第七章 受容と瓦解と
第1話
闇そのものと思いたくなる薄暗い空間に、かすかな呻き声がした。べっとり体に染み付いてくるような不快な感情を伴った、呪いのような声だ。
目を閉じて優雅に歩いていた男は、やおら振り返った。ゆっくり目蓋を持ち上げてみてもさほど視界は変化しないが、それでも闇の濃淡がうっすらと捉えられる。
その向こう側に何かがいる。気が感じ取れる。男は口角を上げ、縮れた自身の髪を指先で弄んだ。
「おやおや、こんなところにお客さんが」
男が大袈裟に腕を広げれば、この空間と同化しつつある彼の黒衣がゆうらり揺れる。男はその気配に満足しながら、わざとらしく靴音をさせて歩き出した。
地面などないはずなのに、それは洞窟内にでも反響するようによく鳴る。小気味よい旋律が、不安定な世界をさざ波のように伝わっていく。
前方にある気が、かすかに揺らぐのが感じられた。男の存在に気づいたのだろう。それでも動かぬ何者かに向かって、男は近づいていく。
こんな場所では普段の距離感など当てにならないが、それでもさほど離れてはいないという自信があった。
「どちらさんかな」
ここが亜空間であることを男は知っている。ちょっとした綻びからいとも容易く崩れ去ってしまうような、不安定な世界だ。
こんな場所に紛れ込む者がいるとは珍しいことだった。気まぐれに「調査」に乗り出している男くらいかと思っていたが、違ったらしい。
「何かあったのかな?」
ようやく男は何者かの前まで辿り着いた。軽やかな靴音が止むと、全てを浸食するような静寂が戻ってくる。
座り込んだまま身じろぎもしない様子で顔を俯かせている青年。彼が魔族であることは明白だった。気は小さいが、人間のものとは違う。
「どうしたのかな? そんなところに座り込んで」
男はじっと青年を見下ろす。薄闇に溶けてしまいそうな、ほとんど黒ずくめに等しい恰好だ。そして、声を掛けても反応はない。
男は口角を上げた。答えるだけの気力がないのだというのは容易に想像できた。弱り切った気は儚げな灯火も同然だ。
「ずいぶんとくたびれた様子だね」
かろうじて、座り込んでいた青年が顔を上げた。黒い髪に縁取られた顔の青白さがやけに目立つ。光を宿していないような薄ぼんやりとした双眸を、男は静かに見据えた。
「半魔族か」
まじまじと観察しているうちに違和感に気づいた。この気の歪さは半魔族のものだ。ただ弱っているだけではない、純粋なる魔族にはない揺らぎを含んでいる。
もっとも、半魔族という素材に慣れ親しんだ者でなければ区別などつかないのだが。
独りごちるような男の声は、どうやら青年にも届いたらしい。魂の抜けかけた薄暗い双眸に、わずかに疑問の光が宿ったのが見て取れた。
男は縮れた赤い毛を指に巻き付けつつ、ニタリと笑った。まだそんな目ができるということは手遅れではない。使い道はある。
「アスファルトの作品じゃないね。ということは僕のかな?」
半魔族は誰にでも生み出せるものではない。死にかけた魔族を無理やりこちら側に引き戻す荒療治だ。戦力不足を補うために、失敗を前提として施行される禁じ手に近い。
だから「死んでいないだけ」という状態に至ることも多かった。それを成功させることができる者は限られている。――「成功」の範囲をどこまで含めるかにも左右されるが。
「……ミスカーテ様?」
不意に、青年の唇がかすかに動いた。こんな場所でなければ聞き漏らしてしまいそうな、か細い声が空間を揺らす。
男――ミスカーテは頷いた。その名を記憶しているという事実は、青年がかろうじて「成功作品」に含まれていることを意味している。
「僕の名前、知ってるんだね」
「それは、もちろん。しかし、私は、ミスカーテ様には直接は……」
「じゃあ僕の部下か。仕事が雑だなぁ。後で言っておかないと」
ミスカーテはくつくつと笑った。侮蔑の言葉に晒された青年が、ぐっと息を呑むのが感じ取れる。
そのどろどろとした負の感情に、ミスカーテはわずかな満足感を得た。もう少し良質な感情が摂取できたらいいのだが、これだけ疲弊している状態ではそれを望むのも酷というものか。ゆっくりと相槌を打って、ミスカーテは口の端を上げた。
「こんなところにいたら、精神がすり減っていくばかりだよ」
魔族にとって、休息というものは精神の回復には何ら寄与しない。回復させるためには他者の感情……気が必要だ。
一人きり、誰も気づかないような亜空間に座り込んだままでは、それを得ることも不可能だろう。緩やかに死につつあるようなものだった。
「ここから動けないのかな?」
おそらく、誰もがこんな場所からは抜け出そうとするだろう。だが亜空間を出るためには何らかの技が必要だ。その精神が足りないのか、それとも使い切ってしまうことを恐れているのか。
どちらにせよ、ここで誰かを待ち続けているだけというのは全てを運に任せているに等しい。愚かなことだ。
いくら問いかけてみても青年は押し黙っている。答えにくいのか、口を開くのも億劫なのか。両者だろうと予想し、ミスカーテは瞳をすがめた。
この半魔族にこれだけの傷を与えた者に対する興味が湧いた。神が大きく動いた気配はなかったはずだ。
ひっそり一人でこんな事を成し遂げてしまう『直属殺し』は、先日までミスカーテ自身が相手をしていた。だからその仕業という可能性も排除できる。人間でこんなことが可能な者など片手で数えられる程度だろう。
「それじゃあこういうのはどうかな」
返事は期待せずに、ミスカーテは背を屈めた。青年の顔をのぞき込むと、その双眸が怪訝な色を呈しているのがわかる。黒い瞳に映る自分の顔がやけに楽しげであることを、ミスカーテは自覚した。この高揚感は久しぶりだった。
「君が僕に協力するというのなら、助けてもいい。どうかな? 悪くない条件だろう?」
このまま死ぬつもりならば断ればいい。死にたくなければ呑むしかない。そういう提案だった。青年がどちらを選択したとしても、ミスカーテに損はない。断られたら無理やり連れ帰って実験材料にするだけの話だった。
数を減らしつつある魔族を実験対象とするのは咎められやすい。だが自ら死に行くことを選択した者ならば糾弾されることもないだろう。同族のために役立つのだから、この青年も文句はあるまい。
「どうする?」
そんなミスカーテの思惑に気づいているのかいないのか、青年はゆくりなく頷いた。ミスカーテはくすりと笑って、そっと右手を差し出した。
久しぶりの人混みというのは、思っていた以上に体力を削るものらしい。ようやく寄りかかれる壁を見つけ出した青葉は、ひとまず梅花の肩を掴んでそちらへと寄った。
ただでさえ口数の少ない彼女が終始無言なのは、疲労困憊だからだろう。眼差しにも力がない。
「暑いなぁ」
ベンチでも見つかればよいのだが、こんな街中ではそれも望めない。梅花を無理やり壁側に押し込むようにして、青葉はため息を吐いた。
かろうじてビルの陰になっているのが救いだが、ぬるりと肌に張り付くような熱気からは逃れられなかった。彼は額を拳で拭いながら瞳をすがめる。抱えた袋の中をのぞき込むと、つい眉根が寄った。
「後は何が必要だったっけ?」
「ようのは買ったから、青葉たちの服じゃない? ……せめて平日ならよかったわね」
答える梅花の声にも疲れが滲んでいた。彼女の言う通りだ。本当は明日以降にする予定だったのだが、もう一着あると思っていたアサキの服が焦げついて駄目になっていることが発覚してしまった。それで予定が狂った。
アサキは遠慮して余分な服を持っていなかったのが裏目に出た。無世界の夏がとんでもなく暑いことを忘れていたことも災いしている。
「そうだな。一体、これだけの人がどこから出てきたんだか」
大したことがないはずの買い物も、混み合っていれば時間がかかる。しかも五人分だからなおさらだ。かといって買い物に人員を割くのは、少しでも生活費を稼がなければならない現状を考えると望ましくない。
もっとも、青葉にとっては梅花と二人きりになる貴重な機会だったので、さほど苦痛ではなかった。問題なのは当の彼女が弱っていることだ。そもそも彼女は人が多い場所を苦手としている。様々な気を浴びるような状態になるのが苦痛らしい。
そこに今日は暑さが加わっているので、体力のない彼女には厳しい状況だ。長い髪を結わえてみても帽子をかぶってみても気温からは逃れられない。
「まだまだ帰れそうにないな。ちょっと休むか?」
「……お金が掛かるわよ」
何気ない調子で提案してみたが、予想通りの言葉で断られた。休憩場所となりそうなところは大抵埋まっているし、適当な飲食店の類も安いところほど満席だ。
神魔世界に入り浸っていて収入が途絶えていたことを考えると、お金を使うのはどうしても躊躇する。
「それじゃ、オレらのは最低限の服だけにするってのは? また後で買いに行くってことで」
「それだと同じことの繰り返しになるんじゃない? 神魔世界に呼び出されるようなことがあったら、すぐに駄目になるわよ」
「まあ、普通の服は、技を喰らったら一発で使えなくなるからなぁ」
青葉は首の後ろを掻いた。しばらく呼び出されるようなことがないとわかっているなら心配ないが、その保証はない。
やはりレーナたちはいまだ見つからずこれといった異変も生じていないが、魔獣弾が生きていることは間違いない。いつ現れるのかは予測がつかなかった。本当に迷惑な話だ。
「技はもちろんだけど、木の枝が引っかかっただけでも駄目ね。色が薄いと土汚れも目立つし……」
「あー汚れが目立たないのは黒っぽい服か。――でも、夏は暑いな」
唸った青葉は苦笑した。脳裏をちらとアースたちの姿がよぎった。彼らと同じような恰好をするのにはやや抵抗がある。複雑な気分になりそうだ。
「そうね……」
梅花も何か感じたのかどうか。わずかに下がった視線が定まらなかったのが、青葉にも見て取れた。いつも通りにしているように見えても、やはり思うところはあるのだろう。
少しでも話題を変えたくて、一旦ビルを睨み上げた青葉は袋を抱え直した。背後を家族連れが通ったのか、賑やかな声が鼓膜を揺らす。
「ああ、こういう時に戦闘用着衣があればなぁ」
夢物語だとわかっていてあえてその名を口にする。戦闘用着衣は、かつて技使いの一部が使用していたという特殊繊維でできた衣服の総称だ。名称そのまま、技での戦闘の際に衝撃を軽減する目的で着用する。
無論、刃を防ぐような効果はないが、火の粉くらいならものともしないし、そう簡単に破れることもない。ただし、現在ではかなり高価だ。
「戦闘用着衣を毎日、しかも無世界で着るの?」
「あ、そうか。呼び出しはいつ来るかわからないのか。……無理だな」
「まあでも、上着だけでもあれば違うわよね。羽織るだけでも意味があるわ」
狙い通り、彼女の思考はより現実的な話に向かったようだった。抱えた袋の上に顎を乗せ、考え込み始める。頭が傾けられたせいで、結わえられた髪がさらりと揺れた。
「宮殿で支給されたりとかは……しないんだよな?」
「そんな気前のよいことするわけないでしょう。……おばあさまの服が残っていたら使えたんだけど、一つも残ってないのよね」
傾いた帽子の陰から、梅花の黒い瞳が見える。瞬きをする様から特に動揺はうかがえなかった。
一方、何てことない調子で口にされた祖母の話に、青葉は内心でどきりとする。今まで身内の話題は避けている様子だったのだが。両親の事情が知れたので躊躇する必要がなくなったのか。
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