第7話
日はもうほとんど沈みかけていた。黄昏時の気配が消え去ろうという中、閉じた『穴』の名残を梅花はじっと見つめる。
今し方フライングとピークスを無世界へ送り届けたばかりだ。大人数の出入りの影響で、完全に元通りになるまでは時間がかかるのが普通だった。
それでもここまで来ればもう乱れることはないだろうと、彼女はほっと安堵の息を吐いた。近くに寄らなければ顔の判別も難しいような薄暗さではあるが、誰かに目撃されることがないよう気を遣うのは骨が折れる。
ゲートの場所は変えようがないので、こればかりはタイミングをうかがうしかなかった。一般人の気がないことを確認して素早くゲートを開き安定させるのは、容易いことではない。
「人数が多いと、ゲートの安定にも時間がかかるしね」
肩を落とした梅花は、とぼとぼ歩き出した。ゲートとはつまり、結界の穴だ。それが広がらぬように大人数を通すとなると、ますます慎重になる。
普段は穴を利用されないように『蓋』代わりになる技が施されているが、その蓋を外した状態で穴を安定化させるのにはコツがいる。
長いことゲートの調整に携わっていた彼女は慣れていたが、他の技使いはそうではない。だからゲートに手を出せる人間は限られていた。
「こういうことが続いたら困るわね」
梅花はつと足を止め、振り返った。閉じられたゲートは、周囲の空間と何も変わらないように思える。いや、周囲の空間を含めて全体が歪んでいると言うべきか。
蓋をしたせいだと一般的には言われているが、それだけではなさそうだと彼女は感じていた。結界のせいなのか気の乱れもひどく、この周囲にいると気配を察知しにくい。
「この辺りにいるのを狙われたら大変ね」
ぼやいた声はわずかにかすれた。余計なことを考えたせいか背筋に冷たいものが走る。
レーナたちに青い髪の男。いつどこに突然現れるかわからない者たちだ。レーナたちは人目につくのは避けているということだが、逆に言えば人気がなければ現れる可能性がある。そう、たとえばこんな時とか。
「帰らなきゃ」
単独行動するなと、最近は耳が痛くなるほど注意されている。今日だって客がいなければ誰かは連れて行かなければならないはずだった。
青葉は最後まで渋っていたが、蓄えが減っていく一方の状況も理解していたので仕方がなくといった様子だった。最近上からの仕事が多すぎて、まともに商売ができていない。
長居は無用と梅花が前方へ向き直ろうとすると、不意に風が鳴き、梢が震えた。翻ったスカートの裾が足に絡みつく。視界を覆わんとした髪を手で押さえ、彼女は片目を瞑った。
長い髪はこんな時に不便だが、頻繁に整えに行くのが嫌で小さい頃からこのままだ。今さら変えるのも落ち着かないのでそのままにしているが、日頃から結わえた方がいいかもしれない。いつ戦闘になるかはわからなかった。
手櫛で髪を整えた彼女は、顔を上げた。と、その視界に、一人たたずむ女性の姿が入った。すぐに存在に気がつかなかったのは、女性が気を隠していたからだ。すなわち――技使い。
梅花は足を止めると小首を傾げた。梅花自身も気を隠したままなので、こちらが技使いであることは悟られていると思っていいだろう。
明かりの乏しい薄闇の中で、女性の白い服は浮き上がって見える。肌もどことなく青白い。肩ほどまである髪は、呼吸に合わせて緩やかに揺れていた。
今にも泣き出しそうなその顔は、見覚えがある。――先日スーパーで見かけた女性だ。
「梅花……でしょう?」
怖々と辺りに響いた声には、祈りも含まれているように思えた。気が感じられなくともそれくらいはわかる。不安と希望がない交ぜになった言葉だ。
名前まで当ててくるような人物に対して偽る必要はないと、梅花は素直に頷いた。女性は口を開いたり閉じたりを繰り返しつつ、一歩一歩梅花に近づいてくる。まるで幻でも見ているような顔をしていた。実際、そんな気分なのだろう。
「最近、ゲートの出入りが多いから気になっていたのよ。不穏な気配もあるし」
「ご心配おかけしてすみません、お母様」
女性――ありかは、立ち止まった。何に対して驚いたのか、息を呑み眼を見開いている。梅花は頭を傾けた。
「何か?」
ありかは口ごもった後、静かに首を振った。何か言いたげな様子だったが、梅花はそれ以上追求しなかった。
ありかの言動を観察しながらあれこれと考える余裕がある自分に、密かな安堵を覚える。先日のような衝撃や動揺はない。想像していたよりも気持ちは穏やかだ。
一方、ありかは戸惑いを覚えているようだった。わずかに視線を彷徨わせながら、おずおずと尋ねてくる。
「ここにいるということは、あなたも神技隊なの?」
「そうです。第十八隊シークレットに選ばれました。去年の春のことですね」
「……そう、もうそんなに。本当に毎年派遣されてるのね」
ありかは瞼を伏せた。初代の神技隊が選ばれたのは、梅花が生まれる前のことだ。そのリーダーが父――乱雲であったことは、幼い頃リューに教えてもらった。
その次の年には、母であるありかも神技隊として派遣されている。その際、生まれたばかりであった梅花は宮殿に残ったのだという。
詳しい経緯については聞いていない。そのことになると、誰もが沈鬱な面持ちで口を閉ざすからだ。それでも断片的な情報、多世界戦局専門部に残されている記録から、おぼろげながらも事情を察することはできた。
神魔世界と無世界を隔てていた結界に、突如として穴が生じた。その混乱に乗じて、見知らぬ世界へと逃げ出す者たちが続出した。
当時の宮殿内は大混乱だったことだろう。神技隊が結成されたのはそんな最中だ。
両親がそのただ中で引き裂かれる結果となったのは、誰が意図したものでもない不運だった。最終的に梅花が祖母に預けられる結果となったのも、やはり単なる不運でしかない。
しかし、責任を感じている者たちはいる。恨んではいないと何度梅花が説明しても、禍根の象徴のように見つめてくる者たちがいる。
今のありかの眼差しも、そういった人々のものに似ていた。胸の奥に食い込んでいる楔が、さらに深く沈んでいくのを感じる。
「違法者が途絶えることはありませんから」
梅花はありかから視線を逸らした。自分という存在が母親の心の重石となっているだろうというのは、容易に想像できることだ。
こんな時くらいせめて微笑むことができたらいいのにと、梅花は心底思う。仕事のためならばどうにか不自然ではない笑顔を作れるようになったが、今は歪な笑みしか浮かべられない気がする。
今さらありかの心に波風を立てたいわけではなかった。微笑みというものは、恨んでいないと、責めているわけではないと、伝えるための一つの方法なのに。
「そう、あの……」
ありかの遠慮がちな視線を感じる。軽く目を閉じてから、梅花は静かにありかへと双眸を向けた。日暮れの匂いの中で、自分とよく似た――自分がよく似ていると言うべきか――顔が微苦笑を浮かべている。
「この後、時間はある?」
そこにある感情が読めないほど、梅花は疎くはなかった。気が隠されていてもわかる。ここで断ることはすなわち、拒絶することに他ならない。梅花は逡巡しなかった。
「夕食の時間まででしたら。……仲間が待っていますから」
ありかはほっとしたような、それでいて泣きそうな顔で相槌を打った。どこかで見たような表情だと感じるのはきっと気のせいだろう。
梅花は胸の奥底にわだかまる罪悪感を意識して、深いため息を吐きそうになるのをどうにか堪える。
自分がいなければ誰も苦しむことなどなかったのに。
打ち消しても打ち消しても湧き上がってくる思考が、再び彼女の中に波紋を生んだ。リューの苦しげな微笑が不意に脳裏をよぎる。
自分がいなければきっと両親は何も悩むことなく神技隊としての仕事に向き合えただろう。多世界戦局専門長官であったリューの父親が、取り残されてしまった赤ん坊を自分の娘に託すこともなかっただろう。
意味のない仮定だとはわかっていても、つい考えてしまう。
『あんたさえいなければ』
いつだったか誰かが口にした言葉は、今も鋭利な刃となって奥底に突き刺さったままだ。「できることなら私もそうしたい」と答えられなかったのは、言い訳にしか聞こえないとわかっていたから。本心だと受け取られないとわかっていたから。
上に重宝されている立場を捨てたいと願う者など、普通はいない。
宮殿で疎まれ続けている存在を、上はことあるごとに欲した。いや、正確にはその力か。慢性的に人手不足らしい上にとって、神童と呼ばれる少女がいることは都合がよかった。彼女が消えることを、上はよしとしなかった。
「そう、そうよね。あなたにも仲間がいるんだものね」
少しだけ残念そうに笑ったありかの声が、梅花の思考を現実へ引き戻した。今梅花がいるのは宮殿ではない、無世界だ。ここで考えなければならないのは、ありかにどう対応すべきかということだ。
しかし梅花はにわかには判断できなかった。気を隠しているからこの感情はありかには伝わっていないはずだが、笑顔を繕うことができない状態のままでは、長い時間を共にするのはきっとよくないだろう。
できるならすぐに別れた方がいい。けれどもそれは、拒絶と捉えられかねない。
「それじゃあ、お茶だけでも飲んでいかない? ちょうど頂き物があるの」
意を決したように、ありかはそう続けた。梅花はかすかに眉根を寄せた。
「でも、急にお邪魔するわけには」
「何を言ってるのよ、遠慮しないで。そんなに綺麗なところじゃあないけどね。それに、この時間だとあすずは部活だからまだ帰ってきてないし……」
そこまで言ったところで、ありかは突然口をつぐんだ。飛び出してきた聞き覚えのない名前から、梅花は躊躇の理由を察する。
「あの、あすずは今、十三歳で……」
「妹、なんですね。いえ、何も気にしないでください」
むしろ、その事実は梅花の心を軽くした。この無世界で両親が幸せに暮らしている象徴のように思えた。それが聞けただけで、再会した意味があったようにも感じられる。
妹がいると都合が悪いのは、きっと事情を知らないからだろう。この無世界で生まれ普通の子どもとして育っているならば、わざわざ説明すべきことでもない。
「わかりました。では少しだけ」
気持ちが幾分軽くなっただけに、梅花は素直に頷くことができた。この時間をうまく乗り越えることさえできたら、きっとありかたちは心穏やかに今後を迎えることができる。
まるで自分に言い聞かせるような言葉だと、梅花は内心で苦笑した。結局は自分を納得させるための理屈だ。ありかのためではない。
嬉しげに瞳を瞬かせたありかは、おもむろに歩き出した。梅花はスカートを翻して、その後をゆっくり追いかける。
歩を進めながら、ありかは当たり障りのない話を続けた。無世界での思わぬ苦労話や、他の神技隊の話、乱雲の話が中心だった。あえて妹の話を避けているのは明白だった。だがそれを指摘する意味もなかったので、梅花は適当な相槌を繰り返す。
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