第10話
くぐもった悲鳴が上がった。刃は、魔獣弾の肩を貫通した。顔を歪めた魔獣弾は、肩を押さえながらふらふらと後ろへ下がる。
しかし追撃するかと思われたレーナは、地に降りた勢いを殺しきれず片膝をつき――そしてそのまま座り込んだ。白い刃も消える。
「え?」
青葉は思わず気の抜けた声を漏らした。何が起こったのかわからない。魔獣弾は相変わらず苦渋の表情でふらついていて、何か仕掛けた様子はない。
二人の他には、誰も動こうとする者はいなかった。皆呆然とその場に立ち尽くしている。
「レーナ!」
いち早く反応したのはアースだった。何かを察したらしく、若干顔が青ざめている。何だか見覚えのある状況だ。やはり亜空間でのことだっただろうか。
アースの声はレーナにも届いたようだ。彼女は口元を押さえつつよろよろ立ち上がる。足下は覚束ないが、再び倒れるほどではない。彼女はあいている方の手をひらりと振った。「大丈夫」とでも言いたいのか。
「申し子の分際で……! 本当に、あの腐れ魔族は、厄介なものを生み出してくれたものですねっ」
突然、魔獣弾は激昂した。不満と憎悪と蔑みの混じり合った気がぶわりと膨らむ。横目で確認すれば、肩を押さえた魔獣弾は唇を振るわせ、まなじりをつり上げていた。その双眸には警戒の光も宿っている。いや、恐れも含まれているか?
「いいでしょう。ここは、おとなしく引いてあげます。どうせ放っておいてもこの結界は終わりです」
周囲へ視線を走らせた魔獣弾は、駆け出そうとしたラウジングへと嘲笑を向けた。そして、躊躇せず踵を返した。波打つ黒髪が揺れたと思った途端、その姿が虚空に消える。
青葉は目を瞬かせた。まただ。レーナが移動した時と同じだった。まるでそれまで存在していなかったかのように消え失せている。おそらく、別の場所に移動したのだろう。
「逃げたかっ!?」
数歩進んだところで立ち止まったラウジングは、大きく舌打ちした。手遅れなのは彼も理解しているのだろう。思い切り土を蹴り上げている。
青葉は違和感のある腕をさすりつつ辺りを見回した。すぐ傍にいるシンは、困惑顔で服の土を払っている。怪我はなさそうだ。
先ほどと変わらぬ位置にいた梅花の隣では、イレイたちがおろおろしていた。さすがにこの事態にはついていけていないらしい。自分たちだけではないと安堵するのも変な話だが、苛立ちは少しだけ和らぐ。
肩を落とした青葉は、もう一度レーナの方へ視線をやった。駆け寄ったアースがふらついた彼女を支えている。声も掛けたようだが、青葉の耳では内容までは把握できない。
ひらりと振られた彼女の手のひらが、一部赤く染まっているのが見えた。
「お前はどうしてまたそうやって無茶をする!」
続く怒声ははっきりと聞き取れた。これも覚えのあるやりとりのような気がする。何故だか胃の底が重くなり、青葉は唇を引き結んだ。この居たたまれなさは何なのだろう。
「いや、ここで破壊系を連発されるとまずいのでな。急がざるを得なかった」
アースの叱責にも動じず、レーナはへらりと笑っているようだ。彼女のおかげで魔獣弾は去ったことになるので、ここは感謝すべきところなのかもしれないが。
しかしラウジングはそうは思わないだろう。青葉は横目でラウジングの様子をうかがう。土を強く踏みつけたラウジングの拳は、固く握られていた。
「そんなに怒らないでくれ」
レーナの言葉が途切れると同時に、ラウジングが顔を上げた。彼は彼女たちの方へ双眸を向けると、意を決したように、そちらへ真っ直ぐ近づいていく。不穏を感じさせる靴音が森に反響した。
「それ以上来るな」
無論、それを簡単に許すアースではない。ラウジングへ向けて伸ばされた手の中に、炎の刃が生まれる。揺らぐような不定の刃の向こうで、黒い瞳が剣呑な光を宿していた。
ただ牽制しているだけではない。いつでも本気で仕掛けられると、気も訴えている。
「お前たちは魔族なのか?」
忠告通り立ち止まったラウジングは、静かに問いかけた。青葉には、怒号したいのを押し殺しているように聞こえた。じわりと背中に汗が滲む。
もしラウジングがここで戦闘を始めたらどうすればいいのか? その場合は一旦待避した方がいいのか? 重だるさの増す肩を青葉はさすった。
「だから、魔族じゃないって何度も言ってるだろう」
「じゃあ一体何者だと言うんだ?」
「レーナ、もう答えなくていい。戻るぞ」
さらに詰問するラウジングを、アースはねめつけた。レーナの肩をそのまま抱き寄せるようにして、ラウジングから遠ざけている。
彼女の顔色が悪いことは、青葉の目にも明らかだった。アースとしては一刻も早くこの場を抜け出したいところなのだろう。その気持ちをこちらが酌んでやる必要はないのだが、利害は一致しているように思える。
「――ラウジングさん、ここでさらに戦闘するのはまずいです。結界に響きます」
じりっとラウジングの気が膨らんだところで、場を制する声が放たれた。梅花だ。「結界」という彼女の言葉に、ラウジングも冷静さを取り戻したようだった。
そうだ、自分たちが何のためにここへ来たのか思い出さなければならない。結界の修復が目的であるのに、自分たちで悪影響を与えているようでは意味がなかった。
「……そうだな」
吐き出そうとした何かを、ラウジングは飲み込んだらしかった。肩をすくめて振り返ると、青葉たちの方は一顧だにせずそのまま歩き出す。青葉はシンと顔を見合わせた。神技隊は無視してそのまま去るつもりか?
「行くぞ」
アースたちも動き出した。炎の刃が消えると、イレイの「はーい」という場違いに明るい返事が森の中にこだまする。
了解も得ずにレーナを抱き上げたアースは、ちらりと梅花を見遣ったようだった。いや、イレイたちを見たのか。青葉からでは判別できない。
「じゃあねー」
去っていくアースたちを、梅花は見守っていた。何か思案している横顔だった。だが足音が遠ざかったところで、嘆息しながらこちらへ目を向けてくる。疲れの滲んだ顔つきだ。彼女は一度足下を確認してから、やおら近づいてきた。
「――梅花」
「これからどうしましょう。リン先輩たちはもう森を出たみたいですけど。たぶん、レンカ先輩が倒れたままだし」
小走りで近寄ってきた梅花は小首を傾げた。その事実を忘れかけていた青葉は、何故自分たちだけがここに来たのかを思い出す。そうだ。その件で確かカルマラが誰かに報告しに行っていたのだった。
青葉は慌てて周囲を確認しながら、気を探ってみる。だがやはりここからでは遠方の気は感じ取れない。
ラウジングの姿もいつの間にか見えなくなっていた。相も変わらず頼りにならない上の者だ。青葉が唸っていると、シンが「え?」と疑問の声を漏らす。
「レンカ先輩が倒れた?」
「あ、シンにいたちにはまだ伝えてなかったっけ。ストロング先輩たちのところで、急に結界が修復されて。その時にレンカ先輩が倒れて」
「そうだったのか」
カルマラはもう戻って来ているのだろうか? 何にしろ、状況を把握しなければすれ違いになる可能性がある。そう思って梅花へ視線を送ると、彼女は小さく頷いた。
「まずは宮殿に戻りましょう。行き違いになったら困るし。そもそもここからストロング先輩たちのところに真っ直ぐ辿り着くとも限らないし」
そう指摘されると、ますます森を出るのが正しく思えてくる。首を縦に振った青葉は、また腕に違和感を覚えて眉根を寄せた。右腕がかすかに、左は肩の付け根に近い辺りがちくりと痛む。動かせないほどではないが、嫌な感じだ。
「……怪我?」
目聡い梅花はすぐに気づいたらしい。顔をしかめた彼女は、躊躇いなく腕に触れてくる。青葉は息を呑んだ。服越しに感じる彼女の指先の感触が、妙に意識される。
「見た感じの傷はなさそうだけど。さっきの黒い針みたいなの?」
「あ、ああ」
「レーナが破壊系とか言っていた技ね」
彼女は眉をひそめて考え込んだ。「破壊系」という響きには聞き覚えがなかった。少なくとも普通の技使いが使っている技の系統ではない。どんな効果があるかはわからないが、レーナの発言を思えば楽観視はできない。名称そのものも物騒だ。
「後でジュリに見てもらった方がいいかもしれないわね。カルマラさんたちは……まあ知っていても教えてくれるような状況にはないかもしれないし」
同感だった。上の者たちはおそらく魔獣弾のことで頭がいっぱいになっていることだろう。神技隊のことまで気を回してくれる余裕があるとは思えない。こちらはこちらで何とかしなければ。
肩を回した青葉は、嘆息しながら空を見上げた。重たげな雲は先ほどと変わらず、ただ鬱々と空を覆い続けていた。
宮殿の第五北棟の一室は、人で溢れかえっていた。元々は男性用の大部屋だったのだが、今は暫定的な治療室、休憩室と化している。
ぐるりと辺りを見回したリンは、水の入ったコップを両手にしたまま一息吐いた。応急処置もほぼ完了。水も行き渡った。これ以上のことは、少なくとも現時点ではできない。勝手に宮殿内をうろつけない限りどうしようもなかった。
ここでの待機は、カルマラという上の者の提案だ。宮殿の大門前まで辿り着いたリンたちは、そこで偶然カルマラと出くわした。
彼女がただの人間でないことは気でわかったのだが、何故だかこちらが神技隊の一員であるということまでばれてしまった。なので仕方なく事情を説明したところ、この部屋に戻るように言われて今に至る。
「ま、正しい判断だったわね」
頷いたリンは、視界の端にジュリの姿を捉えた。どうやら最後の一人も見終わったらしい。立ち上がって汗を拭い、結んでいた髪を解いている。リンは水がこぼれない程度の速度でそちらへ近づいていった。
「お疲れさま。ジュリも少しは休みなさいね?」
ジュリが振り向くのと同時に、リンはコップを一つ差し出す。
この水の場所を教えてくれたのはよつきたちだ。長々と待機させられていたのがこんなところで役立つとは、彼らも思わなかったことだろう。第五北棟には「念のため」の設備が多いらしい。
「ありがとうございます。リンさんもあんな技を使った後ですから疲れてるでしょう? 歩き回ってないで休んでくださいよ」
「大丈夫大丈夫。これくらいは平気よ」
「またそれですか」
「それに、そろそろシンたちも戻って来そうな感じがするのよね」
あいている手をひらひらと振ってから、リンは扉の方へ目を移した。宮殿内は妙な気に溢れかえっているためはっきり感じ取れたわけではないが。だが何となくそんな気がしていた。
ジュリが首を傾げたところをみると、そういった印象を持っているのはリンだけのようだ。
「リンさんがそう言うなら、そうなんでしょうが」
ジュリは眉をひそめながらも水を一気に飲み干す。何も口にせず森の中を歩き続けたので、喉も渇いていて当然だ。
リンもついでコップへ唇を寄せた。思っていたよりも冷たい。一口飲んだだけでも、あっという間に体中に染みていくような心地がする。
「ところで、みんなの怪我の状態はどう?」
コップ半分まで減った水を見下ろし、リンはそう問いかけた。ジュリが壁にもたれ掛かったのが、横目でもわかる。
軽く伏せられた顔には疲れが滲んでいた。治癒に難儀した証だ。あの魔獣弾と名乗る男が放った技は、あまり見かけないものだった。亜空間でラビュエダが使っていた技に似ているだろうか。
「傷そのものは大したことないんですが……変なんですよね。何だか皆さん体が動かしづらいみたいですし。何系の技かも不明ですね」
ジュリの答えは想像通りのものだった。どうも印象としては噂に聞く精神系と似ている。見た限りではわからない部分に影響があるのだと思うが、それが何かまでは把握できない。
そうなると無理はせずに休むしかないだろう。上がそれを許してくれるかどうかわからないのが困ったところだ。
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