第14話
「お前は十分頑張ってるんだから、これ以上一人で頑張るなよ」
少しだけ、青葉の手から力が抜けた。身じろぎをした梅花は、怖々と顔を上げる。再び目と目が合った。哀れむ者の眼差しではないし、痛々しいものを見つめる視線でもない。
彼の言葉を反芻しながら、彼女は瞳を瞬かせた。自分は何かを頑張っていたのか?
「私……頑張ってるの?」
「――頑張ってないと思ってたのかよ。お前はもっと思ってること話すべきだし、相談した方がいいと思うぞ。諦めないで」
いまいちしっくりと来ない青葉の言い様に、梅花は困惑するばかりだった。
だからといって何でも話していいとも思えないし、誰にでも話していいとも思わない。彼女の事情を知る者は同時に関係者でもあるし、知らない者にとってはひたすら重い話だ。
「大体、何でお前はその状況で誰も恨まずにいられるんだよ」
青葉は小さくため息を吐いた。すぐ間近に顔があったために、そんな吐息さえ肌で感じ取れてしまう。梅花は眉をひそめた。どうして急にそこで恨みなんて言葉が飛び出してくるのか、理解できなかった。一体、誰を恨めと言いたいのか。
「何よ、それ」
「だってお前は全くどこも悪くないだろ。それなのにそんな状況に置かれて……」
「それを言ったら誰も悪くないでしょう? もし誰かの悪意があってのことだったら、そりゃあ恨みに思ったりもできるわよ。でもそうじゃないのに、どうやって恨めって言うの? おかしいわ」
梅花は少しでも青葉から距離を取ろうと懸命になった。いつまでもこの体勢というのは憚られる。早朝で人目がないのは幸いだが、いつまでもこのままとも限らない。それでも彼の手の力の方が圧倒的で、身じろぎをするだけで終わった。
「……普通はそれでも恨むだろ。何か理由を付けて」
そう呟いた青葉はそっと視線を外した。その言外に示されたものに、梅花ははっとする。彼女の家族を語る上で、彼の事情も決して無関係ではない。彼も関係者と言えばそうだった。
「親父は、恨んでた。何も言わずに突然いなくなった弟のことを」
ある日前触れもなく姿を消した梅花の父――乱雲。その行動は残された者たちに禍根を残した。嘆き悲しんだ青葉の父親は、その後怒りと恨みを募らせていったという。
梅花もその辺りの話は耳にしている。そしてその恨みの矛先が、乱雲に懐いていたという青葉に向けられたことも。
「普通は、恨むんだよ。何かを悪者にして気持ちのやりどころにするんだよ。オレだって、今でも親父のことは大嫌いだ。許してなんてない。お前は優しすぎるんだよ」
本当に優しいのだろうか? 眉間に皺を寄せている青葉の横顔を、梅花はじっと見上げた。そうとは思えない。彼は何故だか彼女のことをよく思おうとしてくれているが、そんなに綺麗な人間ではない。彼女はかすかに頭を振った。
「私は優しくなんてないわよ。だって、恨むのって疲れるんだもの。そういう負の感情を受け取るのも発するのも疲れるの。ただそれだけ」
「そういうところが人間離れしてるんだよ」
半ば呆れたような青葉の声音に、梅花は閉口するしかなかった。そんな風に言われても困ってしまう。自分では特別なことだとは思わない。
どうしようもないことに気持ちを割いていても、虚しいだけだ。どんどんとすり減ってしまうだけ。これ以上疲れ切ってしまうと、本当に動けなくなる気がしていた。
「誰かを恨みにでも思わないと、普通は壊れる。平気な振りなんてできない」
それでは自分は壊れているのではないか。梅花はそっと瞳を伏せた。雨音が遠い。
ずっと宮殿で言われて続けていたのだ、何かが欠落しているのだと。感じていないわけではないと異を唱える意欲もなかったので、言われるままにしていた。しかし、やはり何か足りないのではないか。
「私は、壊れていないの?」
つい、思っていたことが唇からこぼれ落ちた。また息を呑む気配が感じ取れる。こんなことを尋ねられては彼も困るだけだろう。慌てて「何でもない」と首を振ろうとすると、今度は頭ごと抱きしめられた。
「そんな顔してそんな声出す奴が壊れてるわけないだろ。でも、いつまでもそうとは限らないんだぞ」
物理的な息苦しさから逃れるよう、梅花は目を瞑った。体に直接伝わってくる声の振動に、何故だか安堵を覚える。
だがそのまま頭を撫でられたところで、彼女ははっとした。こんなところで時間を使っている場合ではない。何のために公園を出たのか。
「……いい加減、放して。戻りましょう。アサキたちに知らせないと」
梅花が腕を突っ張らせると、青葉の腕の力が緩んだ。それでも完全に解放されなかったのは、傘からはみ出てしまうからだろうか。何だかんだと言いながら彼は過保護だ。そうさせるだけの無茶を彼女はしてきたのかもしれないが。
「そうだな。さっさと伝えて宮殿に行って、そして戻ってこよう。また拘束されてもかなわないしな」
傘が傾いたのか、弾かれる雨の旋律が変わる。頷いた梅花は軽く身震いをした。最近は宮殿に行くたびに長い時間引き留められることが多く、辟易していた。青葉が一緒であればましだと思いたいが、断言はできない。
「寒いのか?」
「ん、大丈夫。嫌な予感を覚えただけ」
「何だよ、それ」
「別に。変なことが起こらなきゃいいなと思っただけだから」
首を横に振った梅花は、強引に一歩を踏み出した。青葉は慌てたように傘を差しだし、横に並ぶ。
こういう時は嫌なことが続くものだと、胸の奥で何かがざわついていた。覚悟しておいた方が後々楽だろう。何もなかったら、胸を撫で下ろせばいいだけの話だ。
「まったく、お前は」
言いよどんで苦笑した青葉のぼやきは、あえて聞かない振りをした。前へ進む度に水気のある足音が響く。梅花は水の溜まった地面を見つめ、今後のことのみを考えた。
道の途中でつとレンカが立ち止まったため、滝も足を止めた。傘に弾かれる雨音がリズムを変える。傾いた紺の傘からどっと落ちた滴が、黒いアスファルトの上で跳ねた。
「ゲートが元に戻ったわ」
振り返ったレンカが困ったように笑った。すくめられた肩から、焦茶色の髪がこぼれ落ちる。滝はその意味を飲み込むのに間を要してから、慌ててゲートの方へ精神を集中させた。
確かに、どことなく不安になる歪みが落ち着いてきていた。完全になくなったわけではないが、元々ゲートの周囲の気配は歪だ。その点でも「元に戻った」という表現は正確だった。
「本当だな。ひとまず、緊急事態ってのは避けられたってところか」
「そうね、一応のところは。一体何があったのかしら」
首を傾げたレンカの横顔を、滝は見つめる。ゲートの異変に気がついたのは彼女が先だった。何となく胸騒ぎがあり、早くに目が覚めたとのことだった。元々、彼女は早起きではあるが。
ゲートが利用された時も歪みは不安定になるが、それとは違う。空間の歪みに敏感な彼女の言葉なら信頼できた。
そのうち元通りになるかもしれないとしばらく様子を見ていたのだが、いっこうにその気配はなく。実際に確認するしかないと、彼らはこうして出向いてきていた。
既に梅花あたりが動いているだろうと予測はできたが、念のためだ。何かあってからでは遅い。
「戻ったってことは、梅花が何とかしたのか?」
「そうかもしれないわね。どうする? 一応このまま見に行く?」
「そうだなぁ……」
問われて滝は逡巡した。雨脚は強くなるばかりで、気は進まない。ゲートの近くでうまく誰かと合流できれば話を聞けるかもしれないが、そうでなければ空振りに終わるだけだ。それならきちんとした報告を待っていた方が手っ取り早い。
彼は通信機代わりの腕時計を見下ろした。鈍く光る銀色のそれには特に反応もなく、無機質な音を立てながら時を刻んでいるばかりだ。
「またあの青い男に狙われても敵わないしな。ゲートに問題がないなら戻るか」
「あら、滝にしては気弱な判断ね」
「いくらなんでも、この雨の中で戦いたくはないだろう? この天気でこの時間だと人気はない。遭遇したら戦闘は免れないぞ」
滝は微苦笑を浮かべた。戦闘音を雨音が掻き消してくれるとしても、できれば避けたい事態だ。足場は悪いし使える技も限られている。それに、ずぶ濡れになることは間違いなかった。すると彼の返答を聞いて、レンカはちらりと空へ目を向ける。
「んーそう言われると困るわね。こんなところで戦うのはごめんだもの」
ついで白い傘の端を揺らし、レンカはくつくつと笑った。滝は片眉を跳ね上げる。何がおかしいのかさっぱりわからないが、ずいぶんと楽しげな様子だ。くるりとこちらへ向き直った彼女は、口角を上げて頭を傾けた。
「……何だよ」
「自分一人だったら見に行っちゃうんだろうなあと思って」
そう指摘され、滝は閉口した。確かにその通りかもしれない。誰かと一緒かどうかは、彼の判断を大いに変える。自分一人であれば多少の無茶も通してしまうが、そこに誰かを巻き込むことは好かなかった。無理を強いるのは嫌いだ。
「ああ、そうかもな。……見抜かれてるな」
「だから滝は一人にしちゃいけないのよねぇ」
笑ったレンカは「一人だと何するかわからないし」と小声で付け足す。まるで子ども扱いだ。一人で全てを切り回せるよう若長として訓練されてきた滝にとって、彼女の発想は新鮮だった。過信しているつもりはなかったが、しているのかもしれない。
一人で神魔世界中を巡ってみた日のことを思い出すと、素直に納得できた。
実はあれはなかなかの冒険だったのではないか。よく長はあっさり許してくれたものだ。若長であれば何もないだろうと、信じ切っていたのか? 今となっては確かめる術もない。
「ずいぶんな言い様だな」
「だって本当のことだもの」
滝もつられて笑った。レンカの偉大さはこういうところにある。
難なく全てを見透かしてそれを口にしてくるのに、反論する気も起こさせない。悪気なく、ただ好意のみを滲ませた言葉と声には、不思議な力があった。するりと心の内に入り込んでくる。
「あの子も同じよね」
「……あの子?」
「梅花も。一人にしちゃいけないわ」
不意に、レンカが声の調子を落とした。その視線が再び遙か遠くの空へ向けられる。気も隠されているため何を感じているのか定かではないが、眼差しからわずかな憂いがうかがえた。
ずっと「一人」であっただろう少女のことを気にかけているのは、レンカも一人だったからか。
「まあ、そんな感じだな」
「あとはシンもね。うーん、考えてみると他にも結構いそうね。神技隊には……いえ、技使いには多いのかしら」
小首を傾げたレンカから視線を外し、滝は相槌を打った。技使いは良くも悪くも繊細だ。その理由の大部分を「気が察知できること」が担っている。
皆が皆、大抵他者も自分と同じくらいに感じ取っている、と思い込みやすいのも原因だ。実際は大いに違いがあり、その差が齟齬を生んでしまう。
「繊細っていうのも困ったものだな」
「でも、役に立つこともあるわよ? 何でも使いようよ」
穏やかな笑い声を響かせてから、レンカは「さ、帰りましょう」と告げた。雨を弾く傘へ一瞥をくれてから、滝は頷く。
つい考え込んでしまうのは悪い癖だと思うが、しかしだからといって全く考えないというわけにもいかない。彼女の言う通り何でも使いようだろう。何事も適度にであれば問題はない。
「その適度がどのくらいなのかわかれば、苦労しないんだろうな」
ぽつりと、口の中だけで滝は呟いた。それは雨音の奏でる旋律に、瞬く間に飲み込まれていった。
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