第12話

 洞窟の中には妙な沈黙が横たわっていた。奥へ引っ込んだカイキは膝を抱え不満そうな顔をしているし、ネオンは気まずそうに隅で縮こまっている。

「お腹すいた」の一言を最後にイレイが黙り込んでしまうと、この静寂はほとんど凶器だ。立ったまま岩壁に背を預けていたアースは、どうにかため息を飲み込んだ。

 くたりと座り込んだレーナは、彼の足下にいる。先ほどから身じろぎ一つしていない。見えない傷を癒すよう両腕を抱え込み、固く目を瞑ったままだった。

 しかし彼女が眠っているわけではないことに、彼は気づいていた。その気がわずかながら膨らんだり縮んだりを繰り返している。これは何らかの技を使っている証だ。

 だから声を掛けることもできず、彼も黙している。傍で顔色を確認したいところだが、精神集中を乱したくもないのでそれもできない。明らかに不調そうなのを彼女が「繕えない」というのはよほどのことだった。じっと待つしかない。

 程なくして、ようやく彼女が目を開けた。ゆっくり吐き出された息が沈黙の中に染み渡っていく。

 彼はその場に片膝をつき、彼女の顔をのぞき込んだ。彼女が瞬きした拍子に、額から汗が一滴落ちるのが見える。色の悪い唇がぎゅっと引き結ばる様は、そこはかとなく不安を呼び起こした。

「レーナ、大丈夫か?」

「うん、もう大丈夫」

 返ってくる言葉などわかりきっているのに、ついそう問うてしまう。内心で舌打ちしたアースは、視線を感じて左手を見た。

 すると不安そうなイレイと目が合った。彼の眼差しも「大丈夫なのか」と訴えている。どこか縋るような面持ちだ。アースは堪えきれず嘆息した。

「だから無理はするなと言ってるだろう」

「われも、無理はしたくないんだけどなぁ」

 苦笑混じりの声が空気を揺らす。アースが目を合わせようとすると、つと視線を逸らされた。さりげなくといった調子だが、意図は明らかだ。レーナのこの態度は余裕のなさの表れだった。

「本気で言ってるのかよ、それ。レーナはいつも無理ばかりじゃないか」

 何をどう口にすべきかアースが逡巡していると、どこかふて腐れたようなカイキの声が響いた。心配を通り越して怒りの段階にまで達したらしい。

 その気持ちもよく理解できるので、アースとしては複雑だった。責めたところでどうにもならないのはわかっているのだが。

「もちろん、本気だよ。われの命はわれだけの命じゃあないからな……」

 今にもかすれそうな小声で、レーナは答えた。唇を噛むのを堪えている様子を見ていると、アースまで息苦しくなってくる。

 視界の端で、カイキが苦い顔をしたのも見えた。「まずい部分に踏み込んでしまった」という自覚はあるのだろう。視線を泳がせながら、隣にいるネオンに救いを求めている。

「ところで、一つ聞きたいんだけど」

 話題を変えるためか、仕方なそうにネオンがそう切り出した。いたたまれない様子のカイキを不憫に思ったのかもしれない。頬を掻きながら継ぐ言葉を選んでいるネオンへ、レーナは促しの相槌を打つ。

「あのよくわからない男が言っていた『腐れ魔族の申し子』って何だ?」

 それはアースも気になっていたことだった。あの魔獣弾とかいう黒い男が侮蔑と共に口にしていた言葉だが、彼らに心当たりはない。今の彼女に何かを説明させるのは憚られるのだが、そのままにはしておけなかった。

「ああ」

 レーナは一つ息を吐きながら軽く目を閉じる。それから岩壁に背をもたせかけ、膝の上で手を組んだ。

 緩やかに吹き込んだ風が、彼女の前髪を揺らす。ますますその顔色が悪くなったように思えて、アースの心にさざ波が生まれた。この感覚は何なのだろう。今まで以上に落ち着かない。

「その話か。そうだな」

「おいレーナ、今はまず休んだ方がいいんじゃないか」

 疲れの滲んだ横顔を見つめながら、アースは口を挟んだ。ある一定以上の精神を使用すると体調を悪くするのはいつものことだが、しかし今日のは一際具合が悪そうだ。血の気がないという段階を超えている。

 レーナの気に微妙な揺らぎがあるのも心配の種だった。魔獣弾の黒い技の影響だろうか?

「いや、いいんだ。今のうちに話しておかないとまずいしな」

 レーナの口角が上がり、その目蓋がゆっくり持ち上がった。かすかに震える長い睫の下では、黒い瞳が揺れていた。

 アースが思わずその細い肩を掴むと、一瞬だけ視線が向けられる。しかし彼女は何も言わなかったし、その眼差しも何も語らなかった。かろうじて微笑の形に整えられている表情が、いっそう不安を煽るのみ。

「今のうちにってどういうこと?」

 そこで、黙り込んでいたイレイが疑問の声を上げた。レーナの口ぶりに不穏なものを感じ取ったのかもしれない。問いかける声には、若干の焦りが混じっている。

 だがレーナは彼らの心中など素知らぬ様子で――おそらくあえてだろう――ゆっくり頭を傾けた。

「うん、あいつら焦っていたから」

 あいつらというのが誰を指しているのか、咄嗟にはわからなかった。イレイたちも同様のようだった。アースがつい眉根を寄せると、彼女は苦笑しながら付言する。

「我々が魔族関係者だと判断して、なりふり構わず動き出すかもしれない」

 ふいと、あのラウジングという男の顔が脳裏をよぎった。なるほど、「あいつら」とは彼らのことか。帰り際に見たあの眼差しには暗い何かが潜んでいたので、合点がいく。

「何だよそれ。オレたちって魔族なの?」

 不満そうなカイキの声が洞窟内で反響した。

 それはラウジングも口にしていた問いだ。自分たちが何者なのかわからずきているアースたちとしては、心穏やかではない。無論、自分たちが魔族などと呼ばれるような存在だとは思わないが。

「いや、違う。魔族ではない」

「じゃあオレたちって何なんだよ。どうしてあの男はオレたちのことを知っている風だったんだよ?」

 今まで溜め込んでいた疑念と苛立ちが一度に吹き出したような、そんな声音だった。アースがずっと奥底に抱えていたものと同じだ。

 カイキは普段「そんなことはどうでもいい」と言わんばかりの振る舞いだったが、そうではなかったのか。それともリシヤの森での魔獣弾の言動が、火をつけてしまったのか。

 カイキの詰問に対し、レーナは微苦笑を浮かべた。首をすくめようとする気配が肩から伝わってくるが、アースが掴んでいたので思いとどまったらしい。

 さすがにずっとそのままというわけにもいかず、彼は渋々と放した。それでも彼女は彼の方を一顧だにしなかった。言葉を選ぼうとしているのか、宙を凝視して「うーん」と唸る。

「我々は……そうだな、言うならば、とある魔族が作り出した、人工的な技使いに近い」

 そう間を置かずに、レーナは切り出した。簡潔な説明だった。あまりにあっさりと告げられたものだから、カイキは呆気にとられた顔をしている。アースも似たような心境だった。今まであれだけ躊躇っていたのがまるで嘘のようだ。

「人工的な技使いに近いって……」

「じゃあそのとある魔族っていうのが腐れ魔族? 腐ってるの?」

 繰り返すカイキの言葉を、イレイの素っ頓狂な声が遮った。「そんなわけないだろ」とネオンが独りごちるも、イレイに気にする様子はない。こういう時のイレイは本当に強かった。

 そのおかげか、ふっとレーナの肩の力が抜けるのがわかる。

「腐れ魔族っていうのは、一部の魔族が使っている蔑称だな」

「蔑称? 悪口?」

「そういうことだ」

 小首を傾げたイレイに向かって、レーナは頷いてみせる。どうやら魔族の中にも色々と複雑な事情があるらしい。魔獣弾が吐き捨てた言葉を、その時の顔つきを、アースは思い出した。ラウジングの眼差しとどこか共通点を感じるものだった。

「異端者なんだ。彼は……神の知識を利用することで、我々を生み出した」

 意を決するよう、一呼吸おいてレーナはそう告げた。突然話が大きくなったような気がして、アースは片眉を跳ね上げる。

 人工的な技使いという響きとはまた全く別の、ある種の奇跡を匂わせる言い様だ。しかし、漠然としすぎていまいち実感が湧かない。するとますます慌てた様子でイレイが目を白黒とさせた。

「え、え、ちょっと待ってよ。魔族って、神とかいう人たちと仲が悪いんじゃないの?」

「そうだ。互いが互いの生存を脅かす存在だと認識し、争っている」

「それなのに、その魔族が神の知識を利用したの?」

「だから異端者なんだ」

 レーナは何も違和感を覚えていないような口ぶりだった。おそらくそれは彼女にとっては当たり前の事実なのだろう。だが下地となる知識がまるでないアースたちにとっては、首を傾げるばかりだ。

 魔族がどういうものかも、神がどういうものかも飲み込めていない中で異端と言われても、理解が追いつかない。

「えーっとえーっと、つまり変わり者の魔族が僕らを作ったんだけど、僕らは魔族ではなくて……」

 整理しようと呟くイレイの声が、神妙な空気に染み入る。そこまで聞いたところで、レーナが何を懸念していたのかアースも気づいた。「魔族関係者」という単語にこめられた危惧が、今さらながら背筋から這い上がってくる。

「それはつまり、魔族側の一員と見なされる可能性があるってことだな?」

 一語一語確かめるように、静かにアースは確認した。レーナの双眸がゆくりなく彼へ向けられる。間近で見る黒い瞳の奥にあるものは、彼には見透かせなかった。彼女は微苦笑を浮かべたまま首を縦に振る。

「そうだ」

「誤解は解けないのか?」

「解くためには話し合う必要があるが、その時間と余裕があるかどうかが問題だな。それに――」

 レーナは少しだけ目を伏せる。揺れた前髪の陰りのせいで、ますます顔色が悪く見えた。また倒れるのではないかという憂虞が、アースの胸の内に広がる。

 だがここで黙り込まれても困る。「それに?」と彼は繰り返した。自分の声がひどく低く威圧的に響いたような気がして、そこはかとなくばつが悪い。

「理解があっても、敵と見なされる可能性はある」

 続く言葉は淡々としていて、ともすれば聞き流してしまいそうだった。レーナの声音には一種の諦めが宿っていて、悲嘆の色が感じられない。アースが絶句していると、慌てたカイキの声が洞窟内で反響した。

「それってどういうことだよ!?」

「魔獣弾と同じ考えに至るかもしれないってことだ」

「……魔獣弾?」

「申し子とか口にしていた男のことだ」

「ああ、あの黒いのか」

 あらためて考えてみると、妙な響きの名だ。魔族は皆そういう名前を持っているのか? 自分たちは本当に魔族と呼ばれる存在について知らないのだと、思い知らされた気分だった。それでも「魔獣弾の考え」の意味するところは察せられる。

 魔族の中の異端者。それは魔族にとっては敵。だが、神にとっても敵は敵だ。おそらくは、その「申し子」も――。

「じゃあ僕らはどうすればいいの?」

 置いていかれた子どものような声音でイレイが囁く。今彼らが置かれている状況は、何をどう解釈しても芳しくなかった。敵だらけの中に取り残されていると言っても過言ではない。

 そもそも、誰かを味方に引き入れようと思っていたわけでもない。レーナがどう考えていたかは知らないが、少なくとも現時点でその意図はないように思われた。

 だがあらゆる者たちを敵に回す現状が厄介であることは身に染みている。それでは目的が果たせない。

「どうもしない。ただ、色々と準備は必要だな。最悪の場合にも備えなければ」

 そう言い切ったレーナは、おもむろに立ち上がった。長い髪が揺れ、その先がアースの腕をかすめていく。慌てて止めようとした彼を制するよう、歩き出した彼女は肩越しに振り返った。

「少し外の空気を浴びてくる。大丈夫だから」

 何が一体どう大丈夫だというのか。信頼できる要素が限りなく無に近い言葉だ。しかしレーナを追いかけることは容易ではない。アースが立ち上がる前に、洞窟を出た彼女の姿は瞬く間に消え去った。

 まただ。まるで先ほどまでそこにいたのが幻であるかのように、跡形もなくなっている。中途半端に伸ばされた手の先が、ぎこちなく空を掴んだ。

「あー行っちゃったね」

 イレイの嘆息が鼓膜を揺らす。ようやく重大な事実を知ることができたというのに、喜び一つ湧いてこない。逆に憂いが、疑問が増えていくだけだった。

 よくよく考えてみると、不思議なところが無数にある。自分たちは何も知らないのに、彼女が知っている理由も。あの魔獣弾という男がアースたちの顔を覚えていた理由も。自分たちを生み出したという魔族がどこにいるのかも。

 何もかもが不明だった。

「本当に大丈夫なのかよ」

「いや、そんな風には見えなかったな」

「心配だよー」

 仲間たちの声に応えることができず、アースはゆっくり手を下ろした。指先に触れた岩の冷たさが、何か不穏な今後を予兆しているような気がしてならなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る