第18話
「梅花、待たせたわね」
扉が開かれる気配に続いて、耳慣れた声が響いた。椅子に座り目を瞑っていた梅花は、ゆっくり瞼を持ち上げる。
白い扉に手を添えている見慣れた姿も、今日はずいぶんと疲れ切っているようだった。多世界戦局専門長官――リューは、このところ大忙しと聞く。
無世界で起こった謎の襲撃者の報告だけではなく、どうも上が落ち着かないせいだと、梅花は踏んでいた。宮殿の……否、『宮殿の上』のざわつきが、ずっと感じられている。
拒絶的で冷たく無機質なこの建物は、神魔世界では宮殿と呼ばれていた。
全く住み心地のよくない場所だ。壁も天井も床も全てが白。通りかかる人は誰もが口を開くことなく、いつも仕事に追われている。長い廊下に向かって数多並んだ部屋の区別は難しく、親切な案内人もいない。部外者であれば必ず迷うと言われている。長年住んでいる者であっても、この空気を忌避している人は多い。
それでもここは神魔世界の中心だ。いや、正確には神魔世界にある地球という星の中心だった。
外の星のことを梅花は知らない。遙か昔より、この星を出ることは禁じられている。もっとも、それを実現する方法などないため、許可されたところで不可能なのだが。
梅花の目を見てリューは一瞬だけ顔をしかめると、静かに部屋の中へと入ってきた。
宮殿によくある会議室の一つだが、その中でも最も狭いタイプだ。同時にいられるのはせいぜい五人が限度だろう。白い椅子と机が置かれただけの殺風景な内装は、他の部屋と大差なかった。窓がないのも気が滅入る理由の一つだ。
扉が閉まりきるのを待って、梅花は口を開く。
「会議は終わったんですね」
「ええ。ようやくといったところね」
凝りきった肩をほぐすようにリューは首を巡らせた。梅花はおもむろに立ち上がり、かろうじて微少を浮かべているリューを見上げる。
きっちりまとめられた赤茶の髪も、全身を包む深い赤の長衣も、今では多世界戦局専門長官の象徴となっている。しかし、実際のところ彼女にそう多くの権限はない。三十を超えたばかりという若さのためではなく、その役職自体が『上』を代弁し、手足となるためのものだからだ。
「方針は決まったんですか?」
「梅花、あなたはラウジングさんという方に会ったことはある?」
問いかけに問いかけで返され、梅花は頭を傾けた。リューがそのような話し方をするのは珍しかった。よほど疲れているのか、もしくは動揺しているせいか。
それでも怪訝な表情を見せることなく、梅花は首を横に振った。
「いいえ、会ったことはないかと。名前は聞いたことがありますので、もしかしたら見かけたことくらいはあるのかもしれませんが」
「そう」
「上の方ですか?」
確信を持って梅花は尋ねた。会議の直後であり、そのような言い出し方をすることから、疑いようがなかった。何よりリューの気が雄弁に語っている。
上が身を乗り出してきたことに対する戸惑いと、詳細を伝えてもらえないことに対する苛立ち、それらに対する諦めの感情が、彼女の気に滲み出ていた。
「ええ、そうよ。よくわかったわね。直接確かめたいんだそうよ」
「つまり、無世界に行きたいと?」
困惑するリューに対して、梅花は確認の問いかけを続けた。時間が掛かっていた理由はそれだったのかと、内心では素直に納得していた。
誰かが行かなければならないことは、きっとすぐに決まったはずだ。それだけの大事だと上は判断している。しかし問題は、誰を行かせるかだ。『本当の上』が人手不足であることは、薄々梅花も気づいていた。
「そうなるわね。まさかそう来るとは思わなかったわ。本当に何を考えているのかしら」
「もしかして、私に案内しろってことですか?」
一つの可能性を見つけ出し、梅花はほんの少し瞳を細めた。全てが腑に落ちたような心地になった。
一方のリューはあからさまに瞠目し、それから嘆息混じりの笑顔を浮かべる。幾度となく見かけたその表情は、その度に梅花の胸を重くするものだった。喉の奥で息が詰まりそうになる。
「そうよ。あなたの察しの良さにはいつも驚かされるわね」
「わかりやすいじゃないですか。上が懸念していることなんて、いつも似たようなものですから」
上は何かが外に漏れることを恐れている。宇宙へ出るなと禁じるのも、異世界へ飛び出すなと禁じるのも、全ては漏れるのを防ぐためだ。
何かまでは梅花にもわからない。しかし異常なまでの恐怖心だった。それを防ぐためならば上はどんなものでも利用する。宮殿出身の使い勝手のよい技使いなら、なおのことそうだ。
梅花はリューから視線を外すと、机の表面を撫でた。窓のない部屋には明かりが一つだけなのに、白い壁や床が反射するせいで全てがほの明るく輝いて見える。指先の動きに合わせて机上の影が形を変えるのを、彼女は何とはなしに見下ろした。
「騒ぎを大きくしたくはない。でも知りたいんですよ、彼らが何者なのか」
「でも、それじゃあどうしてあなたに?」
「上の方がいきなり無世界に行って、騒ぎにならないとでも? あちらって、こちらの世界よりもある意味では閉鎖的ですよ。案内人が必要なんですよ。でも私の報告だけで判断するには事が大きすぎて、直接見たいってところでしょう」
リューから諦念と感心の眼差しが向けられていることに、梅花は気づいていた。リューにとっては、上の狙いを推測して動く梅花は異端な存在なのだろう。誰でもその気になれば、不可能なことではないと思っている。ただ、皆はそうすることが怖いのだ。ただの歯車から抜け出すことを恐れている。
「あなたって人は……上の方を何だと思っているの?」
「何も。上は上です。個人個人はどうであれ、上という固まりとしてはそうなります」
加護のない自由とは不安定なものだ。だから皆は飛び出さないようにしているに過ぎない。
独りごちながら、梅花は顔を上げた。リューは悲しさを押し殺しきれない微笑を浮かべていた。またそんな顔をさせてしまったと、梅花の胸は軋む。リューの憂いを理解したつもりではいた。
リューたちが想像しているよりも、上は意外と寛容だ。狙いの範囲であれば何をしても目を瞑ってくれている。多少の我が儘も許される。
けれども宮殿という場所はそうではない。こんなことを続けていれば息もしづらくなる。だからリューは案じてくれていた。外では宮殿と上は同一の存在と見なされているのに、面白いことだと思う。上とは、一体何なのか。どこからが上なのか。
「ラウジングさんにお会いできるのはいつですか?」
梅花は話を戻した。こういったやりとりをするのも今に始まったことではない。それでも神技隊に選ばれてからは確実に減っていた。
単純に、宮殿にいる時間が短くなったからだ。平行線を辿る問答に意味はないから、よいことだと思うことにする。リューの苦悩する時間も減るだろう。
「夕刻までには、と聞いているわ。この部屋のことを伝えておくから待機させておけって」
今度は、リューが顔を背ける番だった。言いにくいことを無理に口にする時特有の声音で、そう告げてくる。
「わかりました」
つまり、もうしばらくここに閉じ込められるということか。頷いた梅花はもう一度椅子に腰掛けた。何もやることがない部屋に待機というのは、おそらく普通の人間にとってはさぞ苦痛なことだろう。
だが梅花にとっては大事な情報収集の時間だった。余計な物がないので、宮殿内の気へとずっと意識を向けることができる。上の混乱具合も把握できる。悪いことばかりではない。
しかしそれを説明したところできっとリューには理解してもらえないだろうから、あえて黙っていた。リューはいつも梅花のことをかわいそうな少女だと思っている。
「……何か飲み物を持ってくるわね」
文句が出ないことが不満だと言わんばかりに、リューは嘆息した。「ありがとうございます」と答えた梅花は、悲しみをたたえた背中を静かに見送った。
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