第2章「夢でも現実でもない世界(2)」




 隣でりんご飴を舐める薫。俺は目のやり場に困り、人の行き交う通路を眺めた。


「花火、どこで見る?」


 尋ねられ、渋々薫の方へと視線を向ける。赤い舌を這わせて飴を食べていたと思ったらいつの間にか口元から離れ、薫は俺を見上げていた。


「あー。海辺はどう? 堤防のとこ。あそこなら花火が綺麗に見えるから」

「いいよ。でも人多くない?」

「全然。この辺の人は基本行かないから」

「そっか」


 頷くと薫はまたりんご飴を食べ始める。外にかかっていた飴が薄くなったのか、薫は思いっきり丸いりんごにかぶりついた。小さくパキッと飴の割れる音が聞こえてから、シャリっと実の削られる音がした。

 頬を微かに膨らませ、りんごを頬張る薫を見ていたらその視線に気づいたのかこちらを見た。


「食べる?」


 迷いなく一口かじられたりんご飴が差し出される。


「はっ、えっ、いやいや。付き合ってもないのにそんなことっ」


 俺が半歩身を引きながら言うのも聞かず、薫は「ん」とりんご飴を突き出した。引き下がりそうもない薫に俺は諦め、突き出されているりんご飴のまだ丸い部分にかぶりついた。

 りんごの刺してある割り箸を支えるために手を伸ばす。と、薫の手に当たった。目を見開きたじろぐ俺を見て薫は笑みを浮かべる。


「おいしい?」


 軽く首を傾げる薫と目を合わせ、りんご飴から顔を離した俺は首を縦に振った。

 残りを食べ終えると薫は俺の手を取って歩き出す。花火の打ち上げ時間が近づいたためかさっきよりも人の量が増している。その間をやはり寄り添うような距離で俺たちは歩いた。

 一通り回り、そろそろ花火を見るための砂浜へ移動しようと思っていると唐突に薫が手を引いた。


「ねえ。金魚すくいしたい」


 振り返った俺の目を見て今日一番瞳を輝かせる薫。頷くと薫は俺の手を握ったまま小走りを始めた。

「いらっしゃい」と、気前のよさそうなおじさんがいる屋台へと駆け寄ると薫は俺の手を離し、青色のプラスチックでできた水槽の前にしゃがみ込んだ。小銭を取り出しおじさんにそれを渡す。代わりにポイをもらうなり、中で泳ぐ金魚を見つめた。その表情は珍しく真剣だ。

 俺も薫の隣にしゃがみ込み、金魚を眺める。

 俺と薫の顔が水面に映り込む。


「綺麗な子」

「え?」

「綺麗な子が欲しい」


 ポイを構え、金魚の動きを目で追う薫が呟くように告げた。俺は目だけを動かし視界の端に薫を見ると、もう一度水槽を覗いた。目の前を自由に泳ぐ朱と白の入り混じった色をした金魚が目に入る。


「これ。この金魚は?」


 俺はその金魚を指さして薫に言う。薫は俺の指が向くところを見て口を結んだ。

 気に入らなかったのかと思ってみていると薫はポイを握りしめ、静かに水の中へと沈める。ゆっくりと金魚に近づけ、薫は勢いよくポイを上げた。しかし金魚はすくえず、更にポイの和紙まで破れている。

 隣を見れば薫は不服そうに頬を膨らませ、ポイにできた穴を見つめている。そして


「おじさん、もう一回」


 と小銭を取り出し、新しいポイをもらっていた。

 もう一度水の中へとポイを沈める。ゆっくりと金魚に近づけ薫はまた勢いよくすくい上げた。案の定、水中から出てきたポイは大きく破れていた。

 薫はポイを見つめ悔しそうにしていた。肩を落とすその姿に俺は思わず小銭をおじさんに渡していた。

 受け取ったポイをゆっくり水の中に浸していく。少し斜めに入れたポイをそのまま横移動で金魚の下へと滑り込ませると静かに浮上させ、僅かに角度をつけて滑らせるように水中から出した。そのまま器に放り込む。


「万里、その子」


 おじさんに金魚袋へ入れてもらうと隣で薫が呟いた。袋を受け取った俺は薫を見てにっこりと笑みを浮かべてからそれを薫に差し出した。


「えっ?」

「やるよ。欲しかったんだろ」

 俺の顔と金魚を交互に見やった薫は黙り込んだ。沈黙が俺の不安をあおる。口内に溜まった唾を、音が聞こえそうなほど大きく飲み込んだ。

 薫の下ろしていた手が迷うように俺の方へと伸ばされる。袋の紐を持つ手に上からそっと薫の手が触れた。


「ありがとう」


 初めて聞いたかもしれない。普段こんな言葉をほとんど言わない薫から直接聞くとは思わなかった。

 本人も普段から言わないだけあって慣れていないらしく、俺とは目を合わせずに少し俯きぎみだった。恥ずかしいのだろうか。その頬は少しだけ赤く染まっていた。

 薫が紐を掴み、それを確認した俺は掴んでいた手を離した。


「そろそろ行こ」

「うん……」


 俺は薫の金魚袋を持った手とは逆の手を取り、立ち上がった。



     *



 神社を出て坂を下る。海に沿って通る大きな道を、俺たちは手を繋いだまま花火の見えるところまで歩いた。

 腰の高さほどに突き出す堤防に座ると薫は下駄を脱いだ。手首を金魚袋の紐に通し、コンクリートでできた壁を掴む。まだ上がらぬ花火を待って、薫は遠くを見るような目でオレンジ色に染まった海を眺めた。


「金魚って、いつになったら自由になれるのかな」


 肩に顔を近づけるように首を傾げ、薫はぽつりと言葉を零す。俺は薫を見つめ、口中の空気を飲み込んだ。


「何かあった?」


 俺は薫の横顔に尋ねた。今日の薫はいつもと何かが違う。けれど薫は俺を見ても何か言うことはせず、どこか苦々しく微笑むだけだった。そしてまた海を眺めると地面にも砂浜にもついていない足を小さくばたつかせた。


「あのさ」

「何?」

「俺、好きなんだ」

「何が?」

「お前のこと」


 微笑んで聞いていた薫が最後の一言で固まった。揺れていた足も止まり、瞳も大きく見開いている。


「だから、お前のこと助けてやりたい」


 俺は薫を見て真剣に話した。薫は一度瞬きをするとふっと息を吐くように笑った。


「なら私の願い、何でも聞いてくれる?」


 しっかりと見つめてくる薫に、俺は力を込めて首を縦に振った。薫が微笑む。そして堤防から砂浜へと降り、俺を手招きする。薫同様、荷物は置いたままで、俺も靴を脱ぎ、裸足になって砂浜へ降りた。金魚は籠カバンと共に堤防にある。

 俺の手を取り、薫は波打ち際へと向かう。


「薫?」


 薫の行動を疑問に思い、俺は名前を呼ぶ。


「私のこと、自由にしてよ」


 薫は振り返らなかった。波の寄せるところまできた薫はやっと振り返り、小さく微笑む。


「大好きだよ、万里」


 その言葉に唖然とする俺の手を引いて薫はそのまま海に入る。


「か、おる……? 薫? 何するつもりなんだ?」


 俺はされるがまま海へと入る。服が徐々に濡れていく。そこがどんどん深くなっていく。

 突然、薫が目の前から消えた。それと同時に俺は水中へと飲み込まれる。反射的に目を閉じた。心中。そんな言葉が頭を過る。

 何も変わってない。あの時と結末は何も変わってない。俺は、薫と生きていたかったのに。





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