ゼロカロリーのナナ

遠森 倖

プロローグ

プロローグ その身を焦がすのは

 酷く臭う液体が、頬を滑り落ちた。

 タンクを振り上げる影が視界に映り込み、反射的に目を閉じる。

 びしゃり、と音がして、また一段と服の重みが増した。薄く目を開けて相手を伺う。

 目の前の影は淡々と同じ作業を繰り返している。

 ずっしりと重たそうなタンクが振り下ろされる度に、その口から透明な液体が吐き出され自分を濡らす。ツンと鼻を突く臭いが部屋に充満していく。

粗大ごみを掻き集めて作った、小さな家だった。買った物など殆どない。だからと言って不満は無く、愛着ばかりが此処には積もっていた。

べしゃり。逃避していた思考が引き戻される。

 潰れたカフェから盗んだお気に入りのソファに凭れ掛かって、彼はその影を見上げる。だがその顔を正視できずに、すぐに視線は遠く天井を這った。

「うぅ…………」

 本能から来る恐怖が心を凍らせ、身体を縛る。真の恐怖は、逃走という選択を思考から追い出してしまうらしかった。喉から漏れる、潰れた獣の鳴き声にも似た悲鳴が精神の最期の抗いか。

 振りかけられている液体は何時の間にか全身を浸していた。もう終わりが近い。彼は恐れから目を見開き、その拍子に眼球に液体が触れた。それは刺すように沁みて、反射的に彼の目から涙が零れ落ちる。

それを恐怖によるものと受け取ったのか、目の前の影が肩を揺らす。

思わず懇願していた。

「や……やめ……て……」

 掠れる声。溢れる涙。

 どうして、どうしてこんな事を。

 華奢な影に向かって腕を差し伸ばすが、ずっしりと液体を含んだ袖がそれを邪魔する。

「なんで……こんな」

 問いを遮るように、彼から少し離れた影が手を振った。

 まるで別れを告げるように、緩やかなカーブを描くその軌跡に彼は目を奪われる。

 小さな炎が宿った、たった一本のマッチ。

 

 零れる涙さえ、包む炎で蒸発した。

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