第3章「繰り返す今日(2)」




八月に入って机の上に積み上げた課題の山に苛まれていた。プリントに印刷された課題一覧を睨みつけ、俺は唸り声を上げる。その隣で、すでに課題を終わらせた薫が床に寝転がりながら本を読んでいた。


「そんなに溜め込んでたらすぐには終わらないよ?」


 俺を横目に見て告げる薫。その口元にはなぜか笑みが浮かんでいる。


「ねえ。今日は課題なんてやらないで、一緒にどこか行こうよ」


 本を閉じると薫は身体を起こし俺にくっついてきた。俺は持っていたプリントを机に置き、薫の身体を支えながら床に寝転がった。


「じゃあどうする?」

「どうしよっか」


 言い出しっぺの薫に聞くと俺の上で顔に影を作りながら真顔で答えた。


「ねえ」


 上から声が降ってきた。


「ん?」


 その声に俺が反応する。


「花火見た砂浜に行きたい」

「いいよ」


 淡々と告げる薫の瞳を見て、深く考えずに俺は答えた。すると微かに目を細め、薫は上体を起こした。


「ほら。行こう」


 俺の手を取り薫が引っ張り起こす。向かい合った薫は小さく笑みを浮かべていた。



     *



 家を出ると眩しい太陽が容赦なく照りつけてくる。その中を俺たちは砂浜へと向かった。

 日差しが強くて反射的に目を細めてしまう。薫と繋いだ手にはじわじわと汗が滲み、べたついてくる。けれどお互いその手を解こうとはせず、握ったままだ。

 コンクリートの道に日差しが照りつけ景色が揺れる。額からも汗が伝い、俺は空いている方の手で拭った。横にいる薫を見ても汗が流れたりはしていなくて、気にしていないようなとても涼しい顔をして正面を向いていた。


「暑いね」


 突然薫が口を開く。「夏だからな」と返せば薫は小さく頷いて海を眺めた。


「その後は秋」

「秋は紅葉が綺麗だから、紅葉狩りもいいんじゃない?」

「そうね。綺麗で素敵だと思う」

「冬はそうだな。寒いからどこにも行かず引きこもるとか」

「確かに外に出たら寒いかもしれないわね」

「春は花見だな。二人で行こう」

「そうね……」


 不意に会話が途切れる。薫は揺れる横髪を耳にかけた。下ろしている後ろ髪は風でなびいている。その横顔を見て、俺は薫の視線を辿った。確かに海を眺めているように見えた薫は、どちらかというと空と海の境目を見ているよう。


「薫?」


 名前を呼ぶと素直に俺の方へと振り返る。「何?」と尋ねる薫に俺は次の言葉を用意していなくて言葉を詰まらせた。


「どうしたの?」


 不思議に思ったのか心配したのか、それとも両方なのか。薫は俺の目を見て首を傾げた。


「あ、いや、何でもない。ごめん」


 俺が答えれば薫は少し不満げに口を結び、けれど何も聞かずまた正面を見た。



     *



 花火大会の日と変わらず、砂浜には人がいなかった。そもそもこの炎天下、町を歩く人はそこまでいない。時折自転車に乗った子供が数人固まって走っていくくらいだ。大人なんてみんな家に閉じこもっている。

 脱いだサンダルを両手に持ち、俺の前を歩く薫。海から吹く潮のにおいを乗せた風でワンピースの裾がひるがえり、白い足が覗く。


「ねえ、海の中ってどんな世界なのかな」


 背後を歩く俺に、薫は海に顔を向けて聞いてくる。俺は「どうだろう」と曖昧に答え、同じように海を見る。頭上に昇る太陽が光を降らせ、それが反射して海面がキラキラと輝いていた。


「なら、一緒に調べてみない?」


 歩みを止め、振り返る薫。少し遅れて歩みを止めた俺が「どうやって?」と聞けば自信ありげに「もぐって」と返ってくる。

 薫は両手に持っていたサンダルを片手にまとめて持ち、俺の元へ駆け寄ってきた。そして空いている手で俺の手を取るとそのまま波打ち際へと引っ張る。


「待って薫、靴脱ぐから」


 俺は靴を脱ぐと薫にされるがまま、海へと踏み込んだ。

 冷たい海水が足を撫でる。それは夏のこの暑い時間だからこそ気持ちがよく、涼しくなったような気になれた。が、そこでふと思う。


「ん、薫。このままもぐるの?」

「そうだよ。ほら行くよ」


 薫は俺に待ったを言わせず腕を掴みどんどんと進んでいく。服は濡れて、すでに腰まで浸かっていた。


「なあ薫、危なくないか?」


 少し前を歩く薫に俺は背後から声をかける。けれどすぐに振り向いてはくれなかった。

 やっと振り返ったと思えば薫は目に涙を浮かべていて俺は驚いた。そんな俺を見て薫は目を細める。


「万里、ごめん」


 消え入りそうな薫の声がそんな言葉を告げるのとほぼ同時に、俺の身体は前方へと傾いていた。間の前には薫がいて、薫も同じように海面を背にして倒れていった。

 大きな水音が俺たちを包む。すでに息のできない水中では足をつけようにも底がなく、俺はもがくことしかできなかった。

 前にもこんなことがあったような気がする。いつだっただろうか。

 そんなことを思いながら意識が朦朧もうろうとしてくる。俺の手に誰かの手が絡んだ。その手は俺を離すまいと、しっかりと繋いでいた。

 苦しくなった俺は思わず酸素を求めて口を開く。けれどそれで入ってきたのはしょっぱい水だけだった。





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