第13話
「仕事が終わるのが遅かったりしますし。生活リズムがずれてしまうことも多いですので」
「あ、なるほど。そういうことする暇がないわけだ」
にひひと笑ったダンの肩を、振り返ったミツバが慌てて掴んだ。
青葉は背後にいる梅花の顔を確認する勇気がなくて、ひっそり息を呑む。年頃の少女がいるのに何てことを言い出すのか。放っておいたら度を超していきそうなのでますます心配だ。今のところ梅花から負の感情は認めないが。
「そうですね。夜は死んだように寝ている人が多いという話です。そもそも、リズムが違うと出会えないのかもしれません」
青葉の心配とは裏腹に、梅花は人ごとのように話を進める。いや、実際に人ごとなのかもしれない。
彼女には家族を作るつもりなど全くなかったのではないかと、今になって思い至る。彼女の両親のことを考えればさもありなんだ。
「ちょっとダン、それくらいにしなよ。こんな場所でこんな時に話すことじゃないでしょ」
「ん? 何だよこれくらいで。ミツバは繊細だなー。気が小さいぞ。だから子ども扱いされるんだよ」
「それとこれとは関係ないでしょ!?」
わいわいと騒ぎ始めるダンとミツバ。ため息をかろうじて飲み込んだ青葉は、恐る恐る梅花の方を振り返った。
彼女は相変わらず無表情のまま歩いていた。いや、彼の視線に気づいて不思議そうに瞬きをする。
「何?」
どこまでもいつも通りだった。それが逆に青葉には不安の種だ。レーナのことでもう少し動揺しているのかと思っていたのだが、次の日からはそんな素振りを見せていない。
家族とのやりとりの後もそうだった。一度落ち着けば、まるで何事もなかったかのような顔で冷静に対応している。もっとも、家族とのいざこざについては、その後神魔世界での騒動が大きくなってしまったせいもあるか。
「いや、別に」
ダンとミツバがいるので問いただすようなこともできず、青葉は言葉を濁した。ここでは何を尋ねても曖昧な返答しかもらえないだろう。家族についての話はなおのことだ。
――と、廊下の突き当たりにさしかかったところで、こちらへと近づいてくる気が感じ取れた。この強さは技使いのものではなさそうだが、もちろん気を抑えてそう装っている可能性も否定はできない。
「リューさんだわ」
立ち止まった梅花が左方を仰いだ。右に曲がろうとしていた青葉は足を止め、視線を巡らせる。
目を凝らすと、左手に伸びる廊下の向こうから誰かが近づいてくる姿が見えた。足首まである長い紅色のスカートが、真っ白な世界ではよく目立つ。梅花の言う通り、多世界戦局専門長官のリューだ。
「梅花、ちょうどよかったわ」
眼鏡の位置を正し、リューは歩調を早めた。ダンとミツバもその声を耳にし、怪訝そうな顔をして振り返っている。
リューの様子は相変わらずだ。きっちり髪をまとめ上げ、黒い上着のボタンを首まで留めた姿からは、とにかく堅いという印象を受ける。
「もしかして捜しました? すみません」
「いえ、これから捜そうとしていたところよ」
早足で近づいてきたリューは、梅花の前で立ち止まった。技使いではないリューは梅花の不在にも気づけないのか。偶然でもすんなり会うことができたのは幸いなことだった。
「あなたたちに伝えなければならないことがあるの」
そう告げたリューの表情は硬かった。どうもよい知らせではなさそうだ。息を呑んだ青葉は、ちらりと梅花を横に見る。
「何でしょう?」
「神技隊には、一度無世界に戻ってもらうことになったわ」
抑揚乏しいリューの声は、静かな廊下で反響した。思わず喉を鳴らした青葉の耳に、ダンたちが漏らした「え?」という声が届く。
梅花はわずかに顔をしかめてから「そうですか」と答えただけだった。彼女の気に揺らぎはない。
「上の方たちによる森の探索は続行されているようだけれど、探知機でも反応がなかったらしいの。あの魔獣弾の動きもないようだしね」
まだ探索は続いていたのか。さすがに火は消し止めたはずだと思うが、レーナたちの行方を掴むことを、そう簡単に諦められないのかもしれない。
青葉たちが黙り込んでいると、リューは懐から一通の手紙を取り出した。素っ気ない白い封筒には、宛名も差出人もないようだ。
「これはミケルダさんから、あなたに。……まったく、あの人もあなたには甘いのよね」
苦笑混じりの付言に、梅花は何とも言い難い表情を浮かべる。それでも異を唱えずに手紙を受け取った。
すぐさま開封しなかったのは、リューに見られたくなかったからか。それとも別の理由があるのか。「ありがとうございます」と簡単に礼を告げる声だけが、辺りに染み込む。
「無世界に戻るということですが、いつですか?」
「今晩にも」
「……ずいぶん急ぎますね」
「あなたたちにいて欲しくないのかもしれないわね。とりあえず戻ったら、通常通りの仕事をして、連絡を待っていて欲しいということよ」
心持ち目を伏せたリューは、また眼鏡の位置を正した。通常通り――つまり違法者の取り締まりを続けろというのか。何もわかっていないのに? まるで神魔世界での出来事など何もなかったかのように?
簡単には受け入れがたくて、青葉は小さく唸った。この状況でそんな命令を一方的に言い渡すとは、上は相も変わらずだ。
「……わかりました」
それでも梅花はあらゆる文句を飲み込んだようだった。仕方がないと諦めているのか、ここでリューを追い詰めても意味がないと思っているのか。どちらもあるだろう。
この決定がリューの意志によるものでないことは、青葉にも想像できる。こういった判断が上のどの辺りで決められているのかは、いまだに謎だ。
「他の神技隊にも伝えておきます。では今晩までに皆にも準備をしてもらって、ゲートを調整して出ますね」
「許可証は用意しておくわ。夕方、取りに来てちょうだい」
「はい」
リューは一瞬だけ何か言いたげに顔を上げ、しかし口には出さず踵を返した。翻った紅のスカートが衣擦れの音を立てる。カツカツと規則正しい靴音と共に、真っ直ぐな背中が遠ざかっていった。それを青葉は黙したまま見送る。
曲がり角の向こうにリューの姿が消えてから、梅花は大きく息を吐いた。そしてそっと手紙の封を切る。
青葉は彼女の手の中をちらとのぞき込んだ。長くはない手紙だ。しかしやや癖のある字で書かれた文面は、すぐには頭に入ってこない。
「上もごたごたしているみたいね」
軽く目を通した梅花は、まず一言そう口にした。そこへダンとミツバが近づいてくる。二人はうかがうように青葉の顔を見てから、リューの去っていった方へ一瞥をくれた。
青葉は手紙から目を離し、梅花の肩を軽く叩く。
「何て書いてあったんだ?」
「上で色々駆け引きだの何だのがあって、状況が読みにくいって。私たちを疎ましく思っている人も、利用しようとしている人もいるから、落ち着くまで離れていた方がいいだろうという助言が書いてあったわ。そうなるように仕向けておくからって」
「じゃあ無世界に戻れっていうのは、そのミケルダさんの誘導ってことか」
「そうみたい」
手紙を閉じた梅花は軽く肩をすくめた。微笑んでいるような、若干呆れているような、そんな眼差しで白い封筒を見つめている。
ミケルダが、上の者の中でも特に神技隊を案じてくれているのは何となく理解できた。無論、それが功を奏しているかどうかは別の話だ。それでもあまり好意的になれないのは、青葉の私情故なのか。
「おいおい、その言葉を本当に信じていいのか?」
「また僕ら利用されてるだけなんじゃない?」
ダンとミツバは半信半疑の様子だった。二人はミケルダとも言葉を交わしたことがないはずだから、疑問に思うのも道理だろう。
梅花は肩越しに二人の方を振り返り、わずかに小首を傾げる。封筒を撫でる指先に、さらりと揺れた黒髪が触れた。
「ミケルダさんの情報は、かなり曖昧な表現のこともありますが、大体間違ってません。信用してもいいと思います」
「へぇ。つまり、今までもそうだったってこと?」
「はい。彼は神技隊結成の時にも関わっていたので、私たちのことについては……まあお節介焼きなんですよ」
表現を選んだ梅花は、先ほどのリューのような苦笑を漏らした。負の感情、正の感情が微妙に入り交じった、何とも言い難い複雑な気だ。
彼女がそのような気を放つのは珍しいことだった。両親とのことがあった時も、そうではなかったのに。
「決まってしまったものは仕方ないですしね。滝先輩たちに伝えに行きましょう」
「――梅花はそれでいいのか?」
そのまま歩き出そうとした梅花の腕を、青葉は咄嗟に掴んだ。華奢な体がぴくりと震え、ついで訝しげな双眸が向けられる。かすかに揺れる黒い瞳を真っ直ぐ見据えて、青葉は眉根を寄せた。
「レーナたちのこと、このままにしていいのか? 気にならないのか?」
「……もちろん、気になってるわ。でも今の私たちにはどうしようもないもの」
聞き分けのよい子どものような言葉。だが逸らされた視線が全てを物語っている。
納得などできるわけがなかった。ただ、無力であることは痛感している。自分たちは何も知らないどころか力も及ばない。出向いても巻き込まれて混乱するばかりだった。考えなしに行動するのでは意味がない。
「……レーナたちは、死んだの?」
独りごちるようなミツバの声が、白い廊下に染み入る。誰もが口にするのを憚っていた疑問だ。梅花の体に力が入ったのがわかった。
あれだけの負傷で、姿どころか気配も察知できないとなれば、その可能性も考えざるを得ない。気を隠せるような余裕もなかったはずだ。無世界に逃げ込むことも難しいだろう。
「わかりません」
梅花の首がゆるゆると横に振られた。伏せられた瞳が何を映しているのか、青葉にはわからない。
「でも生きていると、私は思っています」
けれども、放たれた言葉には力があった。願うだけのものではない。どこか確信を孕んだ声音が、青葉の鼓膜を震わせる。
「彼女が、最後に私に言ったんです。『また会おう』って。少なくとも彼女は、あの状況でも死ぬつもりはなかったんじゃないかと思うんです」
そんな言葉を、青葉は耳にしていなかった。最後というのはアースに連れ去られる直前のことだろうか。青葉は記憶を辿りながら首を捻る。ほとんど音になっていなかっただろう声を、本当に唇の動きから読み取ったのか。
「そうなんだ」
「もちろん彼女にも想定外ということはあるでしょうから、絶対とは言えません。だから、とにかく今は待つしかないかなと思ってます」
「そうだね。僕らもそれまでには元気になっておかないと」
深くは追及しないミツバの陽気な返事が、青葉としては助かった。ダンも今は茶化したりすることなく、うんうん深く相槌を打っている。
どうしようもないのならば、今できることをするしかない。憂いていても仕方がない。半ば自らに言い聞かせるよう、青葉は胸中で囁いた。
「まずは部屋に戻りましょう」
誰も異論を口にしなかった。青葉はか細い腕から手を離し、もう一度リューの去っていった廊下へ視線を送った。
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