Episode3: 月面オルゴール
「じゃあな、そういうことだから」
そう言い残して、シュウはアスラの手を引いて教室を出ていった。取り残された俺はひとり、ため息をつく。呼吸が整ってきたことを確認し、改めてシュウの主張を再考してみた。
銀河審判。地球上で結ばれる異性同士の組み合わせが事前に決められるという、絶対的な命令。シュウはその銀河審判によって指定された相手がアスラであると言い切った。そして、アスラもその事実を受け入れ、呑み込んでいた。
俺だけが知らなかったのか? 急に得体のしれない不安に襲われる。みんなにとってこの銀河審判のシステムは既知の事実なのか? そんなはずはない。なぜなら、そんな話これまで一度も聞いたこともなかったし、噂でも耳にしたことのないものだったからだ。
だとしたら、あの二人はどうやってその真実に辿り着いたんだ? 誰か銀河審判に詳しい仲介人(ブローカー)がいるのだろうか。考えれば考えるほど、俺の中でその謎は深まるばかりだった。
ボロボロに皺と汚れのついてしまった制服のまま、俺は教室を出て、学校の外へ出た。
校門から一歩目を踏み出すと、目の前にコハクがいた。
銀白色の背中までかかる長髪を風に揺らせながら、ポーカーフェイス面で腕組をし、俺の真正面に立っていた。
「コハク……? 何でコハクがここに?」俺は驚いて、思わず一歩退いた。
コハクは一息ついてから、俺に近づいてきた。
「花火の途中で、コウキがここへ女の子と一緒に向かっていくのを見たの。お盛んなことね」
「いや、別にそんなんじゃねえよ。……ただの元カノだ」
「で? そのやけに汚れた制服はなんなの?」
「おう……これは、まあ。階段で転んだんだ」
「ふうん……。コウキは嘘が下手くそだね」
「え?」一瞬、コハクは先ほどまでの教室における一部始終をすべて目撃していたのではないか、という考えが浮かんできた。だが、そこまでするような娘には見えないので、俺は慌ててその考えを打ち消した。
「まあいいや。用事が済んだのなら、今度はあたしにかまってよ」
コハクはとことこと歩き出し、少し嫉妬しているようだった。その言動に少しだけ安心した俺は彼女に付き添うことにした。
学校よりもさらに奥へ進むと、だだっ広い森がある。その森を通り過ぎ、俺とコハクが辿り着いた場所は、大きな湖だった。
風が少し吹いているため、湖面が微かに波を打っている。加えて、煌々と輝く満月の明かりを映し出し、幻想的であると同時にどこか悲劇的な雰囲気を創り出している。
岸にちょこんとコハクが座りこんだので、俺はその隣に胡坐をかいて腰を下ろした。
「ねえ、コウキはさ、常識に縛られやすいひと?」
不意にコハクはそんなことを口にした。
「俺が? 常識に?」
「そう。世の中の人間には二種類しかないの。常識に縛られてがんじがらめになってしまうひとと、その常識をひっくり返して革命的に生きる人と。コウキはどっち?」
「そりゃあ、俺は別に常識をひっくり返すとか考えてないし。大抵は、世間一般その他大勢におさまるのかもなあ」
「コウキはそっち側かあ。あたしは後者だよ、生まれた時から。例えばほら、今から起きることみたいに」
コハクは湖面にそっと指先で触れて、目を閉じて何かを祈るような仕草をした。すると、みるみるうちに湖面が凍り付きはじめ、終いにはその全体がアイスリンクのような状態に様変わりし、目の前に満月のミニチュアが誕生したようだった。
「コハク……お前、一体何者なんだ……?」
コハクはふふっと悪戯に笑みを浮かべると、その氷面の中央めがけて走り出し、まるでフィギュアスケートのようにゆっくりと踊り始めた。両手を広げ、回転をし、聞こえないリズムに合わせるかのように実に優雅に踊っている。そこはまさに彼女にとっての独演場だった。その光景を見て、俺は夢でも見ているのかと思い、頬を思い切りつねってみるが確かな痛みがあるのだった。
「コウキは今のあたしを見ても、それでも常識を信じるの?」
叫ぶようにして、コハクが問いかけてきた。真夏の夜に見る、アイスリンク。矛盾だらけの空間の中でひとりの女の子が舞っている。不思議と悪い心地はしなかった。むしろ、包容力に似た巨大な温もりを俺は感じていた。そう言えば、俺はコハクのことをよく知らない。ある日突然俺の目の前に現れて、俺はそれを受け入れた。アスラと分かれたばかりの時期とちょうど重なるタイミングだったからかもしれない。それから月日が経って、俺はコハクに惹かれ始めていたのだ。
目まぐるしく変化していく日常そのものが、最早常識の範疇から外れているようにも思えた。だとしたら一体、常識とはどこに姿を潜めているのだろうか。
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