Episode2: 破られた世界で

 アスラが来たかった場所は真夜中の高校だった。花火が上がっている最中の砂浜から近い事もあり、その響きや人々の歓声がうっすらと耳元へ届けられる。

「教室に行こ」

 アスラは右手で旧式の懐中電灯を持ち、左手でそっと俺の手を引っ張り、誘導する。下駄箱が並ぶ玄関や静寂が漂う廊下を抜け、月明かりが差し込む階段をアスラと共に上る。

 教室に辿り着いた。当然真っ暗で人気は無く、月光が多少差し込む程度だった。アスラは、教卓の上に懐中電灯を立てた。そして窓を開け、外の風を室内に迎え入れた。薄黄色のカーテンがゆっくりと弧を描くようにして揺れる。

「アスラ、なんでここに?」思い切って、聞いてみた。

「ねえ、コウキ。一緒に絵描こうよ」

 そう言ってアスラは黒板を指差し、白チョークを手に取った。

「黒板に描くのか?」

「そうだよ」

 アスラはそれきり黙って、大きなアゲハチョウの絵を描き始めた。アスラは美術部であるという事実を思い出した俺は、その黒板アートに思わず見惚れ、釘づけになる。

 そのアゲハチョウは黒板に溶け込んでいないようにも見えた。まるで最初からその真緑の沼のなかにひっそりと姿を隠していたかのような、そんな贅沢な現れ方をしてみせた。

 つられて、俺も白チョークを手にする。アスラがアゲハチョウを書いたので、俺は大輪の華を描くことにする。途中まで描いて、改めて自分の画力もとい絵心の無さを痛感する。

 アスラがツッコむ。「何ていう花?」

「……まあ、何というか。自分でもわかんねえや」

「何それ」

 アスラはからかうように笑い、また黒板アートに意識を戻す。

 しばらく時が過ぎていった。はじめはすぐに砂浜へ戻るつもりだったが、黒板アートに熱中するあまり、俺もアスラもすっかり時間を忘れていた。それどころか、俺自身はこの瞬間が止まらずに永遠と続けばいい、とさえ感じていた。

 アスラとは一年前に別れたばかりだ。それなのに、彼女は今でも俺に対して、当時と全く変わらない態度で接してくれるのだった。まるで何事も起きなかったかのように。俺は、そのことにどこかほっとしていた。以前は俺が関わったことで、彼女が変わってしまうのではないかと心配していた。けれど、それが杞憂でよかった。

「おい、アスラ!」突如ガラガラと戸が開いた。

「……シュウ」

 アスラは驚き、目を見開いた。

「おまっ……誰なんだよ?」俺は突然の事態が上手く呑み込めず、呆気にとられる。

「今、お前って言おうとしただろ。初対面の奴に向かってそんなこと言うか、普通?」

 そこに立っていたのは、俺たちと同じくらいの年齢の少年だった。白いTシャツにカーキ色のジャケットを腕まくりされた状態で羽織っており、下は紺のジーンズ、という制服姿の俺とは対照的なラフな格好だった。

「アスラ、ここでコイツと何してたんだよ」

「勘違いしないで、シュウ。これは、違うの」

 アスラはシュウの気迫に半ば圧倒され、声に不安がにじみ出てしまっていた。

「何が違ぇんだよ。そいつ、こないだ話してた元カレだろ? 名前なんつったっけ……興味もねえから忘れちまったわ」

「コウキ、だよ」俺は怯むことなく、シュウに相対する。

「シュウだっけ。今日のことなら、素直に謝るよ。嫉妬されちまったんだったら、俺が悪い。でも、これだけは勘違いしないでほしい。俺は別にアスラとの関係を戻そうとしたわけじゃ……」

「冗談じゃねえよ、マジで。アスラがなかな電話に出ねえから学校に来てみりゃあ、このザマ。……ホントになんなんだよ、お前!」

 俺はシュウに思い切り殴られた。そのまま後ろの机の群れに突っ込み、机と椅子が悲鳴を上げる音が教室中に響く。

 なんとか上体を起こして、シュウの眼を見てみる。すると、彼は獲物を窮地へと追い詰めた獣のような細い目つきをしていた。それを見た瞬間、俺の中の何か得体のしれないものが破裂した感覚があった。

「……お前、ひょっとしてアスラのこと、自分の所有物みたいに錯覚してんだろ?」

 俺は怒りで身体中が震えていた。シュウは、自分自身の欲望を満たすためだけに、アスラに対して執着している。でもきっと、それは彼のエゴが引き起こしているだけだ。そんな濁った解釈でアスラの自由を奪うというのなら、そんなこと俺が許しちゃおかない。

「シュウ、お前みたいな奴にアスラを任しちゃおけない。このまま放っといたら、アスラがあまりにも不憫だ。束縛欲があるってのは一概に悪いってわけじゃねえだろうけど、お前の場合は過剰だよ」

「……コウキ」アスラは遠目に、机と椅子の海に溺れてしまった俺を見つめる。うっすらと涙のようなものが伺える。何かを言いたげな様子だった。

「ごめんね、コウキ。あたしのことを庇ってくれるのは嬉しんだけど……シュウはね、あたしにとって一番大切な存在なの」

 アスラがそう、一語一語を噛みしめるように告げた。俺はその発言の意図を汲み取ることができず、狼狽する。

 そんな俺の様子を察してか、シュウが倒れる俺の目の前に腕を組み、見下すような恰好をとった。

「いいか、コウキ。お前に大事なことをひとつ教えてやる。俺がアスラの傍にいる理由、それは何も恋愛感情だけに限ったことじゃない。それ以外に、もうひとつ俺とアスラが結ぶ付くべき事情があるんだ」

 シュウは一呼吸おいて、一度しか言わないと言わんばかりの重たい空気をその表情に纏わせて、話を続ける。

「俺は……この地球よりも遥か遠く離れた銀河系に命令され、アスラを一生かけて守る義務を背負わされたただひとりの人間なんだ。いわゆる、銀河審判ってやつさ。その命令通りに、俺はアスラと同じ年に生まれ、同じように時を重ね成長し、ようやく巡り合うことが出来た。頭のおかしい奴って思うだろうけど、これは真実なんだ。だから、コウキ。お前がアスラと結ばれることなんかもう無いんだ。この世界で引き合う異性同士の組み分けは、昔から銀河審判で決まってるんだ。まあ、そんなこと教科書にも書いてないから知らないとは思うけどな」

 俺の全身から力が抜けた。それはあまりにも衝撃的だった。コハクやアスラから病気のことを打ち明けられた以上に。頭の中で脳が一回転したんじゃないかと思えるくらい、俺の内側のすべてというすべてをいとも簡単にひっくり返したのだった。

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