第2話
母親が神技隊として無世界に派遣された後、梅花の面倒を見ていたのは祖母らしい。しかしそれ以上の情報は耳にしたことがなかった。せいぜい知っているのは、強い技使いであったという事実だけだ。
「ん? ああ、おばあさまは技使いとしても実力者だったし、その他の方面でもすごかったらしいのよ。お金も、持っていたみたい」
青葉が一瞬返答に詰まったことを、梅花はどう解釈したのだろう。どことなく怖々と申告する彼女を、彼は横目で見た。彼女の祖母が元気だった頃となると、まだまだ世の中が明るかった時期だ。リシヤの町は滅んでいなかったし、奇病の流行前だ。
「そ、そうなのか」
「有名な話だったらしいの」
梅花が何やら複雑そうにため息を吐く。その拍子にずり落ちそうになった帽子を、青葉は咄嗟に手で押さえた。彼女の両腕は荷物を抱えるのに精一杯な様子だ。大した重さではないのだが服なのでかさばる。
「ありがとう」とかすれ気味な声でお礼を言われるのを耳にしながら、彼はその帽子を元の位置に戻してやった。
こういう接触の際に不可解な顔をされなくなったのは嬉しい。だからといって調子に乗って頭を撫でたり髪を梳いたりすれば、さすがの彼女も「変だ」と気づいてしまうようだが。
普通の距離感というものがきっとわからないのだと、彼は想像している。彼女が知っているのは他人の距離感か、上の者の距離感だけなのだ。おそらく家族の距離も知らない。
もちろん、親類の距離も知らない。そこに付け入る罪悪感がないと言えば嘘になるが、それでも触れたいと思うのだから厄介だ。
表に出しがたい感情を自覚しつつ、彼は耳の後ろを掻いた。どこかの男女の楽しげな声や子どものぱたぱたとした靴音。それらを意識して気持ちを落ち着かせながら、話の続きを口にする。
「で、その服は――」
「母が知り合いに譲っちゃったって聞いたわ。母は外で仕事をする人じゃなかったから、戦闘用着衣も必要なかったみたいなの」
予想しなかった理由を耳にして、青葉は頭を抱えたくなった。戦闘用着衣なんてものを他人に渡す者がいるとは到底信じがたかった。お人好しにもほどがある。
あの宮殿でのことだ、うまいこと言いくるめられたのではないかと疑いたくもなった。
「だから私の手元には一着も残ってないの」
肩をすくめた梅花の心境はいかほどのものなのか。残念に思っているのは伝わってくるが、その理由は実用性のみなのか。青葉には推し量れない。
しかし根掘り葉掘り突っ込むわけにもいかず、彼はただ相槌を打った。額の汗がまた一滴、頬を伝って落ちてくる。
すると、背後を通り過ぎようとした人があからさまな舌打ちをしていった。顔をしかめた青葉の視界に、背の低い男の後ろ姿が映る。
くたびれたシャツを着た、まだ年若そうな青年だ。わざとらしく不機嫌そうな足音と共に遠ざかっていく。
「……こんなところで立ち話だと邪魔だったかしら」
梅花はちらとそちらへ視線を送り、困惑気味に呟いた。青葉は眉根を寄せる。
彼らはできるだけ壁際に寄っているし、話を聞かれないようにと距離も詰めてる。通り過ぎていった男とぶつかりそうになるような位置でもなかった。今の反応は、どちらかと言えば――。
「あーそうかもな」
こんなところでいちゃつくなという意味だろうか。青葉は苦笑をどうにか堪えた。
梅花はおそらくこれっぽっちもそんな可能性を考えていないに違いないが、そう見えるという意識はあった。彼女の水色のワンピースはまさにデート向きの服というように映るし、そもそも友達同士でこんなに近づくのはおかしい。
見下ろせば彼女のつむじが見えるような位置。その気になれば難なく腰を抱き寄せられる距離。
普通なら警戒されないことを男として悲しむべきところかもしれないが、彼女の場合は少し事情が違った。だが無論、そんなことは傍から見ただけではわからない。
「どうする? ここでずっと悩んでるわけにもいかないだろ」
もう一度尋ねると、梅花は首を傾けて小さく唸った。「早く買い物を終わらせて帰ろう」という提案が即座に出ないところを見ると、青葉が予想していた以上に辛いらしい。
そうなると、どこかで休憩するしかないか。もう一往復してまた買い物に出る交通費より安くすめばいいのだが。
「決められないならオレが決めるぞ。ひとまずどこかで休もう。暑さで倒れたら話にならないしな」
青葉はそう結論づけると、反論が出る前に梅花の肩を抱き寄せた。両手が塞がっているせいで抵抗もできない彼女は、一瞬きょとりと目を丸くし、ついで当惑したように眉根を寄せる。
「ちょっと、青葉」
「ふらふらしたまま歩くと危ないだろ? 人多いし」
「そうだけど」
文句のありそうな顔だったが、それでも梅花はそれ以上何も言わなかった。抑えられた彼女の気が「仕方ない」と言っているようだ。
拒否されなかったのは単純に嬉しいが、彼女自身のことに関する諦めのよさは若干心配になる。今までもこうやって何か諦めてきたのではないかと、つい考えてしまう。
「休むところって、どこか当てはあるの?」
「いや、あんまない。でも比較的若い奴らが多いとこの方がきっと安いんだろうな」
青葉は頭を振った。彼らが街に出てくることなど滅多にない。神魔世界とは違い人で溢れかえっているこの空間は、彼も得意ではなかった。
もちろん、こんなところでは何をするのもお金が掛かる。特別車を駐めるような場所からは大体離れているので、交通費だけでも馬鹿にならなかった。だから訪れるのは買い物をする時くらいだ。
サイゾウやアサキも街に出るのは嫌がるので、青葉の出番となることは多い。
「安いお店の方が混んでると思うんだけど……」
「そうだなぁ。運良く席が空いてればいいんだけど。あ、そうだ、お前の誕生日もうすぐだろ? ようが何かやりたいってはしゃいでたぞ」
金銭に関することとなると、気持ちは沈んでいく一方だ。青葉はあえて話題を変えた。
六月も後半に入り、夏本番が近づいてきている。彼女の誕生日が七月八日だというのは去年知った。今年こそしっかり祝ってやりたいとは思うが、そのためのお金がないことが問題だった。――ここに来てもやはりお金である。
「別にいいのに」
「よくないって」
「今まで祝ってもらったことなんてなかったのよ? そういう風習があるなんて知らなかったし」
「だから余計になんだって」
つい声を荒げたくなるのを青葉はどうにか堪えた。赤に変わった信号を睨み付けながら、徐々に歩調を落とす。
誕生日に限らず、彼女は誰かと何かを祝うという経験がほとんどないらしい。それを知った時は大変衝撃を受けたものだ。
彼女にとっての記念日というのは、祖母の命日くらいしかなかったようだ。宮殿の人間は忙しいからそういうことに手間暇を掛けないのだとしても、どうしても寂しく感じられる。
「祝うのが普通なオレたちからしたら、その、なんていうか気になるんだよ」
自分たちが祝いたいのだ、という点を強調しないと彼女には通じない。それもこの一年ちょっとで学んだことだった。
「梅花のためだ」みたいな言葉は全て振り払われてしまう。ようやく最近「心配だ」という言葉は受け取ってもらえるようになったところだ。
「何かしないと青葉たちが落ち着かないっていうなら、反対はしないけど。でも――」
不意に、梅花は口をつぐんだ。足を止めた青葉は、声の途切れ方に違和感を覚え、彼女へと双眸を向ける。ゆくりなく立ち止まった彼女は、体を強ばらせたままゆっくり後方を振り返った。
「梅花?」
肩から手を離した青葉も、その視線を追うように頭を傾けた。目に飛び込んでくるのは、こちら側へ迫ってくる人の群れだ。思い思いの表情を浮かべた者たちが、こちらの信号目掛けて押し寄せてくる。
「――お父様」
彼女が見つけたものが何だったのか、尋ねる前に答えが飛び込んできた。瞳をすがめた青葉は、はっとして精神を集中させる。
あれこれと考えているうちに、すっかり気の探索を怠っていた。近づいてくる気のうちの一つは、覚えのあるものだった。人の波の中から、青葉はその持ち主を捜そうと目を凝らす。
「本当だ」
いた。道路側に近い方に見知った顔があった。梅花の父――乱雲だ。暑そうな顔をしながら、腕時計を見下ろして時間を確認している。右手に持っているのは袋だろうか。彼も買い物帰りらしい。
そこまで判断できたところで、乱雲がふと顔を上げた。その双眸は何かを探すように彷徨った後、青葉たちの方へ向けられる。気を抑えているから技使いとはばれないはずだが、乱雲の方にも覚えがあったのだろうか。明らかに、視線が交わった。
青葉は適当な愛想笑いを浮かべてから、怖々と梅花の様子をうかがう。彼女はぎゅっと買い物袋を抱きしめたまま唇を引き結んでいた。
人の流れに乗ったまま、乱雲が近寄ってくる。目が合った以上は気づかなかった振りをするわけにもいかないだろう。
どうするのが正解なのか、考えても答えは出ない。青葉はため息を飲み込んだ。雑踏の賑やかさが急に他人ごとのように感じられた。
どうしてこうなったのだろう。青葉はその言葉を何度も胸中で繰り返した。原因がわかったところで現状が変わるわけでもないのだが、それでもつい考えてしまう。
入り口を覗き込んだこともないお洒落なカフェの中は、適度な涼しさが保たれている。会話の邪魔にならない程度に流れている音楽も、どこか上品な印象だ。
若干薄暗い店内は明かり一つ取っても凝っているし、艶のある黒いテーブルも椅子も趣深い。居心地の良さが追求されているようだ。
「今日は暑いね」
青葉の斜め前の席で、乱雲が柔らかく微笑んだ。水の入ったグラスを手にする姿には慣れが見える。
一方の青葉たちは注文を決めるのにも一苦労だった。こちらの珈琲は何故こんなに種類が多いのか。違いもわかりにくい。ただ冷たい飲み物を口にしたいという欲求を満たすのが、こんなに面倒だとは思わなかった。
もっとも、躊躇ったのはその値段を見たせいもある。「奢るから」という乱雲の一言を断れなかった時点で気づくべきだったのだ。
まさかこんなに高いとは思わなかった。普段の弁当代の方が圧倒的に安い。……本当に、どうしてこうなってしまったのか。
涼しい場所で休憩できるというありがたみを噛み締めるべきところなのに、ちっとも安らげない。注文を終えた時点で、青葉はすっかりくたびれていた。
「人も多いし」
「そうですね……。お父様は、何か用事があって?」
「先日注文した本が取り寄せになってしまったから、受け取りにきたんだよ」
この何とも言い難い空気の中、乱雲と梅花は当たり障りのない会話を交わしている。まるで何かを探り合っているかのようだ。
青葉は隣にいる梅花をちらと横目に見た。彼女が淡々と話すのはいつもと変わりないが、それでも気を遣っているのはそこはかとなく感じ取れる。言葉を選んでいる。
一方の乱雲は、朗らかに話すよう努めている様子だった。もっとも、いつも通りの乱雲というのを青葉は知らないのだが。
「そうだったんですか」
話が途切れそうになったところで、幸いなことに飲み物が運ばれてきた。笑顔でアイスコーヒーを受け取った青葉は、一気に飲み干したいのをぐっと堪える。胃の奥がきりきり痛むような気がするのは錯覚だろうか。
このぎこちなさが気にも表れないよう、彼は店内の観察を再開した 。だが他の客を凝視するわけにもいかないので、長くは続かない。
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