Ride 18

 警察は頼りにならなかった。なにを説明しても話半分にしか聞いてくれず、高校生のイタズラとされた。しつこく訴えたら連行されそうになった。もともとダメ元だったが、ここまで当てにならないとはガッカリだ。マスコミも似たような反応だった。

 即刻、ハネウマに召集をかけた。梨緒のことも気になる。かなり大胆な行動だったため、逃がしたのが彼女だとバレて罰せられていてもおかしくない。罰は罰でもあの会社だ、命も無事でいられるか分からなかった。早急に作戦を実行に移す必要があるのだ。

 幸いこちらには元関係者の涼斗がいる。施設の構造やセキュリティの特性、真理子のいそうな場所を図面に起こせた。証拠と成り得る重要なデータのありかは真理子しか知らないらしい。どちらにせよ彼女を一度屈服させないと気が済まなかった。

 アルマハト製薬研究所本部は西の山奥に立てられていた。夜空を貫かんばかりのこの場に似つかわしくないビルが鎮座している。ここら一帯は私有地だそうだ。その中で起きたことは外部には漏れにくい。危険は覚悟の上だった。

 魅希達は近くの茂みに潜んでいる。外壁の正面出入り口にはゲートがあり、両サイドに監視台があった。それぞれ一人ずつ見張りがついている。

 時計を見ると深夜だ、そろそろである。監視台に立つ警備員がアクビをした。

 魅希は振り返って肯く。守賀緋劉がオールバックにした髪をクシで撫でつけた。麗華はガイコツ頭に日の丸のハチマキを巻いている。三段シートの後ろには涼斗が乗っていた。夜駒も準備万端らしく、グーサインを送る。

 一斉にエンジンをかけ、茂みを跳び出た。人間にはバイオリズムがある。夜勤にどんなに慣れたと思っても能力は低下しているのだ。さらに深夜で交代前の警備員は疲労し、油断もしている。涼斗の情報通り、彼らの反応は遅れた。

 四台のバイクでゲートを突破する。

 ひゃっほうっ、と麗華と夜駒がテンションを上げた。駆けつけた警備員を次々に弾き飛ばしていく。舗装された道は真っ直ぐに伸びていた。建物の正面玄関の手前はロータリー交差点のようになっている。魅希と緋劉は左へ、麗華と夜駒は右へ周った。

 五人が待ち受ける。轢く寸前で横滑り、後輪で三人を吹っ飛ばした。残りは緋劉がバットを振って倒す。麗華側も難なく突破していた。

 正面玄関付近に来ると建物から数え切れないほどの警備員が出現する。口笛を吹き、魅希は彼らを煽った。ピンクの着物ドレスに身を包んだ麗華はシートに立って腰を振ったりタコみたいに手を動かしたり挑発的な踊りをする。

 魅希と麗華の二組は交差し、道を逸れて建物の裏側へ周っていった。警備員の大群が押し寄せてくる。五〇人はいそうだ。麗華側と合わせたら一〇〇人程度だろうか。

 昨夜脱した裏口の壁にまで来る。四台は停車し、前方をヘッドライトで照らした。まぶしそうにする追っ手が一団となってにじり寄ってくる。

 魅希はクラクションを鳴らした。続いて他の三台も鳴らす。甲高い音色が山奥に鳴り響いた。警備員は困惑し、互いに目を合わせている。

 裏口のドアが勢い良く開いた。轟音を掻き立てて乱入したのはバイクの波である。土石流の如く雪崩れこんできた。そのどれもがいわゆる族車である。波は警備員を丸呑みにしていった。

 魅希らの傍に元デビルハックの梶尾鷹道が止まる。彼は緋劉と力強くハイタッチした。

「よく来てくれたな、鷹道」

「緋劉さんの召集かかったら来ないわけないッスよ」

 作戦成功だった。数の暴力には数で返すしかない。これでだいぶ施設内の警備は手薄になったはずである。あとは正面突破をするのみだ。

「それにしてもよく集まったな。チームは解散したんだろ?」

「タイマンでケジメつけたんスよ。文句ある奴はかかってこい、て。大半はバカらしくなったみたいで抜けましたけど、タイマン張った奴はわりと残ってくれて……」

 金髪をオールバックにしている鷹道は乱闘を繰り広げる仲間を見て照れ臭そうにする。

「純粋な走り屋チームになったんス」

「まだまだ現役感がハンパじゃないけどな」

 二人が笑う。車体は族車のままで、これだけケンカをしていたら丸っきり暴走族だ。今日が彼らにとって最後の暴走行為になるだろう。

 このまま問題なく警備員を押さえこめそうだった。それは小豆色の制服を着た者に阻まれる。数こそ警備員より少ない三〇人程度だったものの、それぞれが銃器を手にしていた。

 発砲。元デビルハックのメンバーが撃たれてバイクを落ちる。彼はもんどり打って地を転がった。どうやら出血はしていないようだ。

「対人間用の模擬弾ですわ」

 麗華と彼らは担当が違うものの同僚だった。異相警防隊である。主要な施設には餓鬼の襲撃に備えて常駐しているのだ。模擬弾であっても人を鎮圧するのには充分な威力がある。

 クソッ、と鷹道がエンジンを吹かし、やられたメンバーへ急行していく。

 ここはアルマハト製薬の研究所本部だ、こうした事態は想定していた。ただしこちらに銃器はなく、元デビルハックに粘ってもらうしかなかった。

「みんな、行くわよっ!」

 乱闘の場から外れて四台が滑走する。こちらに気づいた隊員が撃ってきて土塊がめくれた。それを鷹道が撃退するのが見えた。彼が雄叫びをあげると仲間も気合のこもった声を発する。

 正面玄関に幾ばくか残った警備員を魅希達は轢き倒し、バイクで中へ突っこんだ。吹き抜けのホールを抜け、二階へ続く大階段を上がっていく。サイレンが鳴っていた。

 階段の先にも広間がある。そこに待ち受けていたのは一〇人の少年だ。髪は銀髪、口元には八重歯が光り、白のパーカーと黒のハーフパンツを着ている。全員が涼斗と同じ顔だった。

 ただし、彼らの双眸は紫に輝いている。

 一人が瞬時に迫った。魅希が注意する間はなく、夜駒の方に疾駆する。鋭利なきらめきが彼を襲った。血しぶきが舞う。そして敵はすぐさまに仲間のもとへ戻った。

 夜駒をかばった涼斗が石床の上に倒れる。胸からの出血がパーカーを赤くしていき、口からも血反吐を吐いた。バイクを降りた夜駒は彼を抱える。

 涼斗は夜駒の白いシャツをギュッと掴んだ。

「人を助けるのって、いい気分、なん、だね……」

「バカ、しゃべるな……」

 夜駒が眉間にシワを寄せ、瞳の端に涙を溜めた。血は止めどなく流れ、あっという間に服を濡らす。助かる出血量でないのは彼も分かっているだろう。

 涼斗の双眸から透明な雫が流れて頬を伝う。唇が青ざめて震えていた。

「ぼ、僕、夜駒兄の命、助けたんだね。それ、それって、すごいことだよ、ね……」

「あぁ、普通できないことだぜ? 兄ちゃんとして鼻がたけぇや」

「人間の、こと、少し、分かっ……」

 夜駒のシャツを掴んでいた手が脱力した。夜駒が呼んでも、もはやなにも応えない。

 涼斗はわずかに口元に笑みを湛えていた。殺されたというのに幸せそうな安らかな表情だ。魅希には笑顔になった彼の心情が分かった。

 涼斗を運んだ夜駒が壁際にそっと寝かせる。

 するとクローン涼斗が全員でクスクスとさもおかしそうに笑った。涼斗を刺した者が血液のついたナイフを舐める。

「ちょうど良かった、欠陥品は処分しておかないとねぇ。まったく、他人をかばうなんてバカな奴~。頭狂ってるとしか言いようがないよね」

 またもクスクスと全員が笑う。

 夜駒は彼らへ向けて歩き、目前に立った。涼斗を殺した者を睨みつける。相手はふざけた感じでクルクル回った。

「なに? お兄ちゃん、殺されに来たの~?」

 唐突にナイフが突かれる。それを夜駒は握って止めた。

 夜駒が右の拳を固める。

「お前にそう呼ばれる筋合いはねぇっ!」

 クローン涼斗を容赦なく殴り飛ばした。小さな体が床を滑って遠ざかる。

 夜駒はナイフを投げ捨て、一〇人を指差した。

「お前らは知らねぇだろ。アイツは、成長してたんだ。実験の副作用で身も心も止まってたのに、少しずつ成長してたんだ。それがどんなに嬉しいことか分からねぇだろっ!」

 憤怒を彼らにこれでもかとぶつける。

 先日、涼斗は自分に欠陥があるのではないかと悩んでいた。魅希が欠陥ではなく成長だと告げると彼は喜んだ。彼にとってそれは宝物のようなものだったのだ。最後にも一つ、宝物を胸に抱いて天へ旅立った。それはある意味、幸せなことなのかもしれない。

 キョトンとしたクローン涼斗がヘラヘラと笑いだす。

「なにそれ、バッカみたい」

 夜駒が叫んで近くの者を殴りつけた。一人二人と殴り倒す。

「お前ら全員かかってこいっ! 俺が教育してやるよっ!」

 挑発すると一〇人が一斉に襲いかかった。

 魅希は緋劉に目配せする。

「ここは任せたわよ。アイツら手強いから気をつけなさい」

 三台同時にスタートし、緋劉はクローン涼斗に突っこんだ。魅希と麗華は奥の通路へ行く。

 長い廊下を走行すると両開きの扉があった。そこに車体ごと体当たりをかましてぶち破る。廊下には研究者やその他の社員らしき者がちらほらいた。みんながビックリして壁際に寄っている。突き当たりを曲がり、少し行くとエレベーターが見えてきた。

 魅希と麗華はその手前でブレーキし、ドリフトをすると車体を回転させた。ボタンを押してリアからエレベーターに入る。

 階層を示すボタンパネルの下の方にカードキーを挿す隙間があった。ポケットから出したそれを魅希は挿入する。あらかじめ涼斗から預かっていた物だ。これで社長室のある高層階に直通で行ける。彼はこういった事態を想定して魅希に渡したのだろう。

 頭上の表示がかなりの速度で切り替わっていく。数字は五〇で止まった。

 扉が重々しく開かれる。敵に用心したが、誰も襲ってはこなかった。体育館の倍はある部屋が眼前に現れる。一フロアの半分はこの一部屋で占領していそうだ。天井も高く、三階層分以上はある。床は赤絨毯が敷き詰められていた。壁際には沢山の賞状やトロフィーが展示されている。康徳の功績を称えた物だ。全国大会で優勝したというラグビーボールもあった。あとは応接に使うらしいソファーとテーブル一式に熱帯魚などが入った水槽が並んでいる。

 部屋の奥には木製の重厚な机が設置されていた。革張りのイスにとがった印象の美女が脚を組んで座っている。傍らにはガタイのいい中年の男。

「久しぶり、さん」

 康徳に言ったのではない、真理子に言ったのだ。

 彼女はフッと笑って肘かけに右腕を立てた。こめかみに人差し指を当てる。

「バイクで乗りこんできた客は初めてだわ」

「アタシも一四〇年も生きてる人を見たのは初めてよ。ずいぶんお若いようで」

 改めて見てみても彼女の肌は透き通るほど滑らかだし、シワもシミもなかった。胸元の開いた赤紫のワンピースドレスを見事に着こなしている。

「永遠の若さを手に入れたのに、それ以上を望むのは強欲ってもんじゃないの?」

「強欲だからこそ人間は文明を発展させてきたのよ」

 切れ長な目がヌメヌメと光を反射した。

「けれど文明ばかりを発展させすぎて肝心の人間そのものは大した変化がない。おかしいと思わない? これは人間の怠慢だわ」

「だからって人の命を命と思わないって?」

「新しい世界のためよ。現代には、うっかり権力者になって醜くもズルズルと生き残り、あろうことか才ある者を偉そうに虐げる無能な老害がはびこっている。排除は大事だわ」

「じゃあ副作用のあるAHMはなに? 餓鬼がその才ある者を殺すかもしれないでしょ」

「それはそれ。これでも餓鬼の数はコントロールできているつもりよ。異相警防隊にも資金援助して、より強力な隊を作り上げているしね」

 基本的に日本でしかAHMを販売していないのは餓鬼の世界集団発生による混乱を発生させないためなのだろう。人間社会が崩壊しては彼女も活動できなくなる。

 真理子は机に載せていたワイングラスを右手の中でくゆらせた。

「権力者が餓鬼になって退治されれば自然と我が社の立ち位置は繰り上がっていく。AHMは失敗作だったけれど、思った以上に役に立ってくれたわ。薬での死亡なら賠償金を請求されるのに、餓鬼化してくれれば殺す大義名分を得られるもの」

「そう上手くいくかしら。きっと頭のいい人の中にはアンタらが臭いって気づいてる。AHMにだって手を出さないわよ」

「別にかまわないわ。そういった者は病気か寿命で自然に死ぬ」

 いつまでも長く若く生きられる者だからこそ言える構想である。若く才ある人材を確保しつつ、他社の権力者が勝手に潰れるのを待つ。実にシンプルで効果的な戦略だった。

 なにからなにまで計算尽くらしい。このままでは本当に彼女の思い通りになってしまいかねなかった。日本を支配したら次は世界を毒牙にかけるだろう。

「梨緒はどこ? 計算高いアンタのことだからここに連れてきてるんでしょ」

 勘がいいわね、と真理子は微笑し、ワインを一口飲むとグラスを置いた。指をパチンと鳴らす。なぜだろう、彼女に違和感があった。しかし、それがなにかは分からない。

 康徳が天井から釣り下がるヒモを引いた。二人の背後にあった赤い大幕が左右に開く。そこにあったのは巨大な水槽だった。部屋の幅ギリギリまで面積をとっている。高さも床と天井の半分ぐらいまであった。水槽の左端に拘束された梨緒が立っている。

「梨緒っ!」

 彼女は恐怖していて顔面に汗と涙を垂れ流していた。

 水槽の左端には階段があり、梨緒のところまで通じている。隙あらばあそこから上がって助けにいけるだろう。

「妙なことは考えない方がいいわよ」

 康徳へ顎をしゃくり、彼女がなにやら指示をする。

 彼はクーラーボックスから動物の脚の肉を出した。胴体からブツ切りにした大きな物だ、シカかなにかだろう。それを上空高く放り、水槽へ入れる。

 水面が波打ち、中で巨大な物体が蠢いた。沈んでいく肉を目がけ、それが迫る。ノコギリ状の凶悪な歯が見えた。人間を丸呑みできるサイズの穴が肉にかぶりつく。水槽のガラス前で旋回した生物はサメだった。

「遺伝子操作で品種改良したホホジロザメよ、一五メートルあるわ。私がリモコンのスイッチを押すと伊波さんのいる床は抜ける仕掛けになっているのよ」

 最悪の状況だ、これではなにも手を出せない。仮に人質にとられていても、どこかのタイミングで奪還できると思っていた。しかしそれは単純に縛られたり閉じこめられたりしているケースだ。スイッチ一つで梨緒がサメのエサにされるとすると絶望的だった。

 魅希は奥歯を噛み締める。

「たまらないわ、その苦悩に満ちた顔」

 真理子が恍惚とした表情になった。

「もっと見せてちょうだい。私を楽しませるのよ」

 イスを立ち、康徳へ擦り寄る。彼の体を怪しく撫でていった。

「大山は私のペットなの。私のためならなんでもするわ。そうでしょう?」

 問いに、はい、と彼が応える。

「二七年前に出会ったのよ。頭が良くて私の思想をよく理解してくれたわ。研究者としても尽くしてくれた。だから五年前にヘマをした本社社長をクビにして社長にしてあげたのよ」

 真理子が机の引き出しから注射器を取った。中には紫色の液体が入っている。今度は針の先で彼の肌を引っ掻いた。線状の赤い筋ができていく。康徳はジッと堪えるのみだ。決して痛そうではなく、くすぐられているような感覚でいるっぽかった。熱い吐息をしている。

「なによりも気に入ったのはこのたくましい、カ・ラ・ダ」

 スーツとワイシャツが彼女により脱がされ、筋骨隆々とした上半身が晒される。

「新型AHMの適正がなくて醜くなるけれど、理性を半分は保てるし、とにかく頑強なのよ。涼斗みたいに時間切れで老化したりしなくて、いままで何度も実験に堪えたわ」

 首筋に針が突き立てられる。康徳の目が見開かれた。注射器の尻についたボタンが押しこまれると紫の液体が一瞬で注入される。

 よたつく彼を真理子はハイヒールを履いた足で蹴った。康徳が魅希の前で転倒して苦しそうに体を痙攣させる。それは何度か見た光景だった。

 もともとガタイの良かった体躯が一層に巨大化し、全身に黒く長い体毛が生える。顔は狼の如く鼻が突き出て耳がとがった。口には鋭い牙が並ぶ。瞳が紫となり、揺らめいた。餓鬼だ。

 真理子は再び革張りのイスへ腰をかける。

「この康徳を相手にどこまでやれるか戦ってみなさい。アナタにはまだ未知の力が眠っているようだしね、しっかり役立つサンプルデータを提供するのよ」

 警備も配置せず、わざわざここまで来させたのはデータのためだったのだ。魅希がここに来ることも計算の内らしかった。拒否権はない。五メートル近い巨躯を持つ餓鬼が襲い来る。魅希と麗華は二手に別れて旋回した。あんなバケモノに一撃を食らわされたら致命傷になる。

 麗華がUターンをしてバイクで特攻を仕掛けた。鋭い爪を持つ腕が彼女に接近する。それを跳躍して避けた。バイクは餓鬼の脚に当たって倒れる。麗華本人はというと腕を駆けていた。顔面へ一挙に距離を縮める。

 彼女の蹴りが額に命中する寸前、もう片方の手に掴まれた。投げ飛ばされ、壁に当たる。

 すかさず魅希が跳んだ。投げたモーションで硬直する餓鬼にエンジンの底でぶつかりにいく。スピードと重量がかけ算で巨大なパワーとなり、鼻っ面を打つ。着地し、方向転換をしてぐらついた巨体の両足をくぐった。ついでに脚を蹴りつけてやる。

 威力が足りず、さほどダメージはなさそうだった。せめて転倒させられればいいが、難しかった。背後から迫る岩みたいな拳を蛇行して回避する。追い詰められ、エレベーターまで来てしまった。魅希はペダルに立つと同時にアクセルワークでフロントを浮かし、壁へ向かった。垂直に駆け上がり、天井付近まで来ると反動をつけて跳び立つ。

 頭上から餓鬼にプレスをかけた。巨体が少し沈みこむも、それ止まりである。黒い背中を駆け下りて床に舞い降りた。このままではジリ貧だ。なにか使える武器はないかと走りながら見回す。餓鬼が動き回ったせいで棚や水槽が割れていた。ガラス片やトロフィーは役に立たないし、理性も少々あるようだからサメのいる水槽にぶちこむのもできないだろう。

 視界の端に丸みを帯びた楕円形の物体が映った。魅希は片手でそれをキャッチし、車体を横に倒して後輪をスライドさせる。ちょうど麗華も復帰したところだった。

「アタシのあとについてきてっ!」

 了解ですわっ、と族車にまたがった彼女が後ろを走る。

 魅希は待ち構える餓鬼へを投げつけた。それ自体には殺傷能力もなにもない。胸元に当たって跳ね返っただけだ。

 しかし効果てき面だった。四方八方に跳ね回るフットボールを餓鬼が追い求める。左へ右へとボールが不規則に跳ぶものだから足元が不安定になっていた。そこを狙う。魅希がバイクでタックルを仕掛けた。すると意外にも軽々と足が浮いた。盛大に転んだ巨躯が宙を舞い、腹這いに倒れ伏す。

「麗華、いまよっ!」

 言うまでもなく彼女は頭部を目がけて跳んでいた。バイク上で両手をハンドルから離した麗華が拳を構える。ロケットのように射出されたそれがこめかみを打ちつけた。麗華の腕は二の腕まで入りこみ、抜くと紫のしぶきが散った。咆哮。大きく悶えた体がやがて動作を停止する。

 着地した麗華とすれ違い様にハイタッチをした。

 不可思議なことに餓鬼だったものがどんどんしぼんでいき、元の人間サイズになる。床には康徳が倒れていた。体が上下していることから呼吸はしているらしい。真理子の言う通り、かなり頑強だった。体が元のサイズになったことで傷口も小さくなったようだ。

 二台で再び机の前に停車する。

 真理子は忌々しげにこちらを睨んだ。

「これはどういうことなの? あの康徳がやすやすとやられるなんて」

「餓鬼になるとそれ以前に執着していたモノに敏感になるのよ。知らなかった?」

 藤堂家で麗華の叔父が餓鬼になったのに、将棋盤へやたら興味を示していたのを思い出したのだ。だから康徳の場合もラグビーボールに反応するのではないかと踏んだのである。

 真理子はイスを立ち、リモコンを持って距離を取った。

「それ以上、近づいてみなさい。ボタンを押すわよ」

「やったらただじゃおかないわ。研究主任がどうなったか報告は受けてるでしょ?」

 ハッタリは通用しなかった。彼女が容赦なくボタンを押した。

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