Ride 19
水槽の上で物音がした。床が斜めになり、梨緒が水へ落下する。真理子が壁際にあったドアへ駆けこむが、追えはしなかった。バイクで全力疾走し、乗り捨てて階段を駆け上がる。縁に立ち、梨緒の位置を確認した。向こうからは巨大なサメが接近している。
足がすくんだ。サメが恐いのではない、水が恐いのだ。水泳の授業ですらビート板を使うのに、身長の何倍もの水深がある水槽に跳びこまなくてはいけなかった。
魅希は苦笑する。簡単な損得勘定だ。梨緒が食べられて死ぬぐらいなら自分が溺れ死ぬ方が良かった。躊躇する要素はどこにもない。
頭から跳びこみ、水中へ潜っていく。足を人生で一番バタつかせて彼女に迫った。サメも接近している。距離的に魅希の方が速かった、梨緒を抱きかかえる。されど、問題はそこからだ。逃げるには距離が足らなかった。背を向ければ二人して食されるだろう。
魅希は意識を集中した。海中を悠然と来るサメを見据える。その視界が次第に紫がかってきた。拳にエネルギーを込め、鼻の先を狙い打つ。細かい気泡が立ち、命中した。サメの鼻で破裂が起こり、肉片が飛び散る。ショックが大きかったらしく、尻尾を振って逃げていった。
これで良し。魅希は階段のある方へ泳ぐ。水面に顔を出し、気絶した梨緒を岸に上げた。続いて魅希も出た。梨緒の拘束を解き、肩で背負って階段を下りていく。
下には麗華がいた。なんと真理子を捕獲してくれている。結束バンドで縛っていた。
「でかしたわ、麗華」
「魅希様もお見事ですわ。カナヅチ克服ですの」
克服? そういえばそうだ、水中に潜ったときは沈んだだけだと思っていたが、水面に向かったときはちゃんと泳げていないと梨緒を救えなかった。必死だったせいで実感が湧かない。
床へ寝かせると梨緒が目を覚ました。
「魅希、さん。バカァ……」
彼女が胸に抱きついてくる。魅希はそれを抱き返した。
「どうして来ちゃったの。また危険な目に遭って、私のこと助けちゃって……」
「いつか言ったでしょ、梨緒がもっと強くなるまでアタシが守るって」
梨緒と友達になったあの日、確かにそう言った。あれからずっと魅希はその気持ちでいたのだ。なにがあっても彼女を守る、それが自分に課したことだった。
梨緒が涙ぐむ。
「私、守ってくれなくていいって言った!」
「アタシは別にそれを承諾してないわよ」
「すごい自己中だよ、それ!」
「そうよ、アタシってそういう女なの」
おどけてみせると彼女は泣き崩れた。このコは泣き虫だ。しかし強い。今回のような物理的な困難が訪れない限り、自分の出番はないだろう。だからせめてこうした問題のときぐらいは彼女をサポートしてあげたかった。
床に座る真理子を見下ろす。この女のせいで全身がビショ濡れだ。いくらこれから夏本番といっても風邪を引いてしまいそうだった。
「アンタの持つヤバイデータを全部出したら許してあげなくもないわ。どうする?」
どんな重要な内容でもデジタルデータであれば、せいぜいいくつかのUSBメモリやハードディスクなどに全部収納できるのは機械の苦手な魅希でも知っている。それを外で隠れて待つ兵太に渡せばマスコミに一気に公表できるという寸法だ。
それなのに真理子は呑気に左手内側を見て、次に右手を見た。腕時計で時間を確認した彼女は妖艶に口角を上げる。
「勝ったつもりでいるでしょうけど、私の勝ちね」
「そんなハッタリ、いまさら役に立たないでしょ。それともアンタも変な薬で変身するの?」
彼女がさもおかしそうに高笑いをした。
「私は本物の真理子様ではないわ。時間稼ぎが役目の影武者。いまごろあの方はデータを持って屋上から飛び立つところよ」
なっ!? 絶句する。確かに、ずっと違和感を感じていた。だがそれがなんであるかが分からなかった。いまになって魅希は気づく。つい先程、彼女は左手を見てから右手の腕時計を見た。それは普段、左手に腕時計をつけているからだ。その以前も右手を主に使うような仕草があった。彼女が右利きであるという証拠だ。本物の真理子は、左利きなのだ。どんなに外見や言葉遣い、知識を似せていても生まれつきの癖は直しにくい。それに変に利き腕ではない方を使えば、逆に不審の念を招く。時間稼ぎ程度なら、そこは隠す必要性がないと判断したのだ。
影武者の肩を揺さぶり、激昂する。
「屋上はどっから行くの!? さっさと言わないとサメのエサにするわよ!?」
彼女は余裕ぶり、ドアを指差した。魅希は即座にハイパーシェルにまたがり、エンジンをかける。強靭な車体はいまだ絶好調で、空吹かしすると元気にエンジンが轟いた。
麗華が傍に立つ。
「梨緒さんも助けたことですし、このまま脱出しましょうですわ。いまならまだ追っ手に囲まれず安全に出られますの」
「ダメッ! アイツに逃げられたら、またどこかで同じことが繰り返されるだけよっ!」
言ってのけてからニッと笑む。
「なんてね、ホントはアイツのことが気に食わないのよ。だから痛い目に遭わせたいの」
「それならばワタクシも地獄の果てまでお供しますですわ」
やれやれ、と麗華が肩をすくめる。他にも理由はいくつかあった。これだけのことをしたのだ、警察も急行しているだろう。仮にこの場を逃げ切っても、身元がバレて逮捕されてしまう。そうならないためにもアルマハト製薬に非があるという証拠のデータが必要なのだ。
梨緒には隠れていてもらうことにした。真理子がここに人員を割いていないのは一目瞭然だ。影武者と康徳で時間を確保できると計算したのだろう。おかげで安心して彼女を置いておける。
麗華に一声してアクセルを捻った。ドアを抜け、上へ続く階段を駆けていく。屋上へ通じる扉を蹴り破り、屋外へ出た。
強烈な風が吹いている。回転するプロペラが断続的に空気を震わせた。ヘリコプターはフェンスを越えて遠ざかるところだった。上空に出られては追うのは不可能だ。魅希は愕然とする。もはやフェンスをジャンプしても届かない。間に合わなかった。
ドアが開いたヘリの中に真理子がいる。満面の笑みでこちらへ手を振っていた。魅希の胸の内に悔しさが満ちていく。せめてあと数分早ければ捕まえられたのだ。上手い具合に時間を稼がれた結果だった。真理子の方が一枚上手だったと認めざるを得ない。
「魅希様っ! 諦めるのはまだ早いですわっ!」
なにを思ったのか麗華がフェンスに向かってバイクを走らせる。跳ぶには遠すぎて物理的にムチャがあった。バイクで跳躍し、バイクの上からさらに跳ぶ二段ジャンプでも届かない。
待てよ、と考えたときには魅希も疾走していた。麗華の狙いを汲み取ったものの、不安は拭い切れない。自分はまだしも、彼女が平気でいられるかが心配だった。
それでもやるしかない。麗華はすでにフェンスへ突撃し、それが斜めになるぐらいまで押し倒している。族車に乗ったガイコツ少女が夜空を舞った。当然ながらヘリコプターとの距離の差が大きくて届かない。真理子もバカにしたように嘲笑している。
それはすぐに凍りつくこととなった。麗華の後ろから跳んだ魅希が追いつき、彼女モロとも族車を踏み台にしてジャンプする。その間にも相手は遠ざかった。あと少しで手が届くのに、足らない。魅希はハイパーシェルの赤いタンクを一撫でし、真理子を睨んだ。
シートを蹴って跳び立つ。ヘリの出入り口をくぐり、機内へ転がりこんだ。真理子についていた護衛を一撃で昏倒させる。
絶句する真理子と目が合った。
「アンタも影武者だなんて言わないわよね」
「そうだったら良かったのだけれどね。参ったわ、降参よ」
彼女は両手を上げる。左手が後頭部の編みこまれた髪に潜るのを魅希は見逃さなかった。
即時に手首を押さえつける。こぼれ落ちたのは得体の知れない液体の入った注射器だった。麻酔薬かなにかだろう、油断も隙もない。
だが彼女がそれ以上抵抗することはなかった。神経が抜けているのではないかと疑ってしまうほど力が入っていない。これなら梨緒の方が強そうだ。
「どうやら腕力はアタシの方が圧倒的に上みたいね」
「その通りよ、私は寿命と引き換えに脆弱になっているもの。笑えるでしょう?」
世界を崩壊させかねない大企業の総司令官にしては呆気ないものだったが、一四〇歳と考えれば納得がいく。彼女は彼女なりにリスクを背負って生命を維持していたのだ。
魅希には真理子が液体窒素で凍ったバラのようにもろいモノに感じられた。
彼女を人質にして操縦士に指示し、ヘリコプターを地上へ降ろさせる。
正面玄関前には沢山のパトカーと警察が集結していた。それらを無視して魅希は真っ先に族車の残骸へ駆け寄る。周囲にはバイクパーツに混ざって骨が散らばっていた。
焦燥感に駆られる。できる限りに骨を集めてもうんともすんとも言わない。やはり高度がありすぎたのだろうか。日常では無敵でも限界はどんなことにだってある。五〇階よりも高い位置を落ちるのは彼女の許容を超えていたのだ。あるいは生理のときのように能力が不安定になっていたとも考えられた。
頭部を持ち、暗い眼孔を見つめる。
「嘘でしょ、麗華。いつもみたいに元に戻りなさいよ」
緋劉と夜駒が駆けつけてきた。彼らは、どうしたんだ、と訊いてくる。
魅希は絶望の色を顔に出した。
「麗華が動かないの。アタシの責任よ、アタシが一人でここに乗りこめばこんなことにはならなかった。このコがムチャなことするのは分かってたのにね」
彼女の頭部を抱き締めた。
その様子を見て二人が噴き出す。こんなときにどうしてそんなリアクションができるのかと叱ろうとしたら、電灯に照らされて映った影が奇妙な踊りをしていた。振り返るとハトみたいに首を前後させ、行ったり来たりする麗華がいた。するとこのガイコツはなんなのだろうか。
「骨格模型ですわ」
「ふざけんな、この変態ガイコツッ! 死んだと思ったでしょっ!」
模型を投げつけると彼女の頭がクルクル回った。目が回りますですわ~、とふらついている。まったく人騒がせな少女である。
ふと見るとハイパーシェルが横倒しになっていた。レバーもペダルもタイヤも曲がっている。どんなに丈夫でも無理をさせすぎた。
「ごめんね、シェルちゃん」
呟くと魅希の周りを警察官が包囲する。こうなることは予想していたから驚きはしなかった。
辺りを見て兵太を発見する。警察官の隙間から腕を伸ばしてUSBメモリを三つ渡した。
「頼んだわよ、アンタにかかってるんだからね」
彼は手の中のそれを確認し、ニヤケた。
「これがあれば億万長者も夢じゃないなぁ」
「は? アンタ、なに言ってんの?」
「アルマハト製薬を脅して売りつけるんだよぉ。君はせいぜい臭いメシでも食うんだね。オイラを何度もぶったお返しだ」
コイツ……。悪いのは兵太だというのに何度か痛めつけたのを根に持っていたらしい。
警察官に連行され、USBメモリはすでに取り返せない。裏切られるぐらいならまだ自分で持っていた方がいい。一刻も早く世間に公表したくて彼に託したのが間違いだった。
パトカーの中で魅希は兵太が大笑いするのを見ているしかなかった。
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