トイレのお供にぜひこの小説を

桃太柚

今日も快晴

 男は生まれつき目が見えなかった。

「今日は快晴だよ」

「それはいい。さぞかし綺麗なのだろう」

「三十メートルくらい先にレンガ造りの花壇あって、膝下くらいの。花は枯れて、横たわってるけど周りにたくさんの鳥さんがいるよ」

「それは可愛いだろう。声が聞こえるよ。綺麗な鳴き声だね」

 男は目が見えないことを幼い時は悔やんでいたが、大人になった今では、もうそんな感情は薄れてしまっていた。それに目が悪いおかげと言うのは少し的外れな気はするが、かかりつけの病院で彼女と出会えたのは不幸中の幸いだ。

「それにしても今日も少し肌寒いね」

「そうね」少し空いてから「もう秋だからね」と彼女が言った。

「秋か」男はポツリと呟いた。昔彼女から聞いた「秋」というものを頭の中に描こうとしたが上手くいかなかった。「少し喉が渇いた。何か飲み物を持ってないかい?」

「飲み物ね。近くで買ってくるわ。少し待っていて」

 彼女はそう言うと、足早に何処かへ歩きだした。

 悪魔が現れたのはそれからすぐの事だった。

「俺は悪魔だ」と悪魔は短く言って、男の隣に座った。

「悪魔さんですか。それはそれは珍しい。どんな顔をしているのか見てみたいものですね」

 男は彼女から聞いた「悪魔」を頭に浮かべていた。容姿はひどく恐ろしいものだと聞いている。

「見た目はお前ら人間と変わらない」

「そうなんですか。話に聞いていたことと違いますね。でも、まあ、私には『人間』というものもどんなものか知らないのですが」

 悪魔は何も言わなかった。しかし男には質問したいことがあった。彼女から聞いた悪魔の特徴の一つ。

「ところで、今日はどうしてここに? もしかして私の魂でも取りにきたんです?」

「魂? そんなものいらない」

「あ、そうなのですか。それもまた話と違いますね」

「魂などいらない。俺は不幸を奪いにきたんだ」

「不幸? それはどういう意味です?」

 悪魔はその問いには答えてくれなかった。

「それよりも」悪魔の声が少し早口になったような気がする。「お前は目が見えるようになりたいと思わないか?」

「そうですね」この質問はよく耳にする。だから模範解答はもう出来ている。俺は言った。「あまり思いません。と言うと、嘘になりますかね。もちろん見えるに越したことはありませんが、このままでも充分幸せですよ」

「それは、治せるなら治したいと思ってる、と取っていいのか?」

「まあ、そうですね。はい、治したいですね」

「なら、俺が治してやる」

 悪魔はそう言うと、男の目元に手をやった。小さな声で「俺が手を離した、一分後に目を開けろ。世界を見せてやる」と言った。男が何かを言おうとしたが、その前に手は離され、悪魔であろう足音が遠ざかるのが聞こえた。

 男は半信半疑であったが言われた通りに目を瞑っていた。そして心の中で六十秒ぴったしを数え終わり、ゆっくりと目元に力を入れた。

 初めて使う部位の筋肉は悲鳴をあげるように痙攣する。次第に開かずの扉の瞼が開き、光が薄っすらと入り込んでくる。空間というものがどんどん広がっていく。入ってくるのが光から次第に色に変わっていく。

「買ってきたよ。水で良かったかな」

 男の頬を一滴の涙が伝う。その涙は冷たかった。

 二十メートル先には膝下くらいの、所々が欠けている「レンガ造りの花壇」があった。そして僕が、いや、僕と見た目が同じの「花」が横たわっている。周りにはそれを突くように群がる「鳥」が綺麗な声で鳴いていた。

 少し上を向けば、薄暗い、今まで男が見続けていた何もないあの「黒」が広がっている「快晴」が見えた。

「ごめんね。遅かったかな? 近くになくてね」気づくと目の前に僕と、それにあの先に横たわってる花と見た目が同じ彼女が立っていた。

「なあ」男は声を絞り出す。「今日は快晴か?」

「さっきも言ったでしょ」彼女は一度上を仰ぎ、元気な声で言った。「今日も快晴よ」

 男は曖昧に頷き返し、目が見えない素ぶりで彼女からペットボトルを受け取り、中身の水を喉に流し込んだ。

「それはいい。さぞかし綺麗なのだろう」

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