第16話
「気にしないで欲しいと言っても無理なら、ちょっと早く自立したとでも思ってください。私は、私の道を探しているので」
そうしているうちに、普通に微笑むことさえ難しくなってしまった。しかし、こうやって足掻いているのが自分だけでないなら、もう少しだけ頑張れる気がする。
過去の決断に囚われている家族を解放したいのなら、安心してもらえるように努力しなければ。今はまだ無理だとしても、いつかそんな日が訪れるように。
「……あすずには、ごめんなさいと伝えておいてください」
「いや、あすずのことは梅花には責任はない。何も言わずにいたオレたちのせいなんだ」
「そうだとしても、伝えてください。傷つけたことには変わりないですから」
こんなことは終わりにしたかった。できることなら前を向いていたいし、振り返りたくない。どうしようもなかったことを引きずっていたくない。
緩やかな呼吸を意識した梅花は、ひたすら祈りを込める。少しでも幸せに見えるように。幸せになれそうだと思われるように。
「おい、梅花。本当にそれでいいのか?」
そこで、ずっと黙ったままだった青葉が口を挟んできた。梅花は瞬きをしながら彼の方を見上げる。傘の陰に隠れがちな黒い瞳が、複雑そうな色味を宿していた。異論があるらしい。
「なんていうか、また一人で頑張ろうとしてるだろ」
「そんなことないわよ」
どうやっても青葉の目にはそう映るらしい。ここでひっくり返さないで欲しいと視線で訴えても、効果はなさそうだった。半分当事者なだけに首を突っ込むなとも言えず、梅花は眉尻を下げる。
どうすれば通じるのか。するとそれまで渋い顔を保っていた乱雲が、噴き出すように苦笑した。
「……青葉君、だね」
確信を持った響きが空気を震わせる。声を押し殺しきれずに笑う乱雲と、ばつの悪そうな顔で頷く青葉を、梅花は交互に見比べた。何も知らぬ人が目撃したとしても、赤の他人だとは思わないだろう。
「そうです、青葉です。すみません、オレは覚えていなくて」
若干目を逸らした青葉はそう答えた。覚えているかいないか、微妙な年頃だっただろうから仕方のないことだとは思うが。それでも気まずくはあるのだろう。一方、乱雲は意に介した様子もなく、笑顔で頭を振った。
「いや、いいんだ。――兄さんは、元気にしていたかい?」
「元気は元気ですよ。頑固なのも、変わりません」
青葉の声が、忽然と硬くなる。父親について語るときだけ、彼はいつもそうだ。苦々しいものを押し隠そうともせず、率直に表現してくる。
その真正直さは、梅花にとっては少しだけ羨ましく感じられた。何でも剥き出しにするのがいいとは思わないが、だからといって全てを押し殺すのが正しいとも思わない。
「ああ、やっぱりそうか。きっとオレのことを恨んでいるんだろうね」
青葉の態度を見て、乱雲は耳の後ろを掻く。さらりとなんて事のないように放たれた言葉に、青葉が息を呑むのが伝わってきた。そこまで見抜いていたのかという驚きだろう。
青葉の反応から予測が間違いないことを知った乱雲は、さらに苦笑を深める。
「兄さんは、置いていかれるのが嫌いなんだ。オレたちの父親――君たちにとっては祖父だな、がある日突然姿を消してしまったから。そのことをずっと恨みに思っていたから。だからオレのことも恨んでるんだろうなと思っていたよ」
「そう、だったんですか」
「君にもきっと迷惑を掛けただろうね。すまない」
謝罪する乱雲を見て、青葉は絶句した。素直に謝られてしまうと受け入れがたいのか、それとも単に感情が追いつかないのか。梅花には判然としない。
少しの間を置いてから、青葉はぶんぶんと首を横に振った。その動きに合わせて傘が揺れ、弾かれた雨音のリズムが変わる。
祖父の話は、梅花も初耳だった。母方の祖父母の話であれば耳にしたことはあるが。
そもそも乱雲に関わる情報は、宮殿にはほとんど残されていない。乱雲と少なからず交流があった者たちは固く口を閉ざしているし、そうでなければほとんど知らない様子だった。だから梅花も次第に乱雲のことを尋ねなくなった。
「いや、悪いのは親父です。別に、乱雲さんのせいじゃ……」
口ごもった青葉は、一瞬だけ梅花の方へ目を向けてくる。気遣っているのかと思ったが、それだけではない眼差しだった。しかし彼女が問いかけるより早く、乱雲の苦笑が空気を揺らす。
「君までそんなことを言うんだな。兄さんはちょっと寂しがり屋なだけなんだ。虚勢を張って生きてきて、疲れてしまってたんだ。オレがこんなことを言うのは変な話だと思うけれど、いつか、許してあげて欲しいと思う」
そう告げた乱雲の微笑は、誰かの微笑みに似ていた。だがそれが誰のものであるか思い出せない。記憶力には自信があるのに、こればかりは無理だった。
困惑した梅花は青葉の方へ一瞥をくれる。怒っているのか悩んでいるのかわかりづらい微妙な表情で、彼は押し黙っていた。父親を許せと言われることは、彼には相当重荷なのだろう。
「……難しいと思いますが」
「そうか、すまない。無理なことを言ってしまった」
少しだけ寂しそうに乱雲は頷く。仲違いしたままでいて欲しくないという乱雲の気持ちもわかるが、そのわだかまりがそう簡単に解けるものではないことは、梅花にも予測できた。
複雑に絡まってしまった糸を解くのはもう無理なのかもしれない。
「いえ、オレの方こそすみません」
傍にいても、離れていても、家族というのは難しいのかもしれない。他人になりきれないだけ、なおいっそうこじれる。
そう考えると幾分気持ちが軽くなった。やや不謹慎な気もするが、冷静になれるのはありがたい。唇を引き結んだ青葉の袖を、梅花は遠慮がちに引っ張った。
「青葉、そろそろ」
「……ん?」
「時間。アサキたちも待っているし、宮殿に報告しないと」
自分たちが何のためにどこへ向かっていたのか。現実へと思考を戻した梅花はそう囁いた。この場に長居するのは互いのためにならないという意図もあるが、ここで時間を使うと全てが滞ってしまう。帰りも遅くなる。
宮殿という単語に、乱雲が反応したのが感じ取れた。声を潜めたつもりだったが聞こえていたようだ。わずかに躊躇った後、乱雲は口を開く。
「宮殿に行くのか?」
「はい。ゲートの件での報告が。それに、リシヤの森に派遣されている他の神技隊の動向も知りたいですし。……最近不穏続きなんです」
何が起こっているのか隠しても仕方ないだろう。むしろ、ある程度は知っておいてもらった方がよいかもしれない。相槌を打った梅花は首をすくめた。
今後も、無世界でさらなる異常事態が発生する可能性はある。すると瞠目した乱雲は息を呑み、ついであからさまに顔をしかめた。
「――リシヤの森か。あそこには注意した方がいい。ありかも一度倒れたことがあるんだ」
「お母様が?」
梅花は瞳を瞬かせた。母が仕事でリシヤにも出向いたことがあるという話なら耳にしたことはあったが、それは初めて聞いた。
「ああ。突然前触れもなく気を失ったんだ。治療の必要もなく自然に目を覚ましたんだが、結局原因はわからなかった。疲労のせいということにされたが、気をつけた方がいい」
その時のことを思い出しているのか、乱雲の気に苦いものが滲み出ている。原因もなく突然倒れるというと、梅花にも心当たりがあった。
リシヤの森ではなかったが、宮殿――特に中央会議室の前――では時折経験することだった。それこそ疲労や精神的不調が原因だと思い込んでいたが、何か遺伝的なものだったのか? 梅花は曖昧に頷く。
「わかりました。気をつけますし、仲間にもそのように伝えておきます」
「ああ」
それが、別れの合図となった。頷いた梅花は軽く一礼すると、まだ何か言いたげにしている青葉の袖をもう一度引っ張る。これ以上話を長引かせたくはない。きっとアサキたちも心配している。
「それでは失礼します」
「――梅花」
足早に歩き出しすれ違おうとしたところで、乱雲に呼び止められた。足を止めざるを得ない何かを孕んだ声音だった。
梅花が振り返ると、さらに進みかけていた青葉が慌てて立ち止まる足音がする。水溜まりを踏みつけたのか、跳ねる水音が鼓膜を震わせた。傾けられた傘の下から、彼女は乱雲の目を見る。
「自立したとしても、たまには帰ってきていいんだぞ」
「……え?」
「何かあれば相談にも乗る。困ったことがあれば協力する。これでも神技隊だしな」
切なさをほんの少し含んだ、それでも穏やかな微笑を、乱雲は浮かべていた。咄嗟に返事をすることができずに、梅花は逡巡する。
ここで「はい」と素直に頷くことは難しかった。それでも「結構です」と突き放すのも憚られた。それならばどうすればいいのか。
「考えて、おきます。いつか、もし、その必要があった時には」
ここで全ての答えを出す必要はないのだと、保留にするだけの気持ちの余裕が、今の梅花にはあった。いつかもしレーナのように「意味があったと思える」ような瞬間が来たら、その時また考えればいい。
梅花はぐっと喉に力を込めると、再び軽く頭を下げた。そして青葉の腕に触れ、歩き出す。
背中に注がれる視線はあえて気にしないようにした。これから宮殿に赴くことを考えれば、今はただ心を鎮めることだけに集中した方がいい。
まだ何か言いたそうにしている青葉へと微笑を向け、梅花は話の続きを封じてしまう。全てはもう少し落ち着いてからだ。
「レーナには感謝しなくちゃいけないかしらね」
音になるかならないかといった程度の声で、梅花は呟いた。謎かけのような会話の中のあんな一言が、まさかここに来てこんなに響くとは、予想外だった。
レーナがそのことを予期していたのかどうかは知らないが、おかげで助かった。敵なのに感謝するという話もおかしいが。
いや、敵とも断定できないのか。それを判断するのも今は保留だ。彼女は何かのために動いているが、その目的はいまだ知れない。
わからないものをわからないまま抱えるのは辛いことだが、今はそうするより他なかった。梅花は真っ直ぐ前を見据え、息を吐いた。
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