第八章 薄黒い病

第1話

「滝先輩、昨日の相談の件ですが」

 部屋に入ろうとした滝を呼び止める声があった。ちょうど朝食の片付けが一段落したところで、部屋も廊下もどことなく騒々しい。

 それでも近づいてきているのは気でわかっていた。ただし用があるのが自分だとは思わなかった。

 滝が静かに振り返ると、長い髪を一本に括った梅花が近づいてくる。その整った顔を見ながら、滝は昨日のやりとりに思いを巡らせた。心当たりはあった。『訓練』についての話だ。

「訓練場所のことか?」

「はい、あの後上に掛け合ってみたんですが、使える場所が確保できました」

「本当か!?」

 思わず滝は声を上げた。駄目で元々のつもりでの話だったので、まさか翌日に話が通っているとは想像しなかった。

 梅花はほとんど無表情のまま首を縦に振り、一度周囲へ視線を向ける。廊下にいる数人が聞き耳を立てている様子だったが、全員神技隊なので問題はない。

 魔獣弾、魔神弾との戦闘に向けて訓練がしたい。それが滝たちの出した結論だった。

 無世界にいる間は到底無理なのだが、神魔世界でとなると話は別だ。広い場所さえ確保できれば技を使うことはできる。ならばただ暇をもてあましているよりも何かできることをやりたいという思いが、皆の中に湧き上がってきていた。

 そうでなければ誰かが死ぬかもしれない。その誰かは自分かもしれない。現実として迫ってきた恐怖に突き動かされた形とも言える。

 怪我人だったラフトたちも回復したので特にやることもなくなり、あれこれ考える時間ばかりが増えてしまったせいもあるだろう。

「宮殿で、子どもの技使いが訓練に使用している場所が幾つかあるんです。そのうちの一つ、裏側の方は今はほとんど使われていないようです。外になるんですが、そこなら使ってもいいと言われました。どうします?」

「ああ、もちろんそれでかまわない。助かる」

 むしろ外の方が都合がいい。人間相手に技を使うのとは違い、対峙するのは得体の知れない『魔族』という存在だ。破壊系という聞いたこともない技を使用してくる人外の者だ。

 だから訓練するならばできるだけ広い場所、どんな技でも使えるような空間が望ましい。

「よかった。滝先輩ならそう言うと思って、実はもう使用申請を出してるんです。午後からは使えると思います」

 すると梅花は軽く肩をすくめて淡く微笑んだ。この場に青葉がいたらどんな顔をするだろうかと、つい滝はそんなことを考える。

 最近、彼女はこうして柔らかい表情をすることが増えた。レーナが戻ってきてからはなおのこと顕著のような気がする。

「さすがだな。ありがたい」

「いえ。とにかく何でも時間が掛かるのがここの悪いところなんですよ。少しでも先回りしておかないと……。あ、そうだ、滝先輩」

 わずかに苦笑して頭を傾けた梅花は、そこで何か思い出したようにいつもの無表情になった。彼女の気にわずかに滲んだ躊躇が気に掛かる。それは言いづらいことを口にする時の苦々しさにも似ていた。

 促すよう「どうした?」と尋ねれば、彼女は逡巡しながらも口を開く。

「滝先輩は、戦闘用着衣を持っている方に心当たりがありますか?」

 確認する言葉に、滝は小さく唸った。梅花が言いにくそうにした理由は、何となく察せられた。そんな心当たりなど普通はない。が、念のため確認せざるを得ない状況だ。

 青葉から戦闘用着衣を手に入れたと聞いた時は驚いたものだが、確かに親世代の技使いなら一着くらい持っていても不思議はないだろう。ただし、それをきちんと譲り受けた者がどれくらいいるのか……。

「なるほど、難しい問題だな」

 両親が息災である者が、神技隊に何人いるのだろう。滝は知らないが、それでも多くはなさそうだと予想できた。技使いが比較的集まっている地域は、かつて『奇病』が蔓延した場所であることが多い。

「ただオレに関して言えば、確か父さんのが残っていたはずだ。形見みたいなものだったから、兄さんもたぶん捨てていないはず」

「本当ですか!?」

 珍しくも梅花が喫驚した声を上げる。滝も今までその存在については記憶の底に沈めてしまっていた。あれを自分が手にする日が来るとは想像もしていなかった。

 父が亡くなったのはもう十年以上前のことになるか。その命を奪ったのは、やはり奇病だ。ヤマトでは別段珍しい話ではなかったが、それでも気持ちの整理がついてもなお、あの衣服を手に取ってみる気にはなれなかった。

 当時の滝にはまだ大きかったという理由もある。それでも捨ててしまわなかったのは、高価だからという理由以上のものがあった。

「ああ。ただし、取りに戻るとなると一旦ヤマトに行かないといけないな」

 戦闘用着衣がそう簡単に傷むとも思えないので、使用するのは問題ないだろう。

 懸念する点があるとすれば、この宮殿を離れることだ。久しぶりに故郷に足を踏み入れるのは何だか複雑な気分だし、いつ魔獣弾が動き出すかわからない状況というのも落ち着かない。そもそも、宮殿から出ることを許してもらえるのかどうか。

「そうですよね……。でもそれで戦闘用着衣が手に入るのでしたら。今後のことを考えると優先事項の一つだと思います」

 それでも梅花は躊躇することなくそう答える。彼女の中ではもう結論が出ていることらしい。相槌を打った滝はわずかに眉をひそめた。そうなると、兄とも顔を合わせることになるのか。

「心当たりのある方には行ってもらおうと思ってます。人数が多いのでしたら何人かずつでと考えてますが……どうかしましたか?」

「ああ、いや、こっちのことだ。そうだな、もしかしたら俺みたいな奴が他にもいるかもしれないし、声を掛けてみるか。梅花はその訓練場所の方を頼む。戦闘用着衣の方はこっちで確認してみる。人数把握しておけばいいんだな?」

「はい、そうしていただけると助かります」

 小さく頭を下げた梅花はどこかほっとしように、わずかに申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 だが滝が言葉を継ぐより先に、「リューさんに会って手はず整えておきますね」と言い残して踵を返す。結われた髪がその背中で踊る様を、滝は見送った。

 相変わらず忙しい少女だ。この宮殿では妙な決まり事が多く、いちいち確認を取らないと身動きが取れない。しかも、何をどこに確認すればいいのか滝たちにはさっぱりわからなかった。

 それ故、こういう時はいつも梅花頼みとなる。スピリットのローラインも宮殿出身のはずなのだが、彼はこういうことには疎いらしかった。それとも、梅花が詳しすぎるのか。

「無理かかってなきゃいいんだけどな」

 滝は嘆息しつつ独りごちた。梅花が倒れるようなことになれば、この宮殿の中では情報を探ることも動くことも不可能だいっても過言ではない。先日の戦闘でも彼女の役割は大きかったから、全般的に頼りすぎなのかもしれなかった。

「……負担が偏るのはまずいんだよなぁ」

 それでも宮殿にいる限り逃れられない部分もある。薄暗い思いを抱えつつ、滝は首の後ろを掻いた。




 薄闇に点るのはぼんやりとした青い光だった。黒い箱がそこかしこに置かれている奇妙な空間の中に、魔獣弾は座り込む。

 手近にあった小さな箱を手に取って蓋を開けると、その中からぼんやりと光が溢れ出した。ほとんど白に近い薄青い光を吸い込むような気持ちで、彼は大きく深呼吸する。

 ――実際には、この仕草に意味はない。そもそも彼らは呼吸を必要としない。だが今は仮初めにでも『生き物』のような形を取っているのだから、そこに合わせた動作の方が存在の安定化に繋がる。

 ただ精神を補給するだけではなく姿形に一致したイメージを膨らませていくことが肝要だと教えてくれたのは、ミスカーテだ。魔獣弾はその横顔を思い出しながら、消えつつある青白い光を凝視した。

「お帰り」

 ふいと、背後から声がした。ほとんど気配のしない登場の仕方にも最近は慣れてきていて、振り返った魔獣弾は「ただいま戻りました」と簡素に答える。

 ふわふわと浮いている青い光球の下にいるのはミスカーテだ。妖艶な色を纏った眼差しで微笑みながら、静かに近づいてきている。揺れた黒衣の裾が箱の一つを撫でたのか、乾いた音がした。

「ずいぶんくたびれた様子だね。申し子たちは元気だったかい?」

「それはもう、憎らしいほどに」

「ああ、それはよかった」

 楽しげに笑うミスカーテを、魔獣弾はじっと見上げた。やはり変わっているとしか言い様がない。申し子のことを口にする時のミスカーテは実に嬉しそうだ。

 その心境が魔獣弾にはわからなかった。彼らはあの腐れ魔族――アスファルトに生み出されし者たちなのに。

「彼らが簡単に死ぬとは思ってもいないけれど、でも最近の神魔の落とし子はおとなしかったから、心配していたんだよ」

「……はあ」

 一体どこをどう心配していたのか理解できない。首を捻る魔獣弾の横に、ミスカーテは腰を下ろす。黒い箱の一つに座ったらしい。

 箱の大きさはまちまちだが、その全てに精神が蓄えられていた。そんな技術など聞いたことがなかったので、最初に見た時はずいぶんと驚いた。今でも半信半疑なところはあるが、その恩恵にあずかっている身なので口にはできない。

「君は封印されていたから知らないだろうけど、申し子たちは……特に最後の一人は有名でねえ」

「最後の一人?」

「最後に目覚めた、ほら、一人だけ女の子がいただろう? 彼女にはずいぶんと邪魔をされたよ」

 そう話すミスカーテはやはり楽しげだ。青い光に照らされた横顔には、愉悦の笑みが浮かんでいる。憤るのが普通だろうにと思うと、風変わりの一言で説明できるものではない。魔獣弾は小さな黒い箱を横に置くと、瞳をすがめた。

「そうでしたか。私は、全員が目覚めたという話も聞いていなかったので」

「なるほど、君はそうだろうね。仕方ない。彼女は本当に面白いんだよ。僕らのやり方がわかってるみたいな邪魔の仕方をしてくるし。かといって神の味方ってわけでもないし」

「はぁ」

「人間の立ち位置に近いのかもしれないね」

 くつくつと笑い声を漏らしたミスカーテは、うねる毛を指に巻き付けた。彼の特徴として語られるその赤い髪は、今は青い球に照らされ不思議な光を纏っているかのように見える。

 魔獣弾はどうにかため息を飲み込んだ。やはりミスカーテの思考は理解できない。

「未成生物物体。アスファルトの申し子。神魔の落とし子。瞬殺のレーナ。まあ色々呼ばれているね。噂も多くて、どれが真実なのか僕もわかっていない。アスファルトは本当に厄介なのを生み出してくれたものだよ。でもそんなことを成し遂げしまう彼の力は計り知れないよねぇ。たまらないな」

 うっとり微睡むようなミスカーテの声は、魔獣弾をぞっとさせるだけの力を持っていた。ある種の恍惚が垣間見える彼の気は、純粋なだけに空恐ろしい。

「あの、ミスカーテ様……」

 魔獣弾は怖々と呼びかけた。ミスカーテの機嫌を損ねたくはないが、しかしだからといっていつまでもこの調子では困る。

 ミスカーテという存在は魔族の中でも貴重だ。自分たちの力について興味を持ち、調べ、それを何かに役立てようとしている者というのは実のところ少ない。それどころではない状況に置かれているとも言える。

 そんな中でもミスカーテは、精神を効率よく集めるための道具の開発から亜空間の利用の仕方まで、幅広く熱心に研究している。半魔族についてもだ。魔獣弾たちにとっては救世主にも等しい。

 一方、アスファルトが何をやっているのかという点については情報がないに等しかった。あの五腹心も一目置く存在であることは知っているが、具体的に何をやっているのか伝わってこない。そもそも、アスファルトは気まぐれで反抗的だという。

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