シンデレラが灰になるまで 14

 熱い。ゼロは久々にその感覚を感じていた。酷い臭いを立てて燃え落ちた相手が、ブスブスと音を立てながら焦げ付き床に転がっている。その躯を包み、天へと還そうとするかのように炎が赤く噴き上げる。

 ぱちっ、ぱちっ、と耳障りな破裂音。自分の髪を彩る実が爆ぜる音。ちりちりと全身を蝕む、緩慢とした熱と痛み。

 限界を超えたこの身が、やっと世界の理に膝を屈し、今灰になって燃え尽きようとしている。

 少しだけ、ほっとしていた。自分が化け物でも、ましてや亡霊でもなく、ただ少し燃えにくいだけのプランツだったことに。

「俺も、ちゃんと燃えるんだな」

 何度エルザに忠告されても実感が持てなかったその言葉の意味を、やっと噛み締める。

 視界の端に映る黒い枝葉の先に、マッチに灯る明りのように小さな火が発生した。じりじりとした痛みに袖を持ち上げれば、指の先にも同じように火が灯っている。服に擦り付けて消そうとしたが、指のほうが耐えられずに焼け落ちた。

 激痛。思わず呻く。幸い傷口は炎に焼かれ焦げ付き、常緑血(エヴァーグリーン)が流れ出す前に塞がった。瞬く間に指の本数が減っていく。痛みに手を抑えると、手品のように手首ごと落ちた。

 神経を駆け巡る痛みに火の海の中で膝を突き、襲い来る痛みに背を丸め、ただただ堪える。目の前で自分の掌が炎に食い尽くされて、その輪郭を崩し、黒ずんだ灰となっていく。次は肘から先が焼け落ちるのだろうか。火の海の中下ろした膝からも煙が上がり、耐火素材を通しても遮ぎきれない熱が自分の膝関節をぐずぐずと溶かしていく。

 熱い。痛い。もう立ち上がることもできない。

 こんどこそ終わりだ。

 終わり。終わりだ。

 そうか、

 やっと、

 そう、やっと終わる。

 

 これが、ゼロの最後に見る風景。

 

 なまじ火に強いせいで端からその身体を炎の爪に削り取られ、激痛に意識を失うこともできず自分の身体が溶かされ、燃え落ち、灰となる様をまざまざと見続けさせられる。

「これが……終わりか……」

 終わりの風景。あの日炎の中でナナが死んで、ゼロが生まれた時と同じ。

 揺らぐ陽炎の中に、皆の姿が映る。エルザ、リウ、クー、そしてハンナ。みんなゼロが利用して、騙した相手だ。何としても取り返すのだと薔薇へ手を伸ばしたがために、その棘はゼロだけではなく皆をも傷つけた。その罰が、この熱と痛みならば安いぐらいだろう。この死を目前にしての恐怖、後悔、絶望をつけてもまだ足りないくらいだ。

 眼球が焼け付き、視界がぼやけて次第に像を結ばなくなっていく。炎が千切れ飛ぶ様が、薔薇の花弁のようだ。助けられなかった、愛しい人の残響のように散っていく。

 立ち昇る炎を、もう何も映さない赤い瞳でゼロは見上げている。フードがずるりと落ちて、白い顔が露わになる。耳もやられたのか、段々と音が遠くなっていく。痛み以外の感覚が炎によって殺ぎ落とされていく。

 そんな中で、不意にもう聞くはずがない人の声を聞いた。

『       』

 最後に聞こえたその声は、とても都合が良くて。

 都合が良過ぎて。救われた気がして。

 乾いた瞳から、これでもう最後だからと一筋の涙が押し出される。

 零れた涙は、炎に舐められ蒸発した。



 エントランスに入ると、もうそこはもぬけの殻だった。上層での火事だったので、皆階段を使ってとっくに逃げおおせたのだろう。

 火に対して過剰な対策を求められる昨今、従業員も利用客もそれなり日常から受ける訓練や教訓の類を守って行動をしたようだった。大広間で煙を噴出した海鳴館の時とは違ったその様子に拍子抜けしながら、けたたましくブザーが鳴り響く中で非常階段を探す。煙もまだ回ってきてはいないので視界を遮るマスクは首にかけたまま早足でエレベーターの横を通り、リウはエレベータの階層表示が動いていることに気が付いた。誰か乗っているのだろうか?無視しても良かったが目的地は最上階だ。動くのならこれを利用したい。焦れながらエレベーターが到着するのを待つ。

 やっと1の表示と共に扉が開いた。誰が飛び出してくるのかと一瞬身構えたが、其処にあったのはリウの最も大切な、小さな小さな人影だった。

「クー!?」 

 ぺたりと座り込んでいたクーは、リウの姿を確認すると、真っ赤な頬をふくらませて組み付いてきた。

「にぃ!」

「クー!」

 リウは膝を折って小さな身体を抱き締める。どこにも怪我が無いのを確認して、安堵の息をつきクーとそっと離してその顔を見つめる。

「にぃ!ぜろがうそつきなの!」

「え?ああ、まあアイツは嘘つきだけど」

 彼が、いや彼らが嘘をついて自分達を利用していたのはもう先刻承知だ。だがそんな難しいことがまだクーに理解できているとは思えない。

「ぜろね、あとからおりるからさきにくーにおりろっていうの!」

 だから一人でおりてきたのか、良く見るとエレベータの籠の中には大の字に倒れたエレベーターガールの姿があった。これを無視して降りてきたクーの胆力も大したものだ。

「でもね、ぜろうそついてるの!くーにはわかるの!」

 更にクーの頬か真っ赤に染まる。そこでリウは気付いた。決してクーが癇癪を起こしてこんな顔をしているのではないということを。知らない人間が倒れていて怖かったろうに、頑張って下まで降りてきた理由を。

「ぜろは……ぜろはおりてこないのぉ……!くーにうそついたのぉ……」

 我慢の限界を超えて、クーの雪のように白い瞳から一粒の涙が零れた。それを皮切りにぽろぽろと涙を溢しながら、見るものの心を軋ませる泣き顔でクーは嗚咽する。

「にー……ぜろがいなくなっちゃうよぅ……ぜろがぁ……」

 鼻を啜りながら顔を上げるクー。

「ぜろが、きえちゃうよう……!!」

 大粒の雫がほろりと柔らかな頬を滑る。

「…………」

 分かっている、こんな純粋無垢な子供を危険に晒したのは紛れもないゼロだという事を。一歩間違えば、今煙を上げているフロアの中で餌として利用された挙句にクーは燃え死んでいた。 

 助けなくていい。ゼロはそう言った。

 もういいの。エルザはそう言っていた。

 ピンチヒッターだ。そうリウは言った。

 クーを助けるまでの俺は。

 じゃあ、今、俺はクーに向かってなんて答える?

 リウは逡巡の後にごくりと唾を飲み込んで、

「……ああ、あいつも連れて帰らないとな」

 精一杯笑って、リウはクーをそっと廊下に立たせた。覚悟を決めてガスマスクで顔を覆い、黒く大振りなフードをできるだけ深く被り直す。

「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 リウはゼロの居るフロアへ届けとばかりに雄叫びを上げた。

 火など怖くない。

 火など恐れるべきものではない。

 そう思い込もうとリウは咆哮する。

「クー!俺は今までクーとの約束を破った事はあるか!?」

 クーはぐっと嗚咽を飲み込み、涙声で叫ぶ。

「ないの!にーはなんでもかなえてくれる!」

 キラキラと輝く透明な瞳。

 その信頼に、その親愛に、その信仰にも似た感情に。

 一遍の迷いもなく降り注ぐその想いを一心に受けて、リウは自分の心を組み換える。

 本能さえも切り替える。

 クーが自分を信じる限り、リウは燃えないのだと。

 開きっぱなしのエレベーターに乗り込むと、気絶していたエレベーターガールを叩き起こす。

「う……なに?」

「火事だ!起きろ!」

「えっ?ええ?」

「もうここは一階だ、その子を連れてホテルの外に避難しろ!」

 状況を把握していないままのエレベーターガールを籠の外に押し出して、エレベーターの閉ボタンを押す。扉が閉じるまで、食い入るようにクーの顔を見続ける。

 完全に扉が閉じ、エレベーターは静かに上昇する。


 五十五階、扉が開くと同時に熱気が吹き込んできた。

「あっつ……!」

 思わず手で顔を覆う。外気に反応してガスマスクに付属していた酸素がマスク内に供給され始る。

「どこだ、ゼロ――!」

 敷き詰められた毛足の長い絨毯は端から燃え出しまるで炎の柵で出来た吊り橋のようだ。リウは恐怖を振り切ってその不安定な炎の橋を駆け抜ける。スイートルームの中は無残な状況で、調度品や家具の類も黒く焦げ付き、カーテンを伝って天井まで火が届いている。

「ゼロ――――!!」

 必死で叫ぶ。マスクの拡声器で増幅されたリウの声がフロアを響き渡る。闇雲に部屋の戸を開けて中を確認する。開ける部屋によっては手遅れの焼死体が転がっていることもあり、その度にリウは自分が一歩間違えばこうなる事に恐怖する。

「どこにいるんだよ……!」

それでも震える足を叱咤して、ガンガンと痛む頭を叩いて走り回る。

いくつの廊下を曲がり、部屋を開けただろう。


 うえーん。


 耳に届いた小さな声に、リウはその足を止めた。

 ええ――ん。うええ――ん。

 空耳だろうか。燃えさかるごうごうという音に混じって、幼子の泣き声がする。まるで迷子の子供が親を求めて泣いているような。

 リウは名を叫び続けていた自分の口を噤む。

 うえぇぇぇ――――ん。

 やっぱり聞こえる。

 耳を澄ませ声のする方へ足を進める。一際大きな扉の向こうから、その泣き声は響いていた。

 ドアノブを握るとじゅっと音を立てて手袋に熱が伝わる。

恐れるな。力を籠めて扉を開け放つ。

 バックドラフトを身構えたが、酸素の量はこちら側もそう多いわけではなかったので、幸い爆発は起こらなかった。部屋の中は何か燃料でも撒かれていたのだろうか、まさに火の海といった様相で足の踏み場も無い。

「ゼロ―――――!!」

 部屋の中心に一際大きく燃え上がる火柱があった。火元には黒く炭化した塊が床を汚しており、その傍に黒く蠢く何かがいる。身悶えるような動き。

 亡霊のような、死神のような、溺れる魚のような何か。

 うええぇぇぇぇぇん――――

 一際大きく泣き声が響いた。リウは熱に揺らめくその先に目を凝らす。


 炎の向こうに、声を張り上げて泣きじゃくる、黒髪の少年の姿を見た気がした。

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