第17話

 日が昇りだした頃から雨が降っていた。風に吹かれ洞窟内へ侵入してくる飛沫から逃れようと、カイキたちは奥へ引っ込んでいる。

 しかしアースだけは一人、入り口傍で長剣を抱えていた。気づいたらいなくなっていたレーナを待ち受けるためだ。雨音が邪魔をするので、この位置にいないと帰りが察知できない。気を延々と見張っているのは、彼は苦手だった。

 彼女が何も言わずに姿を消すことは、残念ながらそう珍しくはない。空を飛ぶこともせずに姿をくらましてしまう彼女の行方を追うのは、彼には困難であった。

 何故そんなことが可能なのか問うと、「転移の技が使えるから」とだけ説明してくれた。高度な技には違いないが、聞いたことはない。その技を使うと、どうやら空間さえも容易に超えてしまうようだった。

 まったくもって彼女の実力は計り知れない。そもそも住んでいる世界が違うのだろう。

 待ち構えていた人物の帰還に気づいたのは、カイキたちが退屈な時間に飽きてあくびをかみ殺していた時だった。

 雨の奏でる旋律が変わったことに気がつき、アースは剣を置いて立ち上がる。ほんのわずかだけ、気も感じ取れた。間違いない。

「うわ、こっちもこんな雨とはひどいな」

 小走りで駆け込んできたレーナの腕を、アースは無言で掴んだ。勢いを止められた彼女の体が傾ぐのも構わず、彼はそのまま腕を引き寄せる。

 あいている方の手で雨の滴を払った彼女は、いつもの微笑を保ったまま彼を見上げてきた。ほとんど抱き寄せているような距離だが、全く動じていない。

「ああ、アース。おはよう」

「言うことはそれだけか」

「えーと、ただいま?」

 小首を傾げたレーナは、何故かそこではにかんだ。アースは目眩を覚えそうになりながら、盛大にため息を吐く。

 彼女の帰りに気づいたイレイたちが「おかえりー」と口々に言う中、アースは継ぐべき言葉を考えた。

 勝手に出かけることに関しては、もう止めても無意味だと実感している。しかしそれでもどれだけ危ない橋を渡っているのかは口にせざるを得ないし、行き先も問わずにはいられなかった。

「レーナ、どこに行ってたんだ?」

 気は全く感知できなかったので、無世界だろうという予測はついた。もっとも、神魔世界にいても技も使わず気を隠していたらアースにはわからないが。

 レーナは掴まれたままの腕をちらと見てから、逆側に頭を傾ける。

「オリジナルのところ。と、ついでに他にも」

 端的な答えが示すところは明白だ。やはり一人で無世界に行っていたらしい。もう一度嘆息してから、アースはその場に座り込んだ。腕を引かれたレーナも仕方なそうにその場に膝をつく。

 一体、何度このやりとりを繰り返せばいいのだろう。

「先日、われが言ったことはもう忘れてるのか。いや、お前のことだから忘れているわけがないな」

「あーうん、忘れてはいない。でも、今、行かなければと思ったんだ」

 わずかに視線を逸らしたレーナの横顔に、洞窟内に吹き込んできた雨飛沫がかかる。アースはそれを拭うようにそっと手で触れた。

 白い頬は冷え切っている。長時間外にいたことを悟り、彼は顔をしかめた。もう少し体調の悪さも、体力のなさも自覚して欲しいところだ。

「今? どうしてもか?」

「うん。オリジナルには、消えてもらったら困るんだ。オリジナルに泣かれると辛いし、苦しい。だから耐えきれずに行った。すまない」

 ほんの少し目を伏せてから、レーナはおずおずと見上げてくる。

 素直に謝られるとそれ以上追及しづらくなるのは、イレイたちの「それくらいにした方がいい」という視線のせいもあるだろう。この問答を続けていたら、そのうち「いじめるな」という忠告が降ってくるのもわかっている。経験済みだ。

「心配かけたいわけではないんだ。悪い」

「……仕方がないな。今回のことはいい。しかし、少しは気をつけてくれ。万全とは言いがたいんだろう?」

 アースはレーナの手を解放した。それでも頬に触れた指先は離せなかった。彼女はほっとしたように顔をほころばせてから、またわずかに頭を傾ける。揺れた前髪の先が、彼の指にもかかった。

「うん、まあ、それは。万全になることはないわけだし」

「だから気をつけろと言っているんだ。この間も結局は首を突っ込んできただろ」

「あれは、さすがに忠告しないとまずかったからなぁ」

 協力すると決めた時からわかっていたことだが、レーナの行動の基準は「必要か否か」だ。必要と思えば、どんなに危うい状況でも成し遂げてしまう。それを可能とする実力があるのがまた厄介だった。

 つまり、彼女の無茶を防ぐためには先回りしないといけないわけだ。何が「必要」なのかを前もって読み取らなければならない。しかしそのための情報が圧倒的に不足していた。

「お前はいつもそうだな。そんなに我々が信用できないのか」

「いや、そういうわけではなくて……」

 言いよどんだレーナが微苦笑を浮かべると同時に、奥にいた誰かが立ち上がった気配がした。おおかた予想がついたので一顧だにせず黙していると、重たげな足音がずんずんと響く。

「もう、それくらいにしなよアース。レーナいじめたらかわいそうだよ」

 近づいてきたのは案の定イレイだった。彼はレーナに関してはとことん甘い。いや、イレイだけに限らないか。アースは彼女に触れていた手を下ろし、首を鳴らした。

「いじめてなどいない」

「でもさー、レーナと僕らが出会ってまだそんなに経ってないでしょ? それなのに信用しろってのは無理な話でしょー」

 イレイは頬を膨らませつつ、アースの隣に座り込んだ。イレイの言い分ももっともだが、一方で肝心なことを忘れている。

 ならば何故こちらは全面的に信頼してしまっているのかという点だ。彼女からはまだ何一つ聞いていないに等しいのに。

「おいおいイレイ、われは別に信用してないわけじゃないぞ。ただ、知らないだろうなぁと思って」

 レーナは困ったように微笑みながら片手をひらひらとさせた。

 そう、アースたちは何も知らない。何かあるごとに尋ねているのだが、一つの知識は十の謎を引き連れてくるので途方に暮れていた。一体、いつになったら全てを理解する日が来るのか。

「だってーレーナは教えてくれないじゃないっ」

「話してはいるだろう? 順番にって」

「そうだけど。でもまだまだ足りないよー。僕だってもっともっとレーナが何考えてるか知りたいんだよ」

 唇を尖らせたイレイは、レーナの上着の袖を掴んだ。子どものような仕草だが、体格が体格なので可愛らしいとも言えない。

 困惑顔の彼女をアースが眺めていると、今度は洞窟の奥から別の声が響いた。

「おいイレイ、今度はお前がレーナを困らせてるぞ」

 苦笑混じりのこの声はネオンのものだ。イレイは「あっ」と眼を見開いて、弾かれたように手を放す。イレイの気持ちもわかるので、アースは無言を押し通した。

 彼女を戸惑わせたいわけではないが、それでも何もわからないまま行動するのはそろそろ限界だ。ラウジングという男の眼差しを思い出し、アースは奥歯を強く噛む。「魔族」と口にした時のあの憎悪を宿した双眸は、放っておくと危険だ。

「すまない。別に、話したくないわけではないんだ。ただどこから話していいのか困っていてな」

「一つ話をする度に僕らが質問するからでしょう? わかってるよ」

 レーナは自分の頬へと手を当てる。彼女と自分たちの間にある決定的な差を、いつもアースたちは感じていた。自分たちは何者なのか、どうして今このような状況に陥っているのか、知るためには途方もない知識がいるらしい。

 それを一つ一つ紐解いていくための時間が、彼らには不足していた。時の流れは待っていてくれない。

「何だか知らないけどレーナが命懸けなのもわかってる。僕はレーナに生きてて欲しいから協力してるだけだよ。だから、ゆっくりでいいから教えてよ」

 いつでもイレイの言葉は真っ直ぐだ。「ありがとう」と口にして微笑むレーナを見ていると、イレイの素直さがいっそう羨ましくなる。

 しかしアースには無理だった。この重く濁った感情をぶつけないようにするだけで、押し殺すだけで精一杯だ。彼は漏らしかけた苦笑を飲み込む。

「本当にありがとう」

 レーナは腕を下ろしてかすかに俯いた。すると再び風に運ばれて吹き込んできた雨が、その頬を濡らす。身じろぎすらしなかった彼女にかわり、アースはまたそっと手を伸ばした。冷えた白い頬を包み込むようにすると、視線が交わる。

 ふわりとほころぶように微笑もうとした彼女は、だが途中で何かに気づいたように目を逸らした。

 たまに彼女はこういう反応をするので気になっている。しかし思い切って尋ねることもできずにここまで来ていた。はぐらかされた時の落胆を思うと容易には口にできない。

 知れば知るだけ、近づこうとすればするだけ遠ざかる気がするのは何故なのだろう。彼は結局「少し休め」と当たり障りのない言葉を掛けるに留めた。

 喉の奥へと消えていった言葉たちの行く末は、意識の外へ追いやって。

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