第15話

 誰かと並んで歩くことに慣れてしまったのは、いつからだろうか。隣を行く青葉から目を離して、梅花は瞼を伏せた。

 宮殿では、彼女の隣に並ぼうとする者など限られていた。周囲の目が気になるからだろうという予測は立つ。そういうのを気にしない変わり者か「上の者」だけが、時折彼女の側に寄ってくる。

 黙って進んでいくと、ぽつぽつと響く雨音が少しだけ静かになったような気がした。ちらと傘の外を見遣ると、若干雨脚が弱まっている。

 水溜まりに生まれる波紋の重なりも、それを裏付けていた。だが止むまでにはいかないだろう。一日中こんな天気なのだろうか? これではアサキたちの『商売』もままならないため、またささやかな蓄えが減ってしまう。

「おい」

 そうやって思考を彷徨わせていると、ぐいと腕を引かれた。立ち止まった青葉に引きずられるようにして、梅花も足を止める。

 スカートの裾が膝に絡みついた。ぼんやり視線を上へ向けると、彼が意外そうな顔をして見下ろしてきている。

「誰か来るぞ。ぼーっとしてるけど、大丈夫か?」

 そう指摘されて、梅花は瞳を瞬かせた。そして意識を周囲へ集中させる。確かに、前方から何者かの気が近づいてきていた。この速度は走っているとまではいかなくても早足には間違いない。

 もちろん、それだけであれば青葉が声を掛けてくることはなかっただろう。近づいてきているのは技使いの気だ。

「かなり駄目だったみたい」

 梅花は正直に頭を振った。こんなことにも気づかないとは、ぼんやりしているという段階を超えている。

 違法者なのか、それとも神技隊か? 精神を集中させてみても、知り合いの気ではなさそうだった。

 だが今の自分の感覚は当てにならない。青の男ではないことを祈るばかりだ。さすがにここでの戦闘は避けたい。

「……あ」

 どうしたものかと梅花が首を捻ると同時に、青葉が声を上げた。やや気の抜けた声音だった。怪訝に思い、梅花は前方へ目を向ける。

 雨で煙る道の向こうに、かすかに人影が見えた。黒い傘を差しているようだ。目を凝らした彼女は、ついで瞠目する。

「えーと、あれって、たぶん、お前の……」

「うん、たぶん」

 言葉を濁した青葉に、梅花はコクコクと首を振ってみせた。揺れる黒い傘からちらりと見えた顔は、どこか青葉に似ていた。アースほどそっくりとは言えないが、面影がある。

 心当たりとなる人物はいた。それをすぐに口にできなかったのは、わずかに抵抗があったからだ。

 次の行動がとれず二人が立ち尽くしていると、早足で近づいてきた男性が不意に立ち止まった。傘をやや後方に傾けたせいか、雨音のリズムが変わる。困ったように微笑んでいる男の眼差しが、梅花たちに向けられた。

「梅花、だね」

 一言静かに、確認の問いかけが放たれる。どうしてわかったのかと尋ねるのも馬鹿らしく、梅花は小さく頷いた。

 今こちらは気を隠しているから、技使いであることは即座に知れるだろう。しかもこの容姿は母とよく似ているのでわかりやすいはずだ。

「――お父様ですか」

 問う声は震えなかった。そのことに梅花は少しだけ安堵しながら、それでも何かが表情に出ていないか不安を覚える。

 ここが宮殿なら何があっても無表情を突き通すこともできただろうが、今は自信がない。彼女は心許なさを押し隠すように、ぐっと拳を握った。

「という、ことになるかな。初めまして、と言うのも変な話だけど」

 父――乱雲は微苦笑を浮かべる。彼の気に複雑な感情が宿っていることは、梅花にも容易に読み取れた。

 偶然ここを通りかかったというわけでもないのだろう。こんな時間、こんな天気の日に出歩いているはずがない。飛び出した妹を捜しているのか? いや、探し出して事情を聞いた後なのか。

「無事に見つかってよかった」

 やはり後者だったらしい。そう囁いた乱雲は、ほっと息を吐いた。梅花は何と答えたらよいのかわからず、小首を傾げる。

 先ほどの妹の表情が脳裏をよぎり、声を出そうにも音となって出てこなかった。全てがただの吐息となりそうで、仕方なく梅花は押し黙る。父親と会うならば、もう少し気持ちが落ち着いてからにしたかった。

「あすずから、少しだけ話を聞いてね」

 言葉少なに、乱雲は説明する。きっと妹の行動にさぞ焦ったことだろう。彼は今何を考えているのか? だが、あえて拒絶するようなことをしたのは梅花の方だ。動揺を気取られないよう、ここは毅然としなければ。

 握った拳にさらに力をこめると、甲に手が触れる。青葉だ。彼女は横目で彼の方を見上げた。心配そうな視線が注がれていたが、乱雲の前では下手なことも言えない。気を隠し損ねないよう、気張るだけでも苦労する。

 そのまま口を閉ざしていると、乱雲の声が雨音に混じって鼓膜を揺らした。

「本当にすまなかった。あすずが、とんでもないことを言ったそうで」

 様々な感情を含んだ声が、梅花の胸に突き刺さった。謝って欲しいわけではないし、罪悪感を抱いて欲しいわけでもない。むしろ謝罪すべきなのは彼女の方なのだ。

 だが感情的にその言葉を振り払うのは逆効果だろう。梅花はぐっと奥歯に力を込めると、静かに首を横に振る。

「いえ、気にしないで下さい。あの子は何も悪くないんです。私が軽率でした」

 全てにおいて浅はかだった。偶然の出来事は仕方ないにしろ、もっとうまく立ち回れたのではないかと思う。いや、それは自分を高く見積もりすぎているか。不器用な自分にはこれが精一杯だったのか?

 考えても答えの出ないことばかりが頭を巡り、思考を掻き乱す。ただ今となってはどうしようもないことではあると、自覚はしていた。起こったことは変えられない。

「どうしてそうなるんだ。……全ての根源はオレたちだ」

 戸惑いを含んだ気が、乱雲から伝わってくる。悔恨の情を抱きやすいのは彼らも同じなのかと、変なところで梅花は感心した。

 誰かの責任にできるようなことではない。不運の重なりによって生み出された道の先に、彼女たちは立っている。一番の被害者はきっと妹であろう。何も知らずに歩いてきたというのに、突然渦中に放り込まれてしまった。

「誰も悪くなんてないですよ。お父様も、お母様も」

 一言一言、思いを込めるように梅花は口にした。誰が悪いと言い争っても仕方のないことだし、それで自責の念に駆られてもらっても困る。

 もし、選択の結果に責任を持ちたいというのならば、幸せになってもらわなければ。そうでなければ梅花の気持ちのやりどころがなくなる。

「……オレたちのこと、恨んでないのか?」

 乱雲は青葉と同じようなことを尋ねてくる。よほど自分の立場というのは、誰かを恨みに思うものらしい。梅花はゆるゆると首を横に振った。また強まりつつある雨脚の気配を感じながら、かすかに目を伏せる。

「恨むとか、そういうのは苦手です。そういう負の感情で、消耗するなんてことは嫌いですから」

 周囲から降り注ぐ負の感情に辟易しているのに、ましてや自らの生み出したものでこれ以上すり減りたくはない。そうでなくても、あの宮殿にいると何かが削り落とされているような気になる。

「しかし――」

「恨んだって、私が苦しくなるだけです。私は、ただ、お父様たちが元気にしていることが、幸せであることがわかればそれでよかったんです。あそこに囚われずに生きているのかどうかを知りたかったんです。後悔して欲しいわけじゃあないんです」

 勝手な期待だ。誰かの幸せのために役に立っていると思いたいという、我が儘だ。気持ちの押しつけだ。それを自覚すると少しだけ気分が軽くなる。

 結局は、自分という存在の意味を追いかけているだけなのだろう。否定され続けてきたものを求めているだけだ。居場所がなかったとしても、疎まれていたとしても、ここまで来た意味はあるのだと確かめたいだけ。

 ならば、家族が幸せかどうかは、本当はどうでもいいのかもしれない。幸せであると信じたいだけなのかもしれない。実に身勝手だと苦笑を漏らしたくなった。

 それでも、たとえ今までがどうであれ、これからは梅花のことなど気にせず幸福を求めて欲しかった。自分のせいでさらに何かが崩れていくのは見たくない。

「だから、気にしないでください。私は、あなたたち家族を壊したいわけじゃあない」

 雨が降っていることに、梅花は感謝した。ちょっとした声の抑揚や震えも、全て曖昧にしてくれる。

 それでも隣にいた青葉には伝わってしまったようで、気遣わしげな視線が向けられているのが感じられた。とんでもない場面に立ち会わせてしまったと思う。これでは後々もますます心配されてしまうだろう。

「……梅花は、強いな」

 乱雲の言葉を、梅花は即座に否定したかった。強ければもっとうまく切り抜けてこれただろうし、こんな状況にも陥っていない。妹を不用意に傷つけたりもしない。

 ――強くなりたかった。両親が安心できるくらいに強く、したたかに生きたかった。こんなことには動じないくらいの気丈さが欲しかった。たとえばそう、レーナのように。

『でもそれも、こうして今オリジナルの傍にいるためなら、意味があったと思える』

 不意に、脳裏にレーナの言葉が蘇った。すとんと、胸の奥に何かが落ちたのを感じた。それは捉え所のない感情だったが、次第にじわじわと体中に染み込んでいく。冷え切っていく一方だった芯が、少しずつ温められていった。

 そうか、同じなのか。彼女も「意味」を求めていたのか。その先が何故自分だったのかはわからないが、彼女はずっとそれを追い続けてきたに違いない。梅花だけではなかったのか。

「……梅花?」

 隣で、怪訝そうに青葉が首を傾げるのがわかる。彼を横目で見ると同時に、梅花は自分が微笑んでいたことを自覚した。

 無理にではなく、意識せずに、自然と笑むことができていたなんて驚きだ。今ならうまく伝えられるのではないか? 拳を解いた彼女は、大丈夫だと告げるように青葉の手に触れてから、乱雲へ向き直る。

「私は、強くなんてないです。強くありたいだけです。お母様たちの決断を、誰も責めることがないよう。誰も後悔することがないよう」

 周囲から向けられる哀れみの眼差しが苦手だった。梅花が不幸な素振りを見せれば見せるだけ、顔も知らぬ両親が責められる。多世界戦局専門部の不手際が噂される。

 それが嫌で、寂しいとは言えなくなった。悲しい顔ができなくなった。リューたちの苦悩を少しでも減らしたかった。それでも幸せな振りをすることだけはできなくて――。

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