Ride 17
目が覚めると頭がズキンと痛んだ。魅希は小さな部屋にいる。天井はギリギリ身長分ぐらいはあったが、部屋と言うにはなにもなさすぎた。それに異質なのは一面の壁が網になっていることだ。自分が虫になったみたいだった。
檻の外は研究室みたいになっている。謎の液体が入ったフラスコやビーカーがデスクに所狭しに並べられていた。実験器具も揃っている。学校の教室の倍ぐらいの広さはあった。
「目覚めはどうかね、鐘乃魅希君」
白衣を着た男が書類を片手にやってくる。毛髪は全てなく、頬が痩せこけた男だ。眼球が飛び出しそうに思えるほどの丸い目が不気味である。
「アンタ誰? ここはどこ? アタシをどうするつもり?」
「私はこの研究室の主任だ。場所はアルマハト製薬研究所本部。私は君の生態を調べている」
早口で回答される。彼は書類に目をやりながら話す。
「寝ている間に採血させてもらったよ。良い結果が出るといいんだがね」
魅希の左腕内側には知らぬ間に絆創膏が貼ってあった。気絶している間に好き勝手してくれたようだ。だんだん脳が覚醒してきて、怒りが込み上げてくる。
「こっから出しなさいっ! 出さないとぶっ飛ばすわよ!」
「静かにしたまえ。その檻は人間の筋力では絶対に破れぬよ」
網は一本一本がエンピツぐらい太く、確かに穴を空けるのは無理そうだった。ワイヤーカッターなどの道具がなくては話にならないだろう。
「アタシのことなんて調べてどうするってのよ」
「ここに観察データが届いたんだ。君は少年王と戦っただろう?」
以前の涼斗のことだった。彼が見たモノはバングルから通信されて本部に届けられると言っていたが実際に活用されているのだ。
「そのデータがあまりに素晴らしくてね、調べてみたくなったのだよ」
ケヒヒと気味の悪い笑いを発する。
その彼の手が一枚の書類の上で止まった。
「なんだこの高得点の数値は。し、信じられん……」
「なによ、アタシの血になんか文句あるわけ?」
研究主任が興奮した面持ちで他の書類も見ている。
「君、過去にAHMを使用した経験はあるか」
「それって万能薬でしょ? たぶんないんじゃないの」
「とすると、突然変異か。いや、それにしては人間のそれを超えている……」
「あ、でも小さいころに死にかけたことはあるわ。奇跡的に助かったって親には聞いたけど」
それだ、と彼がペンで書類を叩く。
「おそらく君はAHMを使用している。その結果、特殊な肉体と頭脳を得たのだ」
「そんな話、親に聞いたこともないけどなぁ」
「AHMの使用は現在四〇歳以上からと決められている。君の両親は裏ルートから違法にAHMを入手したのだろう。負い目もあって言えなかったのではないか」
言われてみると、死にかけたときのことを訊いたときはいつもはぐらかされる素振りがあった。問い詰められたくないことがあったのだろう。髪が金になった時期とも重なり、つじつまは合っていた。AHMによる作用なのかもしれない。
「けど、AHMって薬でしょ? 能力アップする効果があるっておかしくない?」
もしそうなのであれば、使用者がみんな常人を超えた力を得ることになる。高価すぎて使用する者が少ないとはいえ、全国で考えたら結構な人数だ。もっと話題になってもいい。
「AHMは本来、新人類を作るための薬なのだよ。万能薬は副産物に過ぎない」
「失敗作ってこと?」
「そうとも言う。ゆえに餓鬼などという下等生物に変異してしまうのだ」
「え? いまなんて?」
信じ難いことをサラリと言ったように聞こえた。彼の言葉をまとめると、AHMを使用することにより餓鬼に転化するということだ。
研究主任はやたら歯並びのいい歯を剥き出しにする。
「君のように新人類へ近づける者は稀なのである。餓鬼は確かに素晴らしい身体能力を得たが、外見は醜く、知能もない。あれではむしろ退化だ」
「そうじゃなくてっ! アンタ達は餓鬼に化ける副作用を知っててAHMを普及させたの!?」
「そうだが、なにか問題でも? 病気の苦しみから解放され、運が良ければ変異は免れる。我々の行いは実に素晴らしいであろう?」
「それならそのリスクを説明しなさいよっ! みんな、餓鬼は謎の病気だと思ってんのよ! 餓鬼に殺されることだってあるのに勝手すぎるわよっ!」
独善的な考え方に腹が立った。網を叩いてもやはりビクともしない。
ケヒヒと笑った彼はハゲきった頭部を撫でる。
「知らぬよ、原人とも言える無能な凡人がどうなろうとな。そもそも変異は五〇代辺りから急速に増加するガン細胞と密接な関係にある。加えて免疫力の低下もファクターとなり、薬の残留成分が体内で変化を遂げたとき、遺伝子にまで作用する。遺伝子構造を根本から変化させてしまうのだ。その結果が餓鬼であり、新人類なのである」
興奮した調子でまくし立てられた。難しくていまいちよく分からない。一つ分かったのは、老人ほどリスクが高くなるということだ。
「新人類をそんなに生み出したいならリスクの少ない若者に使えばいいじゃない」
「イカンッ、子供や若者には可能性がある! 隠れた才能や能力を持っているかもしれぬ。それが我が社に貢献しないとも限らない。そうした損失は人類の損失と言えよう。滅びるのは醜く無能な老害だけでいい」
彼らはあえて老人を対象にしているのだ。AHMの使用が四〇歳以上に設定してあるのもそのためだろう。魅希の頭に梨緒の父親が思い浮かぶ。
世の中にはそれほど能力も才能もない人がいる。いや、それが大半だ。しかしそういった人々にだって幸せがある。力がなく、裕福でもなく、それでも一生懸命に生きている。凡人だからといって生きる価値がないみたいな考えは極論にもほどがあった。
「普通の人間でなにが悪いのよっ!」
なにやら実験器具を準備する彼が呆けたようにこちらを向く。
「心配するな、君は普通ではない。新人類に片足を突っこんでいるのは間違いないぞよ」
「そういうことじゃなくてっ! あぁ、もうっ!」
網を殴る。話が噛み合わなかった。根底の部分で物事の思考方法が違うのだろう。彼と同じ方針で研究がされているのであれば、アルマハト製薬は完全に狂っている。モスキートドラッグから始まり、梨緒が連れて行かれ、どうにかしなくてはと行動していたことだったが、この会社は危険すぎる。世界のためにも消滅させなくてはならなかった。
証拠がなくては外の人間は誰も信じてくれないだろう。ここから脱出し、体勢を立て直すのが先決だ。そのあと作戦を立て、本部を狙い撃つ。
新人類と言えば、と研究主任は手術のときに使うようなライトを運んだ。
「こっちのコはもはや新人類なのかもしれぬ。実に素晴らしいサンプルだ」
スイッチがONにされ、明かりが点く。リクライニングチェアに寝かされていたのは麗華だった。両手両足と胴体が鋼鉄の輪でイスに縛りつけられている。彼女は目をつぶって動かない。
「麗華になにをしたのよ!」
「麻酔で寝ているだけだ。なにかをするのはこれからこれから」
ワンピースから露出した腕を彼は感触を確かめるように揉む。
「このコの父がAHMを使用したというデータがある。藤堂家はもともと不思議な力があるとか。その上でAHMの効果が潜伏し、遺伝により彼女は特殊な能力を発現させたと考えられる。遺伝を利用した実験サンプルは少ないから非常に興味深いな」
ほとんど独り言だった。ブツブツと呟いては紙になにかを書いている。
「通常時は普通の人間と変わりなさそうだ。では、変異するとどうだ?」
ライトのスイッチが切り替えられた。明るさはそのままに紫がかった色味が加えられる。途端に麗華の肉体に変化があった。皮膚も筋肉も全て消え失せ、真っ白な骨が露出される。彼女の意思や状態に関係なくガイコツ化させられるらしかった。
研究主任は丸い目を飛び出さんばかりにさらに開く。
「いい、実にいい~。肉体はどこへ消えた? 骨のみでどうやって生命活動をしている? どういう原理で骨は繋がっているのだ? 謎ばかりなのがたまらないではないか」
彼女の体を隅々まで触れた。それでなにか分かるのだろうか。魅希が触れた感触だと、ただただ硬い物体だった。骨格模型そのままという感じである。関節などの繋ぎ目は隙間があって、くっついてはいない。激しく殴ったらバラバラになったこともあったぐらいだ。彼女の存在に慣れてしまって疑問に感じなくなっていたが、研究者からすると貴重な存在なのだろう。
調べてみよう、と彼が持ったのは電動丸ノコだった。電源を入れると鋭い刃が高速で回転する。甲高い音が耳障りだ。
魅希は網に両手の指を通して握り締める。
「ちょっと、なにするつもりよ。そんなことしたら死んじゃうでしょ」
「大丈夫だろう、たぶん。死んだら死んだで考える、実験に犠牲はつきものだ」
こういうことに抵抗が皆無らしかった。刃がやすやすと近づけられていく。
やめて、と魅希は呟いた。網を掴む指に金属が食いこむ。痛みは感じない。視線が麗華と刃の間に釘付けにされた。息を大きく吸いこみ、怒りを声に乗せる。
「やめろって言ってるでしょっ! アンタ、バカじゃないのっ!?」
激昂は彼の耳に届かない。距離はみるみる縮まり──触れた。
「それ以上やったらアタシが許さないっ! 殺すっ! ぶっ殺してやるっ!」
がむしゃらに叫んだ抗議の声は刃の音に霧消する。白い粉が飛散し、魅希の顔に当たった。それを手の平に載せる。麗華の体の一部だ。刃が彼女の肘に埋まっていく。
粉を持つ手が震えた。震動は腕を伝い、全身に巡る。毛髪が逆立つような感覚があった。体の奥底からエネルギーが噴出してくる。
エンピツほどある太さの網が茹でたパスタみたいに柔らかく感じた。穴をグングン広げていき、半身を丸ごとくぐらせられるぐらいにする。穴をまたいで外に出た。視界がかすかに紫がかっているようだ。壁にかかった鏡を見ると瞳が紫になっていた。そんなものは気にしない。
麗華の腕は切断されていた。研究主任が、ふぅ、と額に浮いた汗を拭いている。その手首を掴んだ。どうやって、という疑問が彼のまん丸な瞳に映っている。握る手に力を込めるとゴキンと鈍く響いた。苦痛の悲鳴。もう片方の腕も──ゴキン。
その首を掴んで軽がると持ち上げる。彼は腕を垂らして苦しそうに呻いた。
「殺すって言ったよね? どうしてやめてくれなかったの?」
「グッ……ぁっ……くる……じぃ……っ!」
なんだか残酷な気持ちになった。目の前の男が人間に見えない。小動物? 虫? 物? 分からない。とにかく、命は尊いから大事にしましょうだとか、そういう倫理観が湧かなかった。要は、殺したいのだ。生かしておく理由がない。人殺しと呼ばれてもかまわない。
指に少しずつ力を加えるだけで相手は泡を噴いて苦しんだ。あと少し、もう少し──
腹になにかが当たった。注射器みたいなのが突き刺さっている。痛みはない。魅希はそれを抜いて捨てた。軌道を辿ると部屋の奥に三人の白衣を着た者がいた。銃に似た物を構えている。直線距離にして二〇メートル。
デスクに跳び乗り、一足飛びで肉薄する。一人を着地間際に蹴りつけ、もう一人には拳を打ちこんだ。銃を持つ者はガクガク震えている。薙ぎ払うようにして手刀を放つ。全員が一撃で床に沈んだ。邪魔をする者は許さない。
目がかすみ、片膝から力が一瞬抜けた。どうしてか体がだるかった。先程は軽々と越えた距離が遠い。デスクに手をつきながらリクライニングチェアへ歩み寄る。
麗華はまだガイコツのまま眠っていた。片腕が綺麗に切断されている。どうにか繋げようと近くにあった包帯で巻きつけてテープで止めた。
景色がグラグラと揺らいでいる。意識を強く持ち、麗華の首と膝下へ腕を差し入れた。さぁ、脱出だ。そう思うのに彼女の体が持ち上がらなかった。自分の体さえ重い。
ドアの外から大勢の駆けつける音が聞こえてくる。早く逃げないといけないのに体が思うように動いてくれなかった。目の前が真っ黒にかすんでいく。
「れい……か……」
彼女の横顔を最後に目に映し、意識がプッツリと切れた。
夢を見た。それは幼少の頃の映像だ。父にバイクで連れられ行った山。とても楽しかった。そこに忌々しい黒き獣が現れた。父がケガをした。苦しそうだった。だから魅希は怒ったのだ。どうして父さんをイジメるの、と。景色が少し紫になった。獣を何度もぶった。爽快だった。ぶつたびに手が獣にめりこむのが快感だった。父さんが見ていた。すごく恐がっていた。
大丈夫だよ、父さん。アタシが悪い獣を退治したからね。
「──ちゃん。魅希ちゃんっ!」
体を揺すぶられて目が覚める。そこには白衣の者がいて、魅希はとっさに突き飛ばした。短い悲鳴。壁にぶつかった少女は、イテテッ、と後頭部をさすっている。
「梨緒……?」
「もぉ、ビックリしたよぉ~」
赤縁メガネの位置を直した彼女が軽く頬を膨らませる。
「なんでアンタがここに?」
「私は研究所本部の配属だからね。ここがアルマハト製薬の中枢なんだよ」
彼女が手を握り、大きな瞳に涙を溜めた。
「魅希ちゃんと麗華ちゃんが連れて来られたって知って助けに来たの」
ここは再び檻の中だった。隅にあるドアが開放されている。彼女を助けようとしていたのに反対に助けられるとは思わなかった。これには苦笑い。梨緒をギュッと抱き締める。
ドアの脇では人間の姿に戻った麗華が見張りをしていた。
「麗華、腕大丈夫なの?」
「うで? 腕? なんですの?」
彼女は首を傾げて自らの体へ細い目を移す。そこに巻かれた包帯にいま初めて気づいたようだった。なぜそんな物があるのか分かっていない。右へ左へ首を捻りつつ包帯を外していく。
それをファサッと放り、彼女が両腕を上げて万歳をしてみせた。
「アンタってなんでもありね。それ、切断されてたのよ」
「ショッキングすぎる報告ですわっ!」
彼女自身も驚愕している。人間の体も未知な部分はあるが、麗華の場合はその次元を超えていた。研究者がさらいたくなるのも肯ける。一緒にさわられた自分も同類なのだろうか。
三人で檻を出て辺りを警戒する。
鏡を見ると魅希の瞳は黒に戻っていた。キレて紫になったのはなんだったのだろう。
梨緒の、どうしたの、という問いに、なんでもない、と応じる。廊下へ通じる扉を開き、梨緒が様子をうかがった。蛍光灯は消え、薄緑の非常灯が点いている。
長い長い非常階段を下りた。かなりの高層階にいたらしい。踊り場を何度も通過するうちに、永遠に下へ向かっていないのではないかと錯覚する。それも数分ののちに途切れた。
非常扉を開くと外へ繋がっている。日は完全に沈み、星空が広がっていた。ビルの裏手らしく、照明は最小限だ。短く刈られた雑草が一面に生えている。その先には乗り越えるには高すぎる外壁があった。
梨緒が白衣のポケットからカギを出す。
「ここから真っ直ぐ行った辺りの壁にドアがあるの見える? あそこから逃げて」
そう告げるのと同時にサイレンが鳴った。赤いランプがあちこちで明滅する。
「梨緒も一緒に行くのよ」
彼女は唇を噛み締め、かぶりを振った。
「私はここに残る」
「どうして! こんなところにいたら頭おかしくなるわ!」
「分かってる。分かってるよ、魅希ちゃん」
「なら──」
「お父さんが助かったっ!」
目をつぶり、彼女は叫ぶように言う。表情に悲痛さが色濃く表れる。
「AHMの危険性も知ってる。お父さんが餓鬼になるかもしれないのも知ってる。でも、だからこそ私はここで研究したい! 副作用のない薬を開発するのっ! ここがどんな悪い会社でも、ここでしかできないのっ!」
梨緒は泣いていた。迷って必死に考え、導き出した答えなのだろう。それは身を裂くような決断だったかもしれない。しかし、それでも彼女をアルマハト製薬には置いておけない。
階段を駆け下りる無数の足音がする。外でも遠くにいくつもの影が現れている。
「ダメよ、一緒に来て。アタシにはアンタが必要なの」
「早く行ってっ! みんな捕まっちゃうよっ!」
「梨緒も──」
みぞおちに鈍痛が走る。ガイコツになった麗華の拳が当たっていた。
どうして? 問いかけは声にならず、魅希は本日三度目の気絶に至ったのだった。
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