第3話
「怪我したんでぇーすか? コートも傷ついてまぁーす」
そう指摘され、梅花は「ああ」と小さく声を漏らした。
背中の汚れがアサキの目にも留まったのだろう。「買い換えなきゃ駄目か」と彼女が小さく呟いたのを、青葉は聞き漏らさなかった。まず気にするのはそこかと問いたくなる。神技隊はどこでもそうだと聞くが、青葉たちも決して裕福ではない。
「さすがアサキ、鋭いわね。実はちょっと妙な騒動が起きちゃって」
特別車の扉に手を掛けて、梅花は肩をすくめた。まさか、また「どうってことない事件」として済ませようというのか? 押し込めたはずの苛立たしさが頭をもたげてきて、青葉は不機嫌な声で口を挟んだ。
「梅花がよくわからない奴らに絡まれたんだ」
その言葉に、アサキとようはあからさまに反応した。全ての動きを止めて思い切り眼を見開く。
だが二人が疑問の声を上げようとしたところ、開きかけていた車の扉を閉めて、梅花がそれを制した。
「よくわからない奴らじゃないわ、神技隊よ。第十六隊ストロングのダン先輩とミツバ先輩」
青葉の発言を、梅花はきっちり訂正した。続いて飛び出した予想もしなかった単語に、アサキとようは目を白黒させている。
当然だ。説明しようにも攻撃的な口調になるのを止められそうになくて、青葉は黙り込んだ。するとようが大きく首を傾ける。
「えーと、何で梅花が神技隊に絡まれるの? 悪いことしたの?」
「人違い、みたい。私とそっくりな人に襲われたんだそうよ」
「何それー」
特別車に背を向けた梅花は、簡単に説明した。ほんの少しだけ困惑顔なのが青葉には意外だった。先ほどは見せなかった表情だ。
神技隊同士は知り合いではない。彼らは毎年一隊ずつ、この無世界へと派遣されている。
はじめは臨時の措置だった。異世界へ侵入し技を行使するという禁を犯した者たちを連れ戻すのが、第一隊となった神技隊の役目であった。しかしそういった違法者たちは増え続けるばかりで、増員を余儀なくされた。
臨時であったものがいつしか定例化し、この春で第十九隊が派遣されているはずである。
その理由の一つには、この世界で生活しながら違法者を取り締まる難しさがある。全く別の文化を持つ、異質なる世界で生活することは、それだけでも十分に苦労の連続であった。しかも技の存在を知られてはならないとなると、なおさら難しい。
こちらで生活するためには、とにかく金を稼がなければならない。最低限の衣食住が保障される神魔世界とは勝手が違った。
生活費を稼ぎながら『本職』である違法者の取り締まりを続けているうちに、体を壊す者も出始めた。その結果決められたのが五年ルールだ。最低五年は違法者を取り締まること。その後は自由。留まるのも、神魔世界に帰るのも。
「詳細がわかり次第、上に報告しないと駄目ね」
梅花はため息を吐く。『上』というのは神技隊を派遣した『宮殿』に住む者たちのことだ。彼ら第十八隊シークレットには、違法者を取り締まる以外にもう一つ役割がある。それは上への情報提供であった。
無世界へ派遣されてしまうと、『ゲート』の出入りが自由にできない神技隊は、上との連絡が途絶えがちになる。一応交信するための道具は渡されているが、詳細な情報を提供するには向かない。
上はそのことにも危機感を抱いているようだった。そのため梅花が派遣されたのだという。彼女は宮殿出身の技使いだ。当人は上の使いっ走りだと言っていたが。
「厄介なことになってまぁすねぇ。第十六隊ストロングっていうと、アサキたちよりも二つ上でぇーすねぇ」
「報告もいいけど、放っておいていいの? また襲われない?」
ようやく頭が働くようになってきたのか、アサキとようが口々に述べる。梅花は車に背をもたせかけると、わずかに頭を傾けた。
青葉には躊躇っているように見えた。反対されるだろうということは理解しているのか? 彼女は静かに瞼を伏せてから、先ほどの約束を口にした。
「人違いだって信じてもらうために、明日会うことになってるの」
「本当に会う気なのか?」
青葉は即座に問いかけた。あの腹が立つ二人とまた顔を合わせることになるのかと思うと、いい気分にはならない。
彼が頬杖をついたまま瞳を細めていると、ようやく梅花の視線が彼へと向けられた。感情の読み取りにくい黒い双眸を、彼は見返す。
「またさっきみたいなことになったらどうするんだよ。危険じゃないのか?」
たとえ相手が技を使ってきたからといって、こちらも技で応戦するわけにはいかない。人目につかないところでなら問題ないが、明日は場所も指定されている。条件はよくなかった。
辺りを不穏な空気が包み込み始めたせいか、アサキとようがおろおろし出す。
「そんなこと言っても、会うしかないでしょう。それに、彼らのリーダが誰なのか、青葉は知らないの?」
「リーダーって……ええっと、ストロングってことは――」
「
「滝にいか!」
青葉が重要な事実を思い出すより早く、梅花は答えを言った。思い出した途端に、青葉の胸の内に複雑な感情が湧き起こった。
自分でも安心しているのか不安なのかわからない。知り合いがいるという安堵と、その仲間が『あれ』であるという衝撃に、喜んでいいのかどうかも定かでなかった。
滝は『ヤマト』の次期長――若長だった青年だ。ヤマトは青葉の生まれ育った場所でもある。近くに住んでいたため、滝とは幼い頃からの知り合いだ。
滝が神技隊に選ばれたと聞いた時はひどく喫驚したことを、今でもよく覚えている。あれはヤマトだけではない、全ての技使いにとって衝撃的な知らせだった。若長が神技隊に選ばれるほどに異世界の状況は悪くなっているのかと、誰もが不安を抱いた。こうして実際に来てみたらそのようには思えないが。
「そうか、滝にいか……」
「来てくれるというのなら、話くらいはできるでしょう。誤解を受けたままってのも困るしね」
確かに梅花の言うことも一理ある。今後も遭遇しないとは断言できないのだから、不安の種は消し去っておいた方がいいだろう。それではどうするべきか――。
「わかった。オレも行く」
「そうしてもらえると助かるわ」
即座に告げた青葉へと、梅花は嫌がることなく頷いた。妙に素直だなと彼は訝しむ。てっきり一人でも大丈夫だと突っぱねられると思ったのだが。
「滝先輩とは一度会っただけだから、忘れられていた時に困るもの。三年以上も前の話だし」
小さく、梅花は呟いた。確実に誤解を解くためにはその方がいいということか。青葉は脱力しそうになりながら、かすかに口元を歪めた。何だか頭痛がする。
「お前を忘れる人間なんていないと思うが……」
「どうして?」
「いや、何でもない」
青葉は首を横に振った。「簡単に忘れられる容姿じゃない」という言葉を、彼はすんでのところで飲み込む。
すぐに忘れてくれる顔ならば、ダンとミツバに襲われることもなかっただろう。ただ可愛いとか美少女だとか、そういうのとは違う。透明感とも言うべきどこか人間離れしている顔立ちは、一目見たら脳裏に焼き付く。
しかも『気』も特徴的であった。眩しい程に鮮烈でありながらも柔らかく温かく染み入ってくるこの気。そこにこの容姿が組み合わさった人間を、技使いが忘れるわけなどない。
「ほら、梅花の気はさ、こうぶわーっとすごくてふわーっと柔らかくて、しゅんと透明じゃない。忘れられないと思うよ」
青葉が黙りこくっていると、それまで口をつぐんでいたようが代わりに答えてくれた。わかるようでわからない表現の仕方だが、言わんとすることは伝わったのだろう。梅花は曖昧な笑顔を浮かべながら頷く。
「そう。ってことは、私によく似たその人は、気まで似ていたのかしらね」
先ほどのミツバの発言を思い返すと、そういうことになる。見間違えるはずのない人間と、よく似た存在がいる。
俯いた梅花に、青葉はますます掛ける言葉を失った。重苦しい沈黙が広がる中で、「だとしたらすごいねー」と無邪気に驚くようの声だけが、朗らかに辺りに響いた。
日が昇る前の路地裏は、春といえども冷え込みが強くなる。朝焼けの予感が滲んだ空気の中を、青葉は無言で歩いていた。
数歩後ろには梅花がいるのだが、足音どころかほとんど気配がない。普通の人間程度の強さの気がわずかに感じられる程度だ。
こういった気配の隠し方において、彼女の技術は群を抜いている。完全に気を消してしまうと、顔を合わせた相手が技使いであった場合は違和感を持たれる。そして隠していることがばれてしまう。
特徴的な気を持っているだけに、彼女はいつも配慮しているのだろう。普段の生活でも、実はある程度抑えている可能性さえあった。本格的な技を使っているところを見る機会がないため、本来の状態が把握できていない。
一年も共に過ごしているのにこの程度かと、青葉は内心で嘆息した。仲間とは一体何なのだろう?
だが余計なことを考えてばかりもいられない。油断すると何かを蹴飛ばしかねなかった。
いまだ夜の気配を残した道では、街灯や店の明かりばかりが頼りだ。人気もなく静まりかえっているため、ちょっとした物音もすぐ耳につくので気をつけたい。
不意に風が吹き抜け、ペットボトルらしき物の転がる音がした。安物の上着では寒さがやけに身に凍みて、青葉は首をすくめる。
大通りとは違って、建物と建物の間を擦り抜けていく風は強い。目を細めながら、彼は梅花の方へと一瞥をくれた。
「お前、飛ばされるなよ」
路面の先を見つめていた梅花は、つと顔を上げた。後ろで一本に結わえられた黒髪が、風に煽られて揺れている。肩に力が入って見えるのは寒さのためか。それでもほとんど変わらぬ無表情のままで、彼女はわずかに頭を傾けた。
「いくらなんでも飛ばされないわよ」
軽そうに見えるという自覚はあるらしい。実際の体重など青葉は知らないが、梅花は小柄だ。身長自体はこの無世界ではさほど小さい方でもないが、どうしても華奢に映る。いざ戦いとなったら簡単に折れてしまいそうだった。
そんなことを考えると、つい昨日のことが思い出される。前へと向き直った彼は顔をしかめた。
「今さらだけど、本当にアサキたち連れてこなくてもよかったのか?」
「戦闘するつもりじゃないんだから、人数がいても邪魔なだけでしょう。話もややこしくなりかねないし」
淡々と答える梅花の声に、感情は滲み出ていない。青葉は曖昧に頷いた。
邪魔だのややこしくなるなどと冷たい言い様だが、無理に早朝に引き連れていくことはないという意図なのだろう。アサキはともかくとして残りの二人は朝が弱い。昨日も辛そうだった。
とはいえこの一件に関しては彼らも気にしていたのだから、連れてきてもよかったと思うのが青葉の意見だ。
仲間が突然『神技隊』に襲われて気にするなというのが無理な話だろう。戦う予定はないといっても、きっと心配している。
「あー何でまた自分を悪く見せる言い方をするかな。だからサイゾウが――」
「いた」
青葉の文句を、梅花の囁きが遮った。彼にもようやく聞こえるといった程度の声だった。仲間たちから現実の問題へと思考を引き戻した彼は、路地の先に三人の男女が現れたことを確認する。
曲がり角から先に顔を出したのは、昨日もいたミツバという少年だ。いや、青年か。この薄闇の中でも、彼の目映い金髪は目につく。
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