅花が当惑していると、ふっと肩の力を抜いたミケルダは大袈裟に両手を振った。

「シーさんなら、今はたぶん上にいると思う。この感じだとしばらく下りてこないよ。いつもそうだから」

 できる限り陽気な口調を心がけているのは感じ取れた。しかしそこを追及する気にもならず、梅花は相槌を打つ。

 あっさり「上」という単語が出てきたところを見ても、やはりシリウスは上の者なのだろう。しかしあれだけの実力者を「シーさん」と気安く呼ぶとはさすがミケルダだ。おそらくミケルダよりも立場は上だろうに。

「そうですか……。あの、シリウスさんという方は何者なんですか?」

 これくらいの問いかけならば大丈夫だろうかと、梅花はそっと口にしてみる。

 先ほどからよつき、コブシ、ジュリは、わけがわからないといった気を放っていたが、説明を挟む隙がなかった。三人の反応を見る限り、シリウスはそちらには行っていなかったようだ。それとも名乗らなかっただけなのか?

「シーさんは、うーん、とっても強い人?」

 天井を睨みつけたミケルダは、何のためにもならない事実を口に出す。言いたくないのか、それとも適切な言葉が見当たらないのか。先ほどのミケルダの様子を思い返すと、どちらとも断定しにくい。

 すると梅花が不満足なのに気づいたらしく、こちらへ視線を戻したミケルダは微苦笑を浮かべた。

「たぶん、梅花ちゃんたちが思っているよりも強いよ。シーさんはこの星で一番強い。オレたちの救世主なんだ」

 しみじみと付け加えられた言葉には、様々な含みがあった。「この星で一番」という響きに込められた感情が何なのか、気からだけでは推し量るのは難しい。梅花はじっとミケルダを見つめ、頭を傾けた。

「一番強い人がわざわざ戻ってきたということですか?」

 上はそれだけ現状を重く見ているということなのか。それともシリウスが危機を察知してやってきたのか。どちらにせよその判断は正しかったと思う。シリウスがいなければ誰かは間違いなく死んでいた。

「そうなるね。シーさんは呼び戻されたんだ。間に合ってよかったよ」

「……そうですか」

 つまり、シリウスの力が必要だと判断したのは上なのか。ミリカの町が破壊し尽くされたことを考えると「間に合った」と表現してよいのかは悩ましいところだ。

 一般人の被害の状況もいまだ知れない。現時点では、神技隊に死者はいないようだということしかわかっていなかった。

「まあ、そうじゃなくてもシーさんは追いかけてきたかもしれないけど。実はあの変態魔族を追い詰めていたところだったみたいなんだ」

 そこで少しだけミケルダの声音が軽くなる。なるほど、シリウスとミスカーテという魔族が知り合いのようだったというのはそういうことだったのか。

 しかしあのミスカーテを追い詰めることができるだけの強者だったとは。「一番」という表現は誇張ではなさそうだ。

「でもレーナちゃんと旧知の仲だったってのは、オレも初耳だったなぁ」

 と、ミケルダの声がさらに変わった。その気には明らかに好奇心が滲み出ていた。確かに、あの二人がどこで顔見知りになったのかというのは非情に興味深いところだ。レーナが何者なのか掴む手がかりにもなるかもしれない。

「……ミケルダさんも知らなかったんですね」

「うん、初耳。シーさんって滅多に戻ってこないし話好きでもないから、知らないことって多いんだよねー。まあレーナちゃんの件はさすがに誰かが聞き出そうとすると思うよ。あ、何かわかったらちゃんと伝えるから、今は梅花ちゃんたちは休んでて」

 そこで改めて釘を刺され、梅花は閉口した。たぶん限界であることは見抜かれているのだろう。もっとも、今回ばかりは彼女もさすがにもう動けそうになかったが。

「あ……はい」

「あの怪しい魔族の毒についてなら調査が続いてるから心配しないで。レーナちゃんがくれた薬って奴をレンカちゃんからもらって、これから調べるところだから。だからそれまではおとなしくしていてよー。何かあったら誰か通して連絡して。いいね?」

 まるで子どもに言い聞かせるよう、ミケルダは人差し指を振る。見覚えのある仕草だ。こくこくと梅花は素直に頷いた。

 レンカがいなくなったのは応急処置のためではなかったらしい。レーナがくれた薬は複数あったが、その残りを上に渡していたのか。ならば安心だった。ここはミケルダの言う通り上に任せておこう。

「それじゃあね」

 皆が沈黙している中、ミケルダは軽快に手を振った。そして踵を返し扉へと向かった。ひらひら揺れる指先が白い戸の向こうへと消えていくのを、梅花は黙って見送る。

 彼が相変わらず忙しそうにしているのは人手が足りないからだろう。リンたちの話ではラウジングもかなり負傷したという。ミリカの人々の避難にも上の者が出向いているようだし、誰の手であれ借りたい状態なのかもしれない。

「お忙しそうですね」

 同じ思いを抱いていたのか、そこでぽつりとジュリがこぼす。砂まみれになった髪を手で梳きつつ嘆息した彼女は、弱々しい笑みを浮かべた。その双眸からは、疲労が色濃く見て取れる。

「そうね」

 相槌を打った梅花は天井を睨み上げた。飲食はどうにかなったが次は清潔な環境が必要そうだ。そうなるとシャワー室を借りる必要があるだろうか。

 そのために必要な手続きを考えただけでどっと疲れを覚える。ミケルダに注意を受けたばかりだが、また走り回らなくてはいけないだろう。部外者にとことん厳しいこの宮殿の制度はどうにかならないものだろうか。今さらながら如実にそう感じた。

「梅花、そろそろ寝た方がいいんじゃない?」

 重苦しい現実を前にぼんやりと思考を手繰り寄せていると、また不意に声を掛けられた。視線を上げれば目の前でリンが眉根を寄せている。その気には気遣わしげな色が含まれていた。

「どのみち私たちは動けないし待つしかないんだから、休める時に休んでおいた方がいいわよ? この宮殿にいる限り、事態が動いたらまた梅花に頼っちゃうことになるんだから。何もできない時くらいは寝ておきなさいよ。寝て起きて、それから次に何をすべきか考えましょう。ね?」

 リンの言葉は正論だ。これだけ頭が働いていない状況で宮殿の人間と交渉できるとも思えない。確かに一度休んでからまた改めて動き出すべきだろう。梅花は素直に頷いた。

「心配かけてすみません。わかりました」

「何でそこで謝るのよ。謝るようなことしてないでしょ? はい、いいから寝た寝た。私が隣にいるから余計なこと心配しなくても大丈夫よ」

 リンがぱんと手を叩く音が小気味よく響いた。元気そうに見える幾分かは強がりなのかもしれないが、それでもそれを成し遂げてしまうのがリンの力強さだ。彼女が『旋風』と呼ばれる所以だった。

 それにしても余計なこととは一体何なのか。思い浮かぶものもなかったが考えるのも尋ねるのも億劫で、梅花は些細な疑問を放棄することにした。

「とにかく、よろしくお願いします。あ、もし宮殿の誰かが来てわけのわからないこと言い始めたら起こしてくださいね」

 あと気がかりがあるとすればそれくらいか。そのうち何か飲食物を持ってきてくれるはずだが、その時小言を言ってくる可能性もある。何も知らぬただの使いの者であることを願うばかりだ。

「わかったわかった。だから寝なさい」

 半ば強引なリンの言動に逆らう気も起きず、梅花はゆっくりと体をベッドに横たえた。抗えないほどの睡魔が襲ってくるのに、さしたる時間はかからなかった。




 ぐったりしたカイキを洞窟の奥に座らせ、アースは深く嘆息した。これでようやく最後だ。気を失っていないだけまだましな方だが、動けない者を運ぶというのはなかなか骨が折れる。今日に限って言えばイレイもいるからさらに苦労した。

 それでも仲間たちが無事であったことには感謝すべきだろう。一体誰に感謝すればいいのかは定かではないが。

「さて」

 岩壁で跳ね返り思いの外よく響いた声に顔をしかめつつ、アースは洞窟入口の方へと視線を転じた。その先にはレーナがいるはずだった。

 ちょっと様子を見るという意味のわからない発言をして空を眺めていたのでそのままにしておいたのだが、あれから音沙汰がない。そろそろ声を掛けてもよい頃だろう。彼は頭を掻きつつ振り返ると、静かに歩き出す。

「……レーナ?」

 洞窟の外をのぞくと、そこにレーナはいた。ただし何故か入口のすぐ横に座り込んでいた。膝を抱えたままの姿勢でぼんやり空を仰ぐ様というのは、見ているだけで不安になる。

 すると彼女はようやく気づいたと言わんばかりに、やおら彼の方を振り向いた。

「ああ、アース。運び終わったのか? ありがとう」

 ふわりとほころんだ顔はいつも通りと言えばそうだ。しかしどことなく力ない。彼女の頭から足先まで、彼はじっと凝視した。

 ろくに動かしていなかった左手はだらりと地面に垂れ下がったままで、右手で膝を抱えるようにしている。そこからぴくりとも動いていないのはやはり変だ。首から上しか動かしていない。

「そんなところで何してるんだ?」

「あーうん、気を探っていたんだが。その後、動けなくなってしまって」

 やや気まずそうな顔で彼女は笑った。その言葉を理解するのに寸刻の間が必要だった。先ほどまでは確かに歩いていた。右手を掲げ空を仰いだりしていた。それなのに突然何を言っているのか?

 けれども彼女の顔にも気にも嘘を吐いているような様子は微塵も感じられない。いや、もとより彼女は嘘は吐かない。この場合は冗談でもないだろう。

「……まさか毒か?」

「違う違う、これは無理に精神を消費したその反動だ。本当は結構前からまずかったんだが、無視していただけだ。たぶん、ここに来て気が抜けたらしい」

 ぱたぱたと右手を振る彼女を、彼は無言のまま見下ろした。どうやら右腕は動くようだが、そんなささやかな手の動きさえぎこちない。つまり動けないというのは本当らしい。

 しかし「結構前」とはいつからだったのか? 彼女はどこまでも無理が利いてしまうので、今さらながら心配になる。

「お前な……そういうことは早く言え」

 ため息が重く響いた。それなら彼女をここに放置したりもしなかった。やることがあるのだろうと思ったから自由にさせておいたのに、そうなるとこれだ。彼ががしがしと後ろ髪を掻けば、彼女は慌てたようにまた右手を振る。

「だ、だから今言っただろう? その、だから、申し訳ないんだが、手を貸してくれると嬉しい」

「言われなくともそうする」

 こんな時でも遠慮がちなのは本当に苛立たしい。戦闘の最中はごく当然のように当てにしてくれるのに、戦いが終わるとどうも距離をとろうとする節がある。それは他の三人に対しては見られない態度だ。

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