第8話
日が傾き始めると、裏庭での訓練が終わる。そうなると次は夕食の準備だ。
今日の夕食当番はピークスであった。そのため先にシャワーをすませたジュリたちは調理場へとやってきていた。
限られた材料と限られた調理器具で用意できる食事などたかが知れているが、逆に考える余地などなく。大量の芋と早く食べなければ傷んでしまいそうな肉があった時点で、半強制的にシチューに決まった。
ジナルの者たち用のパンはいつも余るらしく、それが夕方には支給されてくるので、その点も考慮した。
いつからあるのかわからない大鍋の中をかき混ぜつつ、ジュリはため息を飲み込む。訓練の後の皮剥きで疲れ切った仲間たちはぼんやり顔だった。だから仕上げは任せろとばかりに、先ほど無理やり部屋に帰した。
幸いにもパンを運ぶという役目があるので、それを理由にして。できあがる頃には誰かが様子を見に来てくれるだろう。この大鍋たちを運ぶのは、ジュリ一人では無理だ。
「ほとんど具のないシチューって、シチューと呼んでいいのでしょうか」
どうでもよいことを独りごちるのは、考えたくない出来事から離れたいからに違いない。かき混ぜる動きにあわせて揺れる袖をぼんやりと見つめながら、ジュリは苦笑を押し殺す。
バインを訪れてからというもの、どうも思考が過去に戻りやすくなった。ウィンに置いてきた妹のことも、今さらながら気に掛かる。
突如奇病が大流行したのは、妹が生まれる前のことだった。ジュリもまだ子どもだったし、リンはさらに子どもだった。もっと小さな技使いたちの面倒を見ながら日々楽しく暮らしていた。あの平穏がずっと続くものだと思いこんでいた。
「――ジュリ」
そこで忽然と呼びかけられ、はたとジュリは我に返る。振り向くのと同時に、ずいぶんぼんやりしていたことを自覚した。気を察知するどころか足音にすら気づいていなかった。ここが宮殿でなければ自己嫌悪していたところだ。
振り返った先にいるよつきへと、ジュリは取り繕うよう微笑みかける。
「ああ、よつきさん」
「そろそろですか?」
「ええ、そうですね。もうちょっとです」
パンを届け終わって様子を見に来てくれたのだろう。コブシやたく、コスミはいないようだった。
隊長隊長と慕われているのだからこういう時くらい使ってもいいだろうに、よつきは決してそうはしない。命令どころか何かを頼むことさえ苦手としているように見える。場を仕切ることも、本当はやりたくないに違いない。
「そうですか。ああ、いい匂いですね。野菜はあれしかなかったのに」
「ええ、余り物を見つけて。ちょっと工夫してみたんです」
感傷に浸っていたのをごまかせただろうか。何気ない調子で鍋へ視線を戻そうとすると、その横によつきが立った。
だが鍋をのぞき込むわけでもなく話しかけてくるわけでもなく。そこはかとなくジュリは居心地の悪さを覚える。ちらと視線を転じれば、何か言いたげな双眸が向けられていた。
長身のよつきが相手だと、女性としては十分背の高いジュリでも見上げるような姿勢を取らざるを得ない。後ろで括った髪が、ワンピースの背を撫でた。
「よつきさん、どうかしましたか?」
「いえ、この頃元気なさそうなので」
遠慮がちな指摘に、ジュリは思わず閉口する。リンとは違って元から元気いっぱいという性格ではないため、気づかれてはいないと思っていたが。駄目だったようだ。
それもそうかとジュリは内心で納得する。ピークスに選ばれ、宮殿での『事前学習』が始まってからもう一年弱だ。無世界に派遣されてからを考えても、そろそろ半年が近づいてきている。これだけ傍にいるのだから仕方がないのか。
「あー、ちょっと……」
「奇病のことですか?」
それでもいきなり核心に踏み込まれるとは思ってもみなかった。思わずかき混ぜる手を止めて、ジュリは唇を引き結ぶ。気遣わしげなよつきの眼差しが妙に痛かった。誰かにこういう顔をさせるのは昔から苦手だ。
「――ええ、まあ」
「ウィンの被害が一番ひどかったんですよね」
目を伏せたジュリは、もう一度鍋を見つめる。シチューの白さが何だか眩しく思えて、息を詰めそうになった。
よつきの言う通り、あの奇病で最も大きな被害を出したのはウィンだ。その次が周囲にあるヤマト、イダー、アールだろう。よつきはアール出身だしジュリよりも年上だから、当時のことはよく記憶しているに違いない。
「そうですね」
「ジュリは、あの時のことを覚えているんですか?」
単刀直入な問いかけに、ジュリは静かに頷く。忘れるわけがない。だがしかし、どこまではっきり覚えているのかと聞かれたら首を傾げるかもしれない。
ジュリはその時まだ十歳にもなっていなかった。それでも全てを一変させた事件は記憶にこびりついている。
「爪痕が大きすぎて、覚えているって表現でいいのかもわかりませんが。あれを境に世界が変わりましたからね」
ゆっくりと手の動きを再開しながら、ジュリは言葉を選ぶ。あの奇病でやられたのは、何故か大人たちだった。それも技使いが大半だった。
ジュリの両親はかろうじて命を取り留めたが、しかしあれが原因で体を壊したのは確かで。母は妹を産んですぐに亡くなった。過労がたたった父も、その後を追うように亡くなった。あっと言う間に妹と二人取り残されてしまった。
けれどもそれを嘆くこともできなかった。周りにはそのような子ども達が大勢いた。自分ばかりが悲しみのただ中に置かれたわけではない。もっともっと幼い子が一人きりになっていた。手を差し伸べる大人の数も足りなかった。
だからジュリは、大人の代わりをするしかなかった。
「もっと自分に力があったらって思ったのは、あの時が初めてなんです」
この手で妹を守らなければならない。周りを支えなければならない。消え去ってしまった平穏を取り戻さなければならない。
しかしジュリには力が足りなかった。自分の悲しみを外に出さないようにするだけで精一杯だった。もしもあの時リンがいなければどうなっていたのか、考えたくもない。
「力がって……まだジュリは小さかったですよね?」
「そうですね。でもそれを言ったら、リンさんの方がさらに年下ですから」
実力がある技使いの少女。それだけだったはずのリンが変わったのはあの時だ。リン自身も頼りにしていた父が倒れ、辛かったはずだった。
それでも彼女は世界を取り戻すことを諦めなかったし、立ち上がって傷つくことも恐れなかった。大人の技使いたちがいなくなって途方に暮れていた長の力にもなった。彼女はまさしくあの時、たった七歳で、ウィンの救世主になった。
「リンさんが強いなって思ったのもあの時なんです。支えなきゃと思ったのも。たぶん、リンさんを旋風にしたのはあの奇病です」
だがあの時は支えきれなかった。ジュリの力は不足していた。だから今度は、今度こそはしっかりしなくてはいけないのに。こんなことで動揺してはいけないのに。
それなのにバインで見たミスカーテの瞳を思い出すだけで胃が縮む思いがする。あのねっとり絡みつくような眼差しともう一度対峙することを考えると、指先が震えそうになる。
バインの奇病はイダーにまで広がっているという。もしもそれがあの魔族の企みなら、これで終わるはずがない。必ず相見える時が来る。わかっているのに、考えるだけで気が重くなるのだから困りものだ。
「ジュリ」
肩に置かれた手が、ジュリの動きを止める。よつきの顔を見上げるのが何故だか怖くて、それでも無視するわけにもいかなくて、ジュリは逡巡した。
恐る恐るそちらへ目を向けると、唇を結んだよつきが何か言いたげにしている。見慣れない表情だった。穏やかながらも時折悪戯っぽい光を宿した双眸が、今はどこにもない。
「わたくしたちも同じですから」
「……え?」
「自分にはどうしようもないと思い知らされたのは、あの時が初めてです。今また同じように無力感を感じているのも、バインで同様のことが起きたらどうしようと思っているのも、ジュリだけじゃありませんから。だから、一人で考え込まないでください」
とても単純でわかりやすく、真摯な言葉だった。目を丸くしたジュリは反射的に首を縦に振る。すとんと胸の内に落ちてくるこの感覚が、妙に懐かしい。
「わたくしでは頼りないかもしれませんが、でもここにいるのはリン先輩だけじゃあないんですよ。だから一人で頑張らないでください」
照れ笑いしたよつきの手が、そっと離れていく。もう一度頷いたジュリは、肩の力を抜いて破顔した。
そうだ、今このいかんともし難い状況に翻弄されているのは自分一人ではない。どうにかしなければと足掻いているのも一人ではない。リンを支える手だって一つではない。
つい、昔とばかり比べてしまっていた。精神の平穏を保つことも技使いとしては重要なのに、それを忘れかけていた。大事なことを思い出させてくれた彼へ、ジュリは微笑みかける。
「ありがとうございます、隊長」
「……えっ?」
そう答えれば、よつきは思い切り上ずった声を上げた。若干その頬が引き攣ったのは、見間違いではないだろう。悪戯っぽく笑ったジュリは、シチューをかき混ぜつつ頭を傾けた。
「今のはまさに隊長でしたね。だから、頼りないなんて言わないでくださいね」
やられたと言わんばかりのよつきの笑い声に、ジュリは小さく首をすくめてみせた。いつもの調子が戻りつつあることが、今は何より嬉しかった。
「ミリカの町に!?」
喫驚するケイルの声が白い回廊で反響した。腕組みしたアルティードの肩を、眼を見開いたケイルが強く掴んでくる。
頷いたアルティードがその手を引き剥がすと、ケイルは姿勢を正しながら鼻眼鏡を指で押さえた。取り乱す気持ちは理解できるが、縋られても困る。アルティードはどうにかため息を飲み込んで首の後ろを掻いた。
「ああ、そうだ」
「バインでもイダーでもなく?」
「ミリカだ。現れたのは、魔神弾だ」
念入りに警戒していたバインでもイダーでもなく、騒ぎが起きたのはミリカだった。だがその理由はじきに理解できた。動いたのは魔獣弾ではなく魔神弾だ。
魔神弾と相見えたカルマラの報告では、まともな状態ではないらしい。同じ半魔族である魔獣弾の声も届いていないようだった。つまり、魔神弾は何かを企んでミリカに現れたのではないのだろう。そう考えるしかない。
「魔神弾? ああ、失敗作という奴か」
ケイルの目にも理解の色が灯る。ミリカはバインやイダーからは遠く離れた――大河を挟んで西にある地域の一つだ。西側の中では最も北寄りに位置している。どちらかというとのどかで、技使いも少ない場所だった。
「海を渡ってきたのか?」
「その可能性もあるが、わからない。逃げ込んだのは亜空間のはずだったからな。おそらくミリカだったのは偶然なのだろう」
「そうか。それでアルティード、被害の方は?」
「民家が幾つか。一般人にも怪我人が出ているそうだ。何せ、宮殿の技使いが奇病にやられているからな。人手不足だ」
アルティードは奥歯を噛んだ。町の中心に突如として現れた魔神弾は、どうやら無差別に周囲を攻撃しているらしい。いや、ひょっとすると攻撃しているというつもりもないのかもしれない。
しかし彼が技を放てば民家は破壊されるし、人々は怪我をする。それはどうしようもないことだった。幸いなのは、今のところ死人が出ていない点だけか。
「仕方がないので先ほどカルマラが向かった」
「カルマラで大丈夫なのか?」
「彼女しかすぐに動ける者がいなくてな。これからラウジングも向かう」
本当は、ラウジングを出したくはなかった。だがリシヤやナイダとは違い、今回はごくごく一般の人間が暮らしている街中での戦闘だ。ここで手を抜くことは許されない。それは後々にも影響が出る。人々の間に不信感が膨らむような事態は避けたい。
「神技隊は?」
「ラウジングを通じて向かわせてはいる。気は進まないが今回ばかりは仕方ないな」
魔神弾のことはよくわかっていない。その実力も推し量れない。しかし概して理性のない者の行動というのは読めないものだ。少しでも被害を食い止めるためには、とにかく人手がいる。
「ケイル、一般人の避難について頼めるか?」
「そうだな、そちらは私の部下にやらせよう」
魔神弾が現れたのは偶然だと思うが、ここに魔獣弾が絡んでくる可能性は否定できなかった。意思疎通が図れなくとも利用してくる可能性はある。魔獣弾にとっては好都合に違いなかった。
だから魔獣弾が決断するより早く動かなければ。そのために、やむを得ずカルマラもラウジングも行かせた。
神技隊まで向かわせればレーナたちが動くだろうという目論見もある。――卑怯な手かもしれないが、手段は選んでいられない。
魔族という存在は、普通の人々には知られていない。この件が彼らの目にどう映るのか、想像するだに恐ろしかった。
「ジーリュの部下たちは動かないだろうか……いや、どのみち今からでは間に合わないか。ケイル」
「念のため伝えておこう。ああ、そうだアルティード。ラウジングにだが」
踵を返そうとしたケイルは、途中で思いとどまった。茶色いマントが翻りバサリと乾いた音を立てる。何か嫌な予感を覚え、アルティードは固唾を呑んだ。
「先日、またエメラルド鉱石の剣を渡してある」
放たれたのは端的な一言。その重さと宣言された意味を受け止めて、アルティードは歯噛みする。
その武器は、確かに必要だ。万が一ミスカーテが現れたとしたら、武器無しには対抗できないだろう。ラウジングは破壊系を使えないし、精神系もさほど得意ではない。それはカルマラも同様だった。
「……そうか」
「他の武器もいずれ調整せねばならないな」
ケイルは真顔のままそう言い放ち、アルティードを置いて足早に去っていった。その後ろ姿を肩越しに見送り、アルティードは瞳をすがめる。
あの剣をラウジングは使うことができるのだろうか? カルマラに武器を持たせるのは危険極まりないのでラウジングに託すしかないのだが、それでも不安は拭い去れない。
後悔の念を抱えたまま、不安定な気持ちのまま、戦場に出るのは危険だ。それは彼らの足を引っ張る。
「無事でいてくれ」
願う言葉が、白い回廊へと染み込んでいく。銀の髪を掻きむしりたい衝動を堪え、アルティードも歩き出した。
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