第11話
「やっぱりそうなのね。前に梅花が亜空間で怪我したでしょう? その感じと似てる気がするのよ。あの時はしばらくしたら回復したから、たぶん大丈夫だとは思うんだけど」
残った水を飲み干し、リンは眉根を寄せる。この傷に関してなら上の者の方が詳しそうだが、わざわざ様子を見に来てくれるだろうか?
少なくともしばらくは放置される気がした。慌てて去っていったカルマラの後ろ姿を思い出すと、その確信が強まる。どうも上も余裕がなさそうだ。
と、肩を落とそうとした時、慣れ親しんだ気が近づいてくることにリンは気づいた。これはシンの気だ。はっとして扉へ近づこうとするのと、ノックの音がするのは同時だった。
「リン、いるか?」
すぐさま扉が開き、そこからシンが顔を出す。どうやらやってきたのは彼だけのようだ。その後ろには誰もいないし、近くに気配も感じない。空のコップを持ったままリンがぱたぱたと駆け寄ると、彼はわずかに頬を緩めた。
「よかった。無事にみんな連れてこられたんだな」
「そうね、この通り。宮殿の中を移動するのが一番大変だったけど」
リンはちらと肩越しに振り返る。宮殿までは空を飛んで移動することができるが、さすがに建物の中でその手は使えない。
宮殿の人間たちが手を貸してくれるはずもなく、結果、比較的元気な者を酷使する形になってしまった。しかも宮殿内をしばらく彷徨っていたので、精神的な疲れも増している。
「ああ、中じゃ飛べないからか」
「そうそう。それで、青葉たちは?」
一番気になったことを、リンは真っ先に問いかけた。彼女たちがリシヤの森を脱出した時、シンは青葉や梅花と一緒にいたはずだ。その後どうなったのか、二人はどこにいるのか。シンの様子を見る限りでも無事なのはわかるが。
「青葉と梅花は滝さんのところに向かった。森の出口のところでカルマラさんっていう上の人に会って。……どうやらカルマラさんはこれから倒れたレンカ先輩を『上』に連れていくらしい。そうなると滝さんたちが森に置き去りになってしまうからって」
シンはやや戸惑った様子でそう説明した。記憶を掘り起こしている様子だ。
おそらく、その時の彼と今のリンの心境は同じだろう。一度に予想外の情報が飛び込んできて頭の中が整理できない。カルマラという上の者なら先ほど会ったのでわかるが、レンカのことは初耳だった。
「え、ちょっと待ってよ。レンカ先輩が倒れたの? いつ?」
「――青葉の話だと、オレたちと合流する前のことらしい。それで、一部の結界が突然修復されたって」
「え? 何で!?」
「オレに聞くなよ。誰にもわかってないらしい。その件にレンカ先輩が関わってるかもしれないから、念のため上で様子を見てくれることになったんだとさ」
シンはわずかに肩をすくめた。ますます混乱したリンは、目を白黒させながらコップを両手で包み込む。さらに詰め寄りたいのはぐっと堪えた。尋ねられても彼も困るだけだろう。
「それで、青葉たちはカルマラさんと一緒に行ったのね」
「ああ。リンたちがここにいるはずだってのは、カルマラさんから聞いた」
なるほど、それでこの部屋がわかったのか。――と考えたところで、リンは首を捻った。
部屋がある棟を教えてもらったのは理解できる。だが、それだけで辿り着けるような場所ではない。何度も出入りをしているよつき、ジュリたちがいても大変だった。
「そうだったのね。でもよく迷わなかったわね? こんな迷路みたいなところ」
ひたすら白い廊下ばかりで案内一つない無愛想な建物だ。リン一人だったら迷子になっていたことだろう。シンは「ああ」と気のない声を漏らし、ちらと後ろへ一瞥をくれる。
「宮殿に入ったところで途方に暮れてたら、親切な人が案内してくれて」
「え、そんな人が宮殿にもいるんだ!?」
つい声が高く大きくなった。コップまで落としそうになり、リンは慌ててそれを抱え込む。不親切な人ばかりで嫌な思い出しかない場所だ。そんなことがあるのかと信じがたかったが、シンが嘘を吐く理由もない。
大体そんなことでもなければここには辿り着けないはずだ。事実なのだろう。そんな人間がこの宮殿でどのように育ってきたのか興味はあるが、今話し合うことではない。
「オレも、びっくりした。って今はそんな話をしている場合じゃないよな。皆はもう大丈夫なのか?」
シンは相槌を打ちながら部屋の中へ入ってくる。「うん、ジュリが見てくれたの」と答えたリンは、ゆっくり視線をジュリの方へ転じた。
先ほどと同じ場所、壁に背を預けたまま、彼女は思案顔をしていた。透明なコップをねめつけて唇を引き結んでいる。
「ジュリ、どうかしたの?」
「……いえ」
「でも、今何か考えていたでしょう?」
ジュリの纏っている気には、懸念の色があった。何か嫌なことに感づいてしまった時によく放っていた気だ。
顔を上げた彼女は、リンの視線から逃れるよう顔を背ける。ふわりと揺れた茶色い毛の向こうで、長い睫毛が震えていた。リンは嘆息を飲み込んで歩き始める。不思議そうにしているシンの横をすり抜け、ジュリのいる壁際まで寄った。
「ジュリもごまかすのは下手ね」
指摘するのは得意でも、というのはあえて言わなかった。ジュリは微苦笑を浮かべると、リンへ一瞥をくれる。
「ちょっと、あの白い服の人たちのことを考えていたんです。――途中で逃げ出してしまった」
「ああ、魔獣弾が現れちゃった時に色々やらかしてくれた人たちね」
「はい。彼らが逃げたのって、もしかしたら、ラウジングさんに見つからないようにするためなのかなぁと思いまして」
どこか言いづらそうな様子で、ジュリはわずかに瞳を伏せた。そう言われてリンも思い返す。レーナの乱入でこれ幸いと逃げ出したように思っていたが、もし近づいてきていたラウジングに気がついていたのだとしたら――。
「まさか、ラウジングさんたちにも内緒で何かが動いてるってこと?」
「可能性はあるかな、と思っただけです」
ジュリは小さく首を横に振る。確かに、ラウジングも全てを知っているような様子ではなかった。森を脱出する寸前のことをリンは脳裏に描く。
駆けつけてきたラウジングの顔つきは、まさに血相を変えたという表現が相応しかった。上の中でも不穏な動きがあるのか? そんな話を梅花に聞いたような気もする。
「だとすると、ラウジングさんの話だけを聞いて動いている私たちは、実はちょっと危ないのかもね」
思わず独りごちると、北斗たちの方へ向かいかけていたシンが「え?」と素っ頓狂な声を上げ振り向いた。
起きている皆の視線が一度に集まったような気がして、リンは居心地の悪さに腕を抱く。疲労している者たちを前に、こういう話はしたくないのだが。
「上の抗争に巻き込まれてるのだとしたら、ってこと。これも可能性の問題よ」
苦笑する声は、白い無愛想な部屋の中でよく響いた。全てが取り越し苦労で終わることを、願わずにはいられなかった。
「あ、ラウお帰りー」
疲れ切ったまま真っ白な廊下を歩いていると、気の抜けるような明るい声が前方で反響した。この脱力はよいものなのか悪いものなのか。ラウジングが面を上げると、柱の陰から顔を出したカルマラがひらひら手を振っている。
相変わらずだ。昔から変わらない。その屈託のない笑顔を見ているとますます疲れが増すような、突き抜けてどうでもよくなるような、何とも言い難い心境になる。
片手を上げた彼はゆっくり彼女の方へ近づいた。こんな奥に誰もいないだろうと思って気を探ることもしていなかったが、その思考も彼女には筒抜けだったのか。
「ケイル様の尋問、いつもよりも長かったね?」
「アルティード殿が一緒ではなかったからな。普段よりもずっとねちねちしていた」
「うわー私だったら泣いちゃう。お疲れさま」
本当に労っているのかどうか怪しくなる笑顔と声音だ。追及するのも面倒になったラウジングは、ぐったりしたまま柱に寄りかかった。
森を出てアルティードに事を報告した後に待っていたのは、情報収集という名の下に行われている尋問だった。情報の管理を任されているケイルの詰問はなかなか厳しい。もっとも、当人には嫌味を言っているつもりもないのだから厄介なことだ。
「そのうちお前も呼ばれるぞ」
「でもラウの後だったら、私が話せるようなことはほとんどないもの。大丈夫大丈夫ー」
楽しそうにけらけらと笑うカルマラを、ラウジングは恨めしげに横目で見る。彼女のこの気楽さを一欠片でも分けてもらえたら、と思ったことは何度かある。諸刃の剣であることもわかってはいるが、たまには羨ましくなる。今日は一段とそうだ。
「ところでアルティード殿は?」
ラウジングは話題を変えた。ケイルの顔は、しばらくは思い出したくない。すると真顔になったカルマラは短い髪を掻き上げた。
「まだお部屋の中。あのレンカって子? の精神に、なにか気になることがあるみたいなの」
「……そうか」
「アルティード様がそんなことを言うなんて珍しいわよね。突然の結界修復に、何か心当たりでもあるのかなぁ」
子どものように小首を傾げたカルマラへ、ラウジングは一瞥をくれる。
今日は本当にわけのわからないことばかりだった。リシヤの森の結界の修復、そして半魔族の復活に、レーナの言葉。知らぬ間に奥歯を噛んでいたことを意識し、彼は息を吐き出した。
「ラウ、大丈夫?」
「大丈夫なわけがないだろう。封印まで解けたんだぞ」
「あの魔獣弾とかいう半魔族だっけ? 一人だけで封印されてたのかな」
「そうじゃなかったらぞろぞろと出てきたことだろうな。不幸中の幸いとでもいうか」
「そっか。じゃあ本当に初期の封印だったんだ。よかったよかった」
ふむふむと相槌を打つカルマラに、ラウジングは閉口した。彼女はいつも簡単に言ってくれる。誰もが恐れていたこの事態を「よかった」の一言ですませるのは彼女くらいだろう。
転生神リシヤは、まずは力の弱い半魔族から封印していったという。当初は一人ずつだったと聞くが、力の加減を覚えてからは複数の魔族を一度に封印していたはずだ。
綻びの生じやすい初期の封印だったから壊れてしまった……と考えるのは楽観的すぎるだろう。きっかけさえあれば、これから次々と封印が解けてしまう可能性がある。
「で、魔獣弾はどんな感じだった? やっぱり破壊系とか使ってきた?」
ラウジングが小声で唸っていると、カルマラは忽然と瞳を輝かせそう問いかけてきた。その声音には好奇心が滲んでいる。
この状況でそんな心境に至れる彼女はある種の天才なのではないかと、時折そう思う。どんなに頑張っても真似のできない精神構造だ。彼は額に手を当てた。
「おい、遊びじゃあないんだぞ」
「わかってるわよ。でも次は私も遭遇する可能性があるでしょう? ラウは怪我とかしなかったの?」
何をどうわかっているのか問いただしたい気分だが、それだけの気力がラウジングにはなかった。
彼女と言葉を交わす時に感じるこの疲労感は何なのだろう。くだらない話題ならば単なる笑い話だが、今回のはそれではすませられない。彼は手はそのままに頷いた。
「この通りだ。レーナたちもいたからな。……奴は、確かに破壊系を使っていた。完全な破壊系というよりは精神系混じりかもしれないな」
「うわぁ、嫌だねそれ。私たちも皆みたいにならないよう気をつけなきゃ」
軽い調子で放たれた言葉に、ラウジングは息を詰めた。強い破壊系の攻撃を受け続けた者の末路は、よく知っている。戦闘の前線に送られることのなくなった者たちは数多いる。まともには起きていられなくなった者たちもだ。
「――そうだな」
今もし、自分たちも戦えなくなってしまったら。考えてはいけないことが脳裏をよぎり、ラウジングは戦慄した。それだけは避けなければならない。これ以上アルティードの下につく者たちが減るのは許されない。
「気をつけなければな」
噛みしめた言葉が、胸の奥のわだかまりに静かに浸透していった。見上げてきたカルマラの眼差しが不安げだったのは、あえて気づかない振りをした。
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