第6話
「……あっ」
そこで不意に後ろからコスミの声がした。何かに気づいたような声音だった。不思議に思ってジュリが振り返ると、コスミはポケットに手を入れたまま瞳を瞬かせている。
どうかしたのかと問い返そうとして、ジュリはその理由を察した。
コスミは何故だかいつも同じハンカチを持ち歩いていた。白い地に可愛らしい赤い花が刺繍されたものだ。誰かの贈り物だとは思うが尋ねたことはない。おそらく、それが見当たらないのだろう。
「コスミさ――」
呼びかけようとしたところで、ジュリは息を呑んだ。ぞくりと、何か得体の知れない感覚が背筋を這い上ってきた。理由もわからぬ、とにかく冷たく凍り付くような、腑の底をかき混ぜられたような不快な感覚だった。
思わず強ばった顔を解したくてもなかなかうまくいかない。あらゆる言葉が喉の奥へと引っ込んでいく。
おろおろするコスミに、たくとコブシも気づいた様子だ。よつきの足も止まったようだった。ジュリがどうにか声を絞り出そうとしていると、後ろを振り返ったコスミの肩がぴくりと震える。
「お嬢さん、落とし物ですよ」
コスミが目を向けた先には、一人の男がいた。いかにも親切そうな調子で手を差し出して微笑む男。特別低くも高くもないその声は実に柔らかだ。それでもジュリは得体の知れない違和感を覚えた。
「これ、お嬢さんのでしょう?」
コスミへと伸ばされた手の中には、見覚えのある白いハンカチがある。コスミはおずおずと頷いた。
「あ、すみません。ありがとうございます」
ジュリは胸の前で手を握りながら二人を凝視した。ハンカチを手渡してきたのは、目深に帽子をかぶった痩せた男だった。そろそろ夏が終わるとはいえ黒ずくめの恰好は暑苦しく見える。
髪は結い上げてしまっているらしく帽子に隠れてほとんど見えないが、頬に一つこぼれ落ちているのは眩しい程の赤毛だった。ほとんど赤といってもよいかもしれない。
「いえいえ。気をつけてくださいね」
我知らず息を呑んでいたことを自覚し、ジュリは震える拳をもう一方の手で包み込んだ。鼓動が速まっている。息苦しい。今にも汗が噴き出しそうなこの感覚は一体何なのか。
答えを求めて男を見つめていると、彼の視線がふいとジュリの方へ向けられた。吸い込まれそうな黒い瞳。その奥にあるのは――品定めをする者の貪欲な光のように思えた。
「おや」
男の唇から赤い舌がちろりとのぞく。そこでようやく、ジュリはあることに気がついた。
男は気を隠している。それなのに空気ごと揺さぶるような何かが感じられる。ねっとり体に纏わり付くようなこの感覚は、無世界の夏の空気を思わせた。
「ジュリ、どうかしましたか?」
異変に気づいたらしく、近づいてきたよつきの手がジュリの肩を掴んだ。それにすら過敏に反応してしまい、体が強ばる。
何と答えたらよいのかわからず、彼女は唇を噛んだ。目の前のこの男に何かを感じ取ったのは自分だけなのか? それすら問いかけられない。
ハンカチをポケットにしまったコスミは、そこでようやく奇妙な間が生じていることに気づいたようだった。不思議そうに瞬きしている様子を見る限りでは、妙な感覚に陥ってはいないらしい。コブシとたくも怪訝そうにジュリを見ている。
やはり自分だけなのだと悟り、ジュリは喉を鳴らした。
「おかしいなあ。気づかれてしまいました?」
黒ずくめの男が、にたりと笑った。軽妙な声とは裏腹に、帽子に手を掛ける仕草は不思議と艶めかしい。白い指先がそっとツバを摘み、そのまま胸元へ移動する。
帽子の陰からこぼれ落ちるように現れたのは朱色の髪だった。それはどう考えても人間の持つ色とは思えぬもので。髪を染める風習のある無世界でも滅多に見ない、鮮やかな色合いだった。
「これでも結構隠すのは得意なのになぁ。そのための上着まで作ったのに」
ジュリは息を止めた。鼓動が早鐘のように打つ。これ以上この声を聞いてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。それでも男から目を逸らすことができなかった。彼女の肩を掴むよつきの手に、にわかに力がこもるのがわかる。
「ジュリ」
問われるように名を呼ばれても、小さく首を横に振るしかできない。ジュリにもわからない。男が何者かなど予想もつかない。けれども一つだけ確かなことがあった。――この男が、普通の人間であるはずがない。
「あなたたち、技使いですね? それもあの時、魔獣弾と交戦していた」
男の口から飛び出した魔獣弾という名前は、その場を凍り付かせるだけの力を持っていた。それまで怪訝そうにしていたコブシ、たく、コスミも一気に顔を強ばらせる。魔獣弾のことを知る存在。――やはり、この男は魔族だ。
「ああ、そんな顔しないで欲しいな。安心して、今日はここで攻撃するつもりはないから」
片手で帽子を抱えたまま、男はもう一方の手をひらりと振った。その動きにあわせて黒い長衣が揺れる。
全ての動きが滑らかだ。それでいて得体の知れない圧迫感を放っている。ジュリはもう一度固唾を呑み、意を決するよう強く拳を握りしめた。
「あなたは……」
「君たちが察した通りの存在だよ。でも心配しないで、今は何もしないから。ここで暴れたら神に見つかってしまう。それは僕も嬉しくないのでね。君たちだって、死にたくはないでしょう?」
くつくつと笑いながら投げかけられる言葉の冷たさに、ますますジュリの体は震えそうになる。倒れまいと足に力を込めても、地を踏みしめる足の感覚すら曖昧だ。
それでも肩を掴むよつきの手が、かろうじてジュリの支えになっていた。ゆっくりと息を吸い、吐き、平静でいようと努める。
「あなたは何者ですか?」
尋ねる声はジュリが予想していたよりもしっかりとしていた。その事実が少しだけ、力を与えてくれた。返答を待ちつつじっと男を見据える時間が妙に長く感じられる。通り過ぎていく人々の話し声が遠かった。
「ああ、自己紹介がまだだったね。僕の名前はミスカーテ。プレイン様直属のミスカーテというものです。覚えておいて」
一見友好じみた笑顔で、男――ミスカーテはそう名乗った。プレインという名前にも、直属という響きにも心当たりはない。しかし彼がそう口にした意味は、漠然とだが予想できた。
おそらく、それは強者を意味している。だからあえてここで宣言しているのだろう。つまり彼はこちらを揺さぶりたいに違いない。その思惑に乗ってはいけないと、ジュリはきつく唇を引き結んだ。
「ねえ、そんな顔しないで。大丈夫。慌てなくてもこの星はいずれ戦場になる。人間はみんな死ぬよ。できたらその火付け役になれると嬉しいんだけどなあ。そしたらきっとプレイン様も認めてくれる。そうは思わない?」
ミスカーテが何を言っているのか、やはりジュリにはわからなかった。人間が死ぬ? ここが戦場になる? それは単なる脅しだろうか?
だが魔獣弾、魔神弾のことを思えば、単なる大言ではないだろう。もし次々と彼らのような者が現れたらどうなるだろうか? ミスカーテの言う通り、ここは戦場となるかもしれない。
「何を言ってるんですか……?」
背後からよつきがそう問うた。震えをどうにか押し込めた声を、果たしてミスカーテはどう受け取ったのか。周囲を通り過ぎる人々が怪訝な視線を向けてきたが、それ以上の違和感は覚えていないようだった。
その事実をどう受け止めてよいのか判断できず、ジュリはただただ精神を張り詰めさせる。ミスカーテが本当にここで何もするつもりがないのならいいが。――もしもここで何かが起きたら、きっと自分たちは死ぬ。
「知らないの? かわいそうに。僕らはみんなこの星を目指している。アスファルトの申し子がいくら足掻いたところで無駄だよ。君たちはいずれ死ぬんだ。でもそれまで……そうだね、少しの間くらいは楽しんでもいいんじゃないかな? 僕ももう少しのんびりしたかったところなんだ」
流暢に話すミスカーテは、言葉の通り面白がっている様子だった。獲物を狙うような双眸とは相容れぬ弾んだ声音が、彼の心境をよく伝えてくる。
唐突に、ジュリは理解した。彼は楽しんでいるのだ。この狩りを。
「おっと長居はよくないね。神に見つかったら大変だ。それでは」
突然、ミスカーテは空を見上げた。つられてジュリも天を仰いだが、薄青の空には雲が浮かんでいるばかりだった。それ以上の何かはない。視線を戻せば、ミスカーテは手をひらりと振りつつ帽子をかぶり直している。
「またどこかで」
踵を返したミスカーテは、上機嫌な足取りで歩き出した。カツカツと小気味よい靴音が石畳に反響する。その背中を、追いかける気持ちにはなれなかった。
ジュリは張り詰めていた息を吐き出した。ゆっくり視線を落とすと同時に、よつきの手も離れていく。彼女はその場に座り込んでしまいそうになる自分を叱咤して、おもむろに振り返った。
「よつきさん……」
「今のは、魔族、ですか?」
「そうだと思います」
よつきと顔を見合わせれば、コブシたちが近づいてくる気配がする。三人の気には混乱が満ち溢れていた。それも仕方がないだろう。
ジュリは握りしめていた手をそっと開いた。すると困惑と恐怖を滲ませたよつきの声が鼓膜を揺らす。
「ここに、魔族がいるというのは……」
「どういうことなのかはわかりません。ですが先ほどの話を聞く限り、リシヤの森での戦闘を見ていたのは間違いないでしょう。魔獣弾と繋がりがあると考えても差し支えないと思います」
ジュリは頭を振った。あんな者が意味もなくこのバインにいるはずもない。この奇妙な病は魔族の手によるものなのか? それともこの謎の現象を利用しようとしているのか?
あれこれ考えてみても答えは見つからない。それでもこの事実はおそらく一刻も早く上に知らせる必要がある。
「とにかく、まずは宮殿に戻りましょう」
早鐘のように打つ鼓動を押さえつけるように、ジュリは胸元のシャツを握りしめた。この動揺が静まるには、しばらく時間がかかりそうだった。
ミスカーテの機嫌がよいことは、すぐに見て取れた。ふらふらとどこかへ出かけたと思ったら、帰ってきた途端ずっとこの調子だ。
鼻歌を歌いながら瓶を弄んでいる姿を、魔獣弾はひっそりとうかがう。青い光が明滅する中、白く浮き上がるようなミスカーテの笑顔は実に妖艶だ。
上機嫌な理由を尋ねてもよいものかどうか、魔獣弾には推し量れなかった。この高位なる魔族の考えることは、魔獣弾には掴めない。
自分たちの思考の及ばないところに立っている男だ。ごく当たり前の問いかけすら機嫌を損ねる結果にもなりかねなかった。だから魔獣弾は座り込んだまま、ただひたすら時が流れるのを待つ。
「人間の技使いに気づかれました」
ミスカーテが口を開いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。あまりに唐突だったため、魔獣弾の反応も遅れた。「えっ?」と間の抜けた声を上げてしまってから、彼は後悔する。
しかし幸いなことに、ミスカーテは意に介さなかったようだ。黒い箱に腰掛けたまま、瓶を見つめながら口の端を上げている。
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