第8話
夕闇が辺りを包み込み、街灯の周りを飛び交う羽虫が目立つようになった。ありかが饒舌なのはきっと緊張のせいだろう。
それを和らげるだけの力が梅花にはなかった。こんな時でも微笑むことができる方法を教えてもらえばよかったと、頭の片隅でぼんやりと思う。
「乱雲もね、あなたに会いたがっていたわ」
「……そうですか」
父親の名前を耳にしても、梅花にはどうも実感が湧かない。青葉と似ているらしいということは、リューから聞いてた。
父はヤマト出身で、青葉が小さい頃はまだヤマトにいたらしい。それがどういう理由でか宮殿に移り住み、母と出会ったとの話だった。
技使いとしても優秀だったと聞く。だから神技隊のリーダーに選ばれたのだ。もっとも、理由はそれだけではないだろう。宮殿内部の事情に通じていないから、手放しやすかったに違いない。
「梅花は、会いたくはないの?」
ありかは足を止めた。遅れて立ち止まった梅花は、ゆるりと頭を傾ける。薄闇のせいで捉えにくい母の表情の奥に、悲嘆が見えたような気がした。わずかに目を伏せて、梅花は囁くように答える。
「正直に言うとよくわかりません。私は伝え聞いた父しか知りませんので」
「そう、そうよね」
「ただ、父も普通にこちらで生活しているようで、安心しました」
あえて父のみに限定したが、それはありかに対しても同じだった。神技隊としての役目を終えた者たちには、ごく普通に暮らす権利が与えられている。少なくとも今はそうだ。
何か異変が生じたら気になりはするだろうが、それでもずっと宮殿に囚われている必要はない。宮殿に住んでいた者が唯一、正式にあの閉塞的な空間から解放される方法とも言えた。
「……あなたは、どうするの?」
ありかの眼差しは、何かを訴えているかのようだった。梅花は首を捻った。何を問われているのか、一瞬わからなかった。どうするもこうするも、今はただ神技隊としての役目を果たすしかない。
だが四年後のことを尋ねられているのだと理解した途端に、返答に窮する。ここで本音を口にしてはいけないと直感が告げていた。
「今は、わかりません」
梅花は首を横に振った。
「この頃の異変は、お母様も感じ取っていますよね? 今までにない事態が生じているようです。つい先ほど、第十五隊と第十九隊を神魔世界に送り届けてきたところです。私もいつ呼び戻されるかわかりませんし」
先が読めぬ理由を異常事態のせいにして、梅花はそう返答した。その時だった。
「お母さん!」
道のさらに先から、少女の呼ぶ声が聞こえた。弾かれたようにありかは振り返る。一瞬だけ、梅花の視界に声の主の姿が飛び込んできた。
ありかの向こうに立ち尽くしていたのは、制服――セーラー服と呼ばれていたように記憶しいている――を着た小柄な少女だ。肩から大きな鞄を提げているのがやけに目立つ。
「あすず」
呟くように、ありかが名を口にする。まだ帰ってこないだろうと言われていた妹だ。ここで梅花が顔を合わせるのはまずいだろう。これだけよく似た顔の人間とたまたま出会ったというのは、苦しい言い訳になってしまう。
ありかの動揺を察して、梅花は軽く会釈した。
「もう日が暮れてしまいますしね。それじゃあ私はこれで」
当たり障りのない言葉を掛けて、梅花は二人に背を向けた。「あっ」とありかの漏らす声が鼓膜を揺らすが、振り返るつもりはない。
翻ったスカートが再び足に絡みついたが、それも気にせず梅花は歩き出した。妹にはっきり顔を見られていなければいいと願うばかりだ。
気を隠し損ねたありかの複雑そうな感情が伝わってきた。安堵したような、落胆したような、そんな気。おそらく先ほど見たのと同じように、泣き出しそうな顔をしているのだろう。
だから梅花は振り向かなかった。今ここで立ち止まることは誰のためにもならない。
「これでよかったのよ」
彼らの平穏を壊したいわけではない。無世界での生活に波紋を与えるつもりはない。できるなら自分のことなど忘れて欲しいというのが梅花の希望だった。
枷になどなりたくない。記憶から消し去るのが無理だというなら、「自分は自分なりに幸せにやっているので気にしないで」と言って笑いたかった。もうこれ以上、自分のせいで誰かが苦しむ姿など見たくない。
「うまく生きるのって難しいわね」
梅花は独りごちた。「あの人は誰?」と尋ねる妹の声が、やけに強く耳に残った。
帰ってきた梅花の様子がおかしいことに、青葉はすぐに気がついた。フライングたちを送り届けてきただけのはずなのに、どこか心ここにあらずだ。
サイゾウにそう伝えてみても「そうか?」と首を傾げられるし、アサキやようは「疲れているんじゃないか」と口にするだけだったが。
確かに、大人数を神魔世界へ連れて行けば疲弊するだろう。そうでなくとも彼女の仕事は多いし、無理をしがちなのだから。それでも何か妙だと、青葉は感じ取っていた。
「何かあったのか?」
思い切って尋ねてみたのは、アサキたちが寝静まってからだ。白いテーブルに向かいながら帳簿を睨みつけていた梅花が、つと顔を上げる。テーブルに置かれた明かりに照らされた双眸が、わずかに揺らいだ。
「青葉、まだ寝てなかったの。……急にどうして?」
「帰ってきてから、やけに考え事してるだろ」
梅花と向かい合うようにして、青葉は椅子に腰掛ける。帳簿をぱたりと閉じた彼女は、また考え込むように視線を落とした。
「気のせいでしょう」と即答されないということは、躊躇っている証拠だ。彼が黙して待っていると、彼女はゆっくり口を開く。
「どうしても微笑まなきゃいけない時に、微笑む方法ってある?」
「……は?」
梅花の問いかけは、予想外なものだった。思わず素っ頓狂な声を漏らして、青葉は眉根を寄せる。一体突然何の話だろう。全く想像できない。
「仕事なら、って思えたらできるようになったけど」
「いやいや、いきなりそんなこと言われてもオレには全然話が見えないから。梅花こそ何だよ急に。誰か何か言ったのか? 笑えって?」
そんなことを言う人間がいるのなら、青葉は蹴り飛ばすつもりだ。以前は自分も同じようなことを考えていたし、実際口にしたこともあるが。自分のことは棚に上げて今はそう思う。
無理強いしたくないという理由もあるが、梅花が必要時以外にも微笑むようになるなど危険でしかないからだった。――色々な意味で。
「別に、言われたわけじゃあないわ。必要かなって思ったのよ」
視線を合わせないまま、梅花は言葉を濁した。間違いなく何かあったという動かぬ証拠を掴み、青葉は彼女の顔をのぞき込む。
「いつ? どこで? どうして急にそう思った?」
距離を取ろうと背を逸らした梅花の指先は、帳簿の上を往復している。口にすべきかどうか迷っているのだろう。
以前なら「関係ないでしょう」という一言で切り捨てられたかもしれないが、悩んでくれるくらいには近づけたということだ。そこで喜ぶのもいささか悲しい気がするが。
「――お母様と会ったの」
わずかな沈黙の後、梅花はそう告げた。突拍子もない話ではあったが、すぐに青葉は事情を察した。彼女の両親については、彼も少しだけ聞いたことがある。
「梅花の母さんっていうと、あの、神技隊に選ばれた?」
「そう。最近異変続きだったでしょう? だから様子を見に来たみたいなのよ」
なるほど、だから様子が変だったのか。しかしそれと笑顔の必要性が結びつかない。
梅花の表情が乏しい理由など聞いたことはないが、少なくとも他人によく思われたいから繕うということはしたくないようだった。肉親に対しては違うのか? 青葉は疑問を視線に乗せつつ彼女を見つめる。
「それで?」
「……私がこうであることに対して、お母様には責任を感じて欲しくないのよ」
いきなり結論へと達した梅花の返答は、実に抽象的だった。「こう」の内容はあえて言葉にしなかったのだろう。その中に何がどれだけ含まれているのかは、青葉にも推し量れない。いや、おそらくは全てか。
「オレは、お前んところの事情は詳しくわかってないけど。要するに、心配かけたくないから笑顔を作りたいってか?」
「心配……少し違うけれど、そんなようなものね」
「オレは反対だな」
青葉が顔をしかめると、梅花は意外だと言いたげに小首を傾げた。心底不思議そうな様子だった。それが妙に腹立たしくて、彼はテーブルに頬杖をつく。彼が賛同するとでも思っていたのか。彼女に嘘を吐かせるような真似はしたくはない。
「それじゃあ何の解決にもならないし、誰のためにもならないだろ」
「どうにもならなかった過去に対しては、解釈のみがあるだけよ。血の繋がりだけで、いつまでも彼らを縛っていたくはないの」
彼らという響きは、ひどく他人行儀に響いた。だがそれに文句を付けることは、青葉には不可能だった。自身の家族のことがふと呼び起こされる。脳裏に父親の姿が浮かび上がり、ずしりと胸の奥が重くなった。
血縁だからという理由で全てが許されるわけでもないし、全てを許さなければならないわけでもない。互いのためにならないなら、距離を置いた方がよいこともある。
長年離れていた家族に嘘偽りない姿を見せろと強制することは、梅花にとっては重荷となるのか? これを機に和解して欲しいと願うのは、彼の我が儘なのか? 返す言葉を失った彼は考え込む。彼女が目を伏せる様が痛々しかった。
「妹が、いたの」
ぽつりと梅花は呟く。思いも寄らぬ話に青葉は瞠目した。落ち着いて考えてみたら何らおかしなことではないが、それでも無世界で技使いたちの子どもが生まれているという事実に現実感は湧かなかった。感情が追いつかない。
彼が息を呑んでいると、彼女はゆくりなく立ち上がった。
「彼らの生活を壊したくはないの」
引かれた椅子が鳴った。今にもかすれそうな声で囁かれた言葉は、祈りにも似ていた。逃げるように踵を返した梅花へと、青葉は無意識のうちに手を伸ばす。なびいた長い髪の先だけが指先に触れた。
一瞬目に入った彼女の横顔は、まるで泣くのを堪えているかのように見えた。
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