第13話
「気に病みすぎるのは我々の損な体質だが。行きすぎると蝕まれるぞ。気をつけなくては」
「我々って……あなたも?」
瞳を瞬かせ、梅花は頭を傾けた。その範疇には誰が含まれているのか。単に技使いのことを指しているのか、それとも別の意味合いがあるのか。
するとレーナは微笑みを深め、少し躊躇いがちに首を縦に振った。そしてほんのわずかな間だけ、瞼を伏せる。
「そうだな、われもだな」
どことなく自嘲めいた響きのある声音だ。他人事とは思えぬ憂いと悲嘆の色をたたえた眼差しが、やおら梅花に向けられた。どうしてなのか、胸の奥で何かがさざめいた。少しだけ眉根を寄せた梅花は、布を抱える手から力を抜く。
「私は、あなたのことを敵だと思わなきゃいけないの?」
自分でもどうかしている質問だと思う。敵なのか聞いているわけではなく、そう思わねばならぬのか尋ねるなんて。敵だと考えたくないという気持ちが明らかだ。それでもレーナは訝しみも嘲笑いも戸惑いもせず、ただ悪戯っぽく笑った。
「何をもって敵と見なすか味方と見なすか、それを決めるのはわれではない」
またもや謎かけのような言葉を放ち、レーナはちらと空を見上げた。梅花もそれに倣う。先ほどよりは少しだけ雨脚が弱まっただろうか? しかし重苦しい雲は相変わらず空を覆ったままで、雨が止みそうな気配はない。
「巨大結界の方は落ち着いたようだな」
「……え?」
「それにお迎えが来たみたいだ」
梅花が雨雲を睨みつけていると、緩んだ手の中から布が取り上げられた。
驚いてレーナの方を見やると、ふかふかの白い布を抱えたレーナは、またもや楽しげに微笑んでいる。それから彼女は前髪の陰に隠れそうになっていた髪飾りに、軽く指で触れた。瞬く間に、腕の中にあった布が消える。
「え? ええっ!?」
「ほら、見るのはこっちじゃない。そっち。お迎えが来てるぞ」
ぽんと肩を叩くレーナの手により、半ば強引に体の向きを変えられる。お迎えの意味は、すぐにわかった。雨で白く煙る緑の向こう側から、青い傘が近づいてくるのが見える。梅花がやってきた方角だ。
「……青葉?」
気は隠されているのでわからないし、傘で顔も隠れているが、あの走り方はおそらくそうだろう。置き手紙に気づいたに違いない。
なかなか戻ってこないので様子を見に来たのだろうか。梅花は言い訳を考えながら、ちらと横へ目を向けた。そして眼を見開いた。
「あれ?」
そこにレーナの姿はなかった。先ほどまで隣にいたのがまるで嘘のように消え去っている。
梅花は瞬きを繰り返しながら首を傾けた。一体何が起こったのだろう。瞬く間に姿を消す技など見たことも聞いたこともない。辺りへ視線を巡らせても、どこにも見当たらなかった。
梅花が呆然としている間に、雨を弾く傘の音がどんどん近づいてくる。困惑したままそちらへ顔を向けると、不機嫌そうな顔の青葉と目が合った。
「梅花!」
名を呼ばれても、すぐに返事をすることができない。梅花は聞こえているという意思表示のため、かろうじて首を縦に振った。
間の抜けた顔をしている自覚はあるが、うまく理由を説明できない。怪訝そうに眉根を寄せた青葉は、彼女の前で立ち止まった。
「何で起こしていかなかったんだよ! ゲートに異変って一大事だろっ」
青葉の怒声に、梅花はまた相槌だけで答えた。するとさすがに様子が変だと訝しんだのか、彼は眉をひそめて首を捻る。それから周囲を見回した。
「ゲートはもう大丈夫そうだな。だから雨宿りってか?」
「そういう、わけじゃあ、ないんだけど」
この状況をどう説明していいのか、梅花は言葉を濁した。レーナが来たと知ったらまた青葉は怒るだろうか?
しかし隠していたのがばれた時の方が厄介なことになると思える。眼差しで問いかけてくる彼に向かって、彼女は恐る恐る申告した。
「突然、レーナがやってきたのよ。私に、会いに来たって言ってた。……慰められたことになるのかしら」
そこまで口にしてから、彼女は失言に気づいた。慰められるような理由があったことまでばれてしまう。
それでもすぐにうまい言い訳が浮かばずまごついていると、目を丸くした彼はついで苦い顔をした。その後、苦笑したような喜んだような複雑そうな表情を浮かべる。めまぐるしい不思議な変化だ。
「……何で、レーナが来てるんだよ。いや、お前に聞いても仕方ないか。その様子だと戦ったわけじゃあないんだろう? っていうか、慰めたってなんだよ。何かあったのか?」
青葉は一度に色んなことを尋ねてくる。どうやら彼にも混乱が波及してしまったようだ。観念した梅花は小さく嘆息すると、前に一歩を踏み出した。そして当惑顔の彼の腕に触れる。
「順に話すから、まずは戻りましょう。アサキたちは起きてるの?」
「あ、そうだな。寝ぼけたアサキに梅花を迎えに行くって話しかしてない」
「じゃあ、なおさら早く帰らないとね」
梅花はもう一度ゲートの方へ一瞥をくれた。まるで何事もなかったかのように元通りになったそれを、つい恨めしく睨みつけそうになる。
早まった選択だった。レーナから情報を聞き出せたのはいいが、家族のことはどうにもならない。そう考えるだけでまた気が沈む。
「ほら、早く帰るんだろ」
ぐいと肩を引き寄せられ、梅花は体勢を崩しかけた。足を強く踏み出したせいで、ばしゃりと靴が水を跳ねさせる音がする。
文句を言いたくなったが、傘に入れという意味だと察して口を閉ざした。また濡れなくてすむのだから、感謝こそすれど不平を言うのは間違っている。
「――ありがとう」
かろうじて出した声は掠れ気味だった。それでもすぐ傍にいる青葉には届いたようで、手を離した彼が息を呑む気配が感じられる。
そこまで驚くことかと眉根を寄せながら、彼女は目だけで彼を見上げた。口を何度か開閉させながら、何か言いたげな様子だった。大袈裟な反応だ。
「……何?」
「いや、何ていうか、礼を言われるとは思ってなかったから」
「私はそんなに失礼な人間に見えるの?」
「失礼とか失礼じゃないとかそういうんじゃなくて。だってお前、心配されるのとか苦手だろ。いつもこれくらいどうしたって感じだろ。だから、びっくりした」
そう説明されて梅花は首を捻った。確かに、心配されるのは苦手だ。案じてくれる人々の抱える痛みが直に感じられるようで、心配だと言われる度に息苦しかった。
しかし今はそうではない。ゲートのことがあったからか? 雨が降ってきてしまったからか?
――そうかもしれない。以前、突然の大雨でずぶ濡れになった後、何日も寝込む羽目になったことがあった。同じ事を繰り返す可能性があると考えれば、大丈夫とは言えない。迷惑を掛けずにすむなら幸いだった。
「そう。こんな天気になっちゃったしね」
雨さえ降らなければすぐに動き出せただろうか。いや、そうではないだろう。梅花が目を伏せると、また肩を掴まれた。「とにかく戻るぞ」との言葉に、彼女は頷く。
青葉は口よりも先に行動する類の人間だが、それをここで指摘しても仕方ないだろう。それだけの気力もない。これから先ほどの重苦しい状況を説明しなければならないと考えると、口も重くなった。
雨の滴が、ぽつぽつと傘で弾かれる音が単調に続く。彼の普段の歩調よりは、幾分か遅い。傍だから感じる体温の高さに、自分の体が冷えていたことを気づかされた。季節が季節であれば本当に風邪をひいていたかもしれない。
精神量には自信があるが、体力においては人より劣っている自覚があった。どうにか気力で保たせていると、その後で反動が来ることも多い。
「それで、何があったんだよ」
公園を出る辺りで、青葉が問いかけてくる。はぐらかすのは無理だろうと、梅花は諦念の面持ちで声を絞り出した。
「ゲートへ向かう途中にね、偶然……妹に会ったのよ」
そう伝えるだけで、青葉は何かを察したようだった。隠しきれなくなった彼の気から感情が伝わってくる。哀れみとも違う、わずかな悲嘆と気遣いと、驚きの混じり合ったもの。彼が何かを言い出す前に、梅花はさらに続きを口にした。
「どうして来たんだって、怒られちゃった。本当にその通りだと思うわ。でも、ゲートのことが気になるから、置き去りにしてきたのよ」
「――そこでレーナに会ったのか?」
幸いなことに、あすずとの詳しい話は追及されなかった。そのことに安堵しつつ、梅花は首を縦に振る。
「そう。ちょうど雨が降ってきたところだったから、木の下に連れて行かれたの。何だか、わけのわからないこと言ってたけど。落ち着かせようとしてくれてたみたいね」
あすずとのやりとりさえ口にしなければ、状況としては単純だ。それでも青葉は閉口していた。張り詰めた空気が肌に感じられて、梅花もそれきり押し黙る。
雨音が何だか遠い。考えるべきことが色々とあって、うまくまとまりがつかなかった。だが何があっても今優先しなければならないのはゲートのことだ。アサキたちに状況を説明したら、宮殿に行かなくては。
「とにかく、このことを上にきちんと報告しておかないといけないわ。アサキたちに事情を話したら、神魔世界に戻るから」
痛々しい沈黙を破るように、梅花はそう吐き出した。青葉の体に力が入ったのが感じ取れる。わずかな逡巡の後、「わかった」と彼は素直に頷いた。
「またか」と呆れられると思っていたのにすんなり了承されたのが意外で、彼女は首を捻りつつ彼を見上げた。間近で視線が合う。
「その代わりオレも行く」
「……え?」
「単独で行動するなって言ってるだろ。レーナは何も仕掛けて来なかったからよかったけど、これが青い男とかだったらどうするんだよ」
そう言われると反論の言葉が出てこない。たまたま何もなかっただけで、次もそうなるとは限らない。こちらの状況を宮殿側に理解してもらうためにも、その方がいいだろうか。梅花は青葉から視線を外すと首をすくめた。
「そうね、わかったわ」
答えた途端、ぐいと背中を押される感触があった。あっと声を出す間もなく視界が黒く塗りつぶされる。抱き寄せられたのだと理解するのに時間が掛かった。崩れた体勢を立て直そうとしても、肩を掴む力が強くてびくともしない。
「お願いだから、無理するなよ」
頭に直接響くような声。無理の意味がわからず、梅花は考え込む。それは一人で勝手に出かけていくことを意味しているのか、それとも――。
「辛いなら辛いって言えよ」
まるで祈りのようだと、梅花は思った。青葉の目に、それほど自分は痛々しく映っていたのか。
無理というのがどの範疇なのか、彼女にはもうわからなくなっていた。自分の力を過信するつもりはないし、気持ちを押し殺しているつもりもないが、何が正常なのか忘れてしまっている。
どこまで『当たり前』の線を下げたら『普通』になるのか。それを示されたことなどなかった。
彼女の努力は努力とは受け取られず、「神童だからできるだろう」の一言で括られる。押し黙っていたら、何も感じていないことにされる。諦めて受け入れていたらいっそう要求は増すばかりで、反論すると疎まれる。
だから単純に、事実に即して行動するしかなかった。そこに感情を差し挟むのは無駄なエネルギーを消耗するだけの結果となる。辛いという感覚もそうだ。
どれだけの時間、気力、体力を削れば実現できるのかを計算して、それが不可能か否かを算段する。可能であれば、それだけ削るに見合う結果や必然性があるかを考慮する。それらを淡々と考え、伝えるだけだ。
感情を入れ込むと、感情的なものが跳ね返ってきてしまう。それは結果的には自分にとって不幸なだけだった。
「なあ」
切実な言葉は冷たい水のように体に染み込んでくる。胸の奥が重苦しい。この息苦しさが辛さの象徴だと言うなら、ほとんどいつも辛いことになってしまう。
負の感情に満ち溢れた世界は、自分にとっては毒なのだろうか。梅花は唇を噛んだ。ならばどうしてこうやって生き続けているのか。
『行きすぎると蝕まれるぞ』
不意に、先ほどのレーナの言葉が脳裏をよぎった。ああ、自分は蝕まれているなと、梅花は自覚する。突然何もかもを投げ出すことなどできないのに、どうしようもないことを考えている。
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