第9話

 久しぶりに訪れた神魔世界の空気は、記憶にあるものと変わらなかった。ただ澄んでいるだけではなく濃さを感じるのは、人の密度のせいもあるのだろう。

 しかしそれでもどこか落ち着かない気分になるのは、目の前にあるのがリシヤの森だからなのか。

 案内人と共に森の入り口へやってきたよつきたちは、誰もが緊張の面もちをしていた。リシヤは現在立ち入り禁止区域となっている。許可を得た者だけが足を踏み入れることができる、危険な場所だ。

 もっとも、何が危険なのかというのは一般人には知らされていない。だが空間が歪みやすいという話ならば、よつきは耳にしたことがあった。先日の亜空間での出来事を思えば、確かに不用意に入っていい場所ではない。

「それではよろしくお願いします。後々、上の方が合流するという話です」

 生い茂る木々を見つめ沈黙するよつきたちに向かって、案内人の青年が念を押してくる。

 声こそ抑揚はないが、さっさと行けと言わんばかりの言い様だった。感情を見せない淡々とした口調なのに、どこか急かす響きを感じさせる。宮殿にいる人間にはよくあることだ。

 頷いたよつきは苦笑を押し殺して周囲を見回した。皆が呆然と森を見つめている中、ジュリとだけ目が合う。困ったように微笑んだ彼女は小さく相槌を打った。

「行きましょう、よつきさん」

 それが合図となった。よつきが頷くと同時に、それまで黙っていたラフトが「おー!」と声を上げる。そして意気揚々と歩き始めた。見送る案内人を尻目に、よつきも一歩を踏み出す。

 森へ入るにはこの細い道を進むのが一般的なのだという。だがこれは途中で分岐しているとの話だ。そこからはフライング、ピークスで二手に分かれる予定だった。

「ジュリ、駄目ですよ! 隊長と呼ばなきゃ」

「そうですよ、ここは神魔世界なんですから、呼び方で怪しまれるなんてこともないんですよ」

 背後では、またもやジュリが「注意」を受けているようだ。ピークスのリーダーということはすなわち第十九隊の隊長、という一言がきっかけで、コブシ、たく、コスミの三人は、いつしか隊長と呼んでくるようになった。

 それだけならまだいい――実際はどこもよくないが――と自分を納得させられるのだが、気づくとジュリにまで強要し始めているのでたちが悪い。それでも無世界にいる間は、周囲に怪しまれないために名前で呼ぶようにと言い含めてきた。

「おお、よつきは隊長だなんて呼ばせてるのか。いいなあ」

「ラフト先輩、止めてください。呼ばせてなんていませんよ。わたくしとしては止めて欲しいんですから」

 瞳を輝かせたラフトが、よつきの肩を叩く。迷惑である旨はしっかり伝えておかないと、事態はさらに厄介な方へ向かうだろう。

 きっちり訂正したよつきに対して、ラフトは不思議そうな表情だ。ラフトとしては、きちんとリーダー扱いして欲しいと思っているのかもしれない。今までのやりとりを見る限り、フライングの間柄は良くも悪くもざっくばらんだ。

「何が嫌なんだよ。頼りがいのあるリーダーって感じでいいいじゃねぇか」

「現実と見合わなければ意味がありませんし。たとえ見合っていたとしても恥ずかしいです。わたくしはそういうのは嫌いです」

「変な奴だなあ」

 よつきとラフトの会話が届いていたらしく、後ろから「隊長は頼りになります!」だの「見合わないなんてことはないです!」だのという威勢のいい声が響いた。おそらく、たくとコスミだ。

 早くも疲れを覚え、よつきは肩を落とした。一方、ラフトは楽しげに口笛を吹き始めている。毎度のことではあるが、気楽な様子だ。

「よつきは考えすぎなんだよ。何でもどうにかなるって」

「そうですかねぇ」

 そんなたわいのない話を繰り返しているうちに、ほどなくして分かれ道へ辿り着いた。目と目を見交わせたよつきとラフトは、後方を振り返る。呑気なお喋りもこれで終わりだ。「ここからが本番ですね」と告げたジュリに、よつきは頷いてみせる。

 当初の予定通り、ラフトたちは右手に、よつきたちは左手に進むこととなった。にぎやかなフライングがいなくなると、途端に森の静寂が感じられるようになる。

 時折虫の音が聞こえる程度で、生き物の気配が乏しい。先日の亜空間よりはましと思う程度だろう。

 リシヤの森は、決して生物が生きていけない場所ではない。植物は立派に育っているし、小さな動物もまだ暮らしている。

 しかし全く影響がないわけでもないのかもしれない。方向感覚を見失いやすい状況にも適応できている物だけが、生き残っているとは考えられる。

 よつきは歩きつつ、周囲の気配へ感覚を集中させてみた。空間の歪みについてはよくわからないが、気が感じられにくいというのは断言できる。

 先ほどまですぐ傍にいたラフトたちの気配がもう追えなくなっていた。後ろにいるジュリたちの気は感じられるが、それしか把握できない。これは異常だ。

「隊長、不気味なところですね」

「変な感じがしますー」

 コブシ、コスミの怯えを含んだ声が背後で響く。この二人は恐がりなところが問題だ。元々依頼心が強いのだろう。すぐによつきへ意見を求めてくるのも困る。

 見知らぬ世界で想定外の状況に放り投げられ、よつきにだってわからないことだらけなのだ。それなのに的確な答えをいつも期待されるのは辛い。

 一方、たくは状況把握においては楽観的すぎるきらいがあるので、これまた判断の参考にならなかった。何か問いかけてみても「大丈夫でしょう」という言葉が返ってくる可能性が高い。

 結局よつきが悩んだ時、相談する相手はジュリに限られていた。『旋風』の右腕を名乗っているだけあり、彼女はいつも落ち着いている。

 ちらりと肩越しに振り返ったよつきは、隙なく辺りをうかがうジュリへ目を向けた。

「ラフト先輩たちの気も感じられませんしね。ジュリはどうです?」

「え? 私ですか? ……かすかには感じます。でも距離感がおかしいですね。たぶん、結界のせいでしょう」

 視線が合うや否や、顔をしかめたジュリはそう返してきた。気の察知能力はジュリの方が上なので、そういう意味でも頼りになる。

 ジュリが複雑そうな顔をしているのは、おそらく彼女の後ろにぴったりコスミが張り付いているからだ。ジュリは長身なので、普通の体格のコスミと並ぶとまるで姉妹のように見える。たくとコブシへも一瞥をくれたよつきは相槌を打った。

「距離感ですか。なんだか先日の亜空間を思い出します。わたくしたちもあまり離れない方がよさそうですね」

「……コスミさんは近すぎますけどね。歩きづらいです」

 ジュリは苦笑を漏らした。それでもコスミは照れ笑いを浮かべただけで、離れようとはしない。確かコスミには兄がいたし、ジュリには年の離れた妹がいると聞いたことがある。そういった点も関係しているのかもしれなかった。

 よつきには兄弟がいないので少しばかり羨ましい。

 このほのぼのとした関係をいつまでも見守っていたいところだが、そうなるとジュリが少し可愛そうか。仕方なく、よつきは助け船を出してやることにした。

「だそうですよ、コスミ。離れてあげてください」

「そんな、隊長まで」

 不満と不安を一緒くたに主張するように、コスミは眉尻を下げる。短く切った髪の先を指で弄るのは、おそらく困った時の癖だろう。普段「隊長」呼びに悩まされているのだから、こういう時くらい利用しなくては。

「――よつきさん」

 と、ジュリの声音が変わった。彼女の纏う気から張り詰めたものが感じられる。

 何事かと息を呑んだよつきは、辺りを見回す彼女の視線を追いかけた。木の葉の隙間から漏れ落ちてくる光が、下生えを照らすばかり。生き物の気配はない。仲間の気以外のものは感じ取れなかった。

「どうかしましたか?」

「何か来ます」

 強ばったジュリの声に、ぴったりくっついていたコスミの顔も引き攣る。よつきは弾かれたように空を見上げた。今までの経験上、何かがやってくるとしたら上からだ。

 勘は当たった。木々の合間から見える空に、黒い点が見えた。誰であろうと味方であるわけがない。よつきは右手を掲げて結界を生み出した。

 根拠のない行動だったが、結果的には功を奏したようだ。降り注いできた薄水色の矢が、薄い透明な膜に弾かれて霧散する。

「隊長っ」

 慌てるたくの声に応えてやる余裕はない。結界を消したよつきは眼を見開いた。

 落下する勢いからは想像できぬ、軽い着地音がした。茶と緑に包まれた世界に青を体現したような青年が降り立つ。――青の男だ。先日、無世界で見た時と変わらない姿だった。

 しかし悠長に観察している時間はなく、男は右手に水の刃を生み出すと跳躍してきた。

「今度は水系ですか!」

 後ろへ飛んだよつきは、前回同様に黄色い不定の刃を生み出す。青の男は炎系が得意なのだとばかり思っていたが、そういうわけではないようだ。

 それとも森の中だから火を使いたくないという判断なのか。もう少し道が広ければ広範囲の技も使えるのにと、よつきは歯噛みする。いや、空間の歪みのことを考えたら広さが十分でも避けるべきか。

 詰め寄ってきた青の男は、まずは肩慣らしとばかりに単調な振りを繰り返す。それでも一撃一撃が重い。黄色と薄水色の刃が触れ合う度に、耳障りな高音が空気を震わせた。無表情に等しい男の顔は、青い瞳ばかりがやけに目立つ。

「隊長!」

 コブシの声が響くのと、よつきの体が空に浮くのはほぼ同時だった。一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 ついで全身にのしかかるような圧迫感を覚え、息が詰まる。景色が逆さまに映った。どうやら何かの技ではじき飛ばされたらしいと理解したのは、地面が目の前に迫った時だ。

 鈍い音と共に、よつきの体は落ちたようだった。肺から絞り出された空気が喉から漏れていく。視界の中で幾つかの色がぐるぐると渦巻いた。誰かの叫んだ声も、どちらの方向から聞こえてくるのか定かでない。

 木にぶつかったところで、ようやく全ての動きが止まる。あちこち痛むが、このくらいならば致命的な傷はなさそうだ。よつきは瞬きを繰り返してから、辺りを見回した。

 男の姿は予想したよりも遠くにある。そんなに吹っ飛ばされていたのか。目を凝らすと、男の足下ではたくが倒れ伏していた。そしてたくに駆け寄ろうとしたコスミに、男の剣が迫っている。

「コスミ!」

 声を張り上げたつもりが、ろくに音になっていなかった。それでも水の剣は結界に阻まれ、コスミに直撃することもなかった。青の男の目が、コスミではなく右手へと向けられる。

 ジュリだ。結界を張ったのも彼女だろう。両手を突き出して構える彼女へ、青の男は狙いを変えた。コスミは後回しということか。

 小道を蹴り上げて駆け寄ってくる男に対して、ジュリは距離を保とうと走り出す。結界を解いた右手が舞うように振られた。細長い指先から糸のような風が生み出されるのが、よつきの目にはわかる。

 風の糸を手繰り寄せるように、彼女は右手を振り上げる。その先はどうやら水の剣に巻き付いたようだった。大した拘束力はないが、それでも不定の刃の軌道に揺さぶりを掛けるには十分。上手い手だ。

 しかし青の男は動揺するどころか、わずかに口角を上げた。男の顔に初めて浮かんだ表情のようなものに、よつきの喉が鳴る。

「余裕、ですね」

 よつきはよろめきながら立ち上がった。あの男は戦いを楽しんでいるのではないか。そんな思いが内から湧き上がってくる。

 それではジュリでも長くは保たないだろう。ジュリが男を引きつけてくれている間に、コブシがたくとコスミの元へ駆けつけているが、五人揃ったところで勝機を呼び寄せられるような決定打を誰も持っていない。これではどうにもならなかった。

 ジュリは風を鞭のように扱いながら、懸命に男から距離をとっている。男は水の刃を巧みに振って風を叩ききっているが、その傍から鞭が伸びてくる状態だ。

 正直、風の技にこのような使い方があると初めて知った。まだまだ技の使い方には工夫の余地がありそうだ。

 よつきはゆっくり歩き出す。青の男からは、あえて距離を詰めようという意志が感じられなかった。おそらく風の鞭とのやりとりを楽しんでいるのだろう。

 何か仕掛けるなら今しか機会はなかった。飽きた男が勝負をつけに動いたら、もう勝ち目はない。

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