Ride 12

 陽丘学園から五キロメートルほど離れた場所に高架橋がある。その端の下にそれはあった。

 結論から言って、兵太の情報はガセだった。急斜面になった土手にはボロボロのバイクが寝そべっている。遠目にもそれがハイパーシェルではないと区別がついた。タンクの色が赤いだけで、そもそもオフロードバイクですらない。

「アンタの脳みそはどうなってんのよ!」

「痛い痛い、蹴らないでおくれよ」

 期待させられた分、怒りもひとしおだ。授業を抜け出してきた甲斐もない。歩道へ出ても魅希の攻撃は止まらなかった。ピチピチのズボンを着た彼のヒップへ蹴りをかます。

 兵太の能力の低さを痛感した。本当に自分より一〇年以上も長く生きているのかと疑いたくなる。そもそも彼の情報を頼りにした自分が悪かった。

「あ~、綺麗な姉ちゃんはべらせて美味い酒飲みてぇなぁ」

 こんなことを恥ずかしげもなく言うような者を信用してはいけない。

「アンタには信念ってのがないの? だいたいなんでジャーナリストになったのよ」

「そりゃ決まってるよ。有名ジャーナリストが新宿で豪遊してるのを見たからさ」

 ダメだこりゃ。魅希は頭を抱えて早歩きになる。関わっていたらバカになりそうだった。

 学校へ戻る途中の通りで魅希は歩を止める。知った者が二人、なにかを話していた。わざわざ電柱の影に隠れたのには理由がある。

「あのオッサンは藤堂麗華の叔父なんだなぁ」

「知ってる。アンタは黙ってなさい」

 麗華の家で会った将棋盤好きの男だ。気になるのは相手の少年──涼斗である。とても接点のある二人には感じられない。住宅しかないこんな通りでなにを話しているのだろう。

「これはスクープの気配だぜ」

 スクープとまでいかなくとも、不自然ではあった。人懐っこい涼斗のことだから偶然に話すきっかけが生まれて会話しているというのも充分考えられはする。

 近づこうとしたところ、二人は別れてそれぞれどこかへ行ってしまった。




 放課後になってバイクを探し回っていたら夕方になってしまった。そろそろ諦めどきかもしれない。こんなに探したのに手がかり一つないのは、きっと近くにないからだ。心が折れると肉体的にも疲労が溢れ出した。

 夕日のもと、もうろうとしながら歩く。ここら辺には麗華の家がある。癪だが、彼女がいたら休ませてもらいたかった。それほど魅希は心身ともに衰弱してしまっている。バイクが盗まれたという絶望感に底の底まで突き落とされた。

 轟音と土煙が立つ。

 藤堂家のある方角だ。まるでなにかが爆発したようだった。魅希は疲れも忘れて疾駆する。

 大きな門を勝手に開けて中へ入った。庭の方が騒々しい、断続して震動が伝わってくる。

 庭には額から血を流し、汚れた麗華がいた。対するのは弟の桂一郎だ。半袖のワイシャツから伸びた片腕はドス黒くなっている。あれが鋼鉄化の能力なのだろう。

 縁側では彼女の叔父が腕組みをして傍観している。

「いったいなにしてるんですか!」

「これは麗華お嬢様のご学友。なに、ちょっとした姉弟ゲンカですよ」

「ケンカ? これが?」

 質量を伴った桂一郎の腕が麗華をアッパーで処す。生身の彼女は為す術なく吹っ飛び、壁に叩きつけられた。血反吐を吐き、膝をつく。苦しそうに肩で息をしていた。ガイコツ化をすればいいのに、その素振りはなかった。このままでは死んでしまいかねない。

 たまらずに魅希は間へ入る。追い打ちをかけようとした桂一郎がピタリと止まった。

「血の繋がった者同士のケンカにしてはやりすぎじゃない?」

「邪魔だ、どいてくれよ。どかないなら姉さんともども殺すよ」

「やれるもんならやってみなさい、お坊ちゃん」

 黒縁メガネをクイッと上げた彼がダッシュする。風を切って放たれたパンチを魅希は受け止めた。完全に止めたつもりが、その重さに弾かれる。コイツ、強い。

 魅希は手加減なしで立ち向かうことにする。毛髪がザワつき、力がみなぎってきた。大振りな蹴りをかわし、間合いを詰める。肘鉄をみぞおちに打ちこんだ。

 呻いた彼は思わずといったふうに後退して胸を押さえる。

「邪魔をするな! 俺は姉さんを殺して当主になるんだ!」

「殺すって、アンタ自分の言ってること分かってんの?」

「ああ、分かってるさ。生まれてずっと姉さんに虐げられてきたんだ。姉さんが当主になったらこれからの人生、ますますイジメられて支配されるに決まってる」

「だからって殺すことないんじゃない? もっと話し合ってみなさいよ」

「うるさいっ、部外者は黙ってろ! 次期当主はこの俺だっ!」

 ハイキックが放たれる。ガードをすると骨に響いた。ジンジンと痛む、金属バットで打たれたみたいだ。すかさず顔面を狙い打つパンチが飛んでくる。魅希はブロックした。

 とてつもない威力に地面を滑り、足元で二つの溝がグングン伸びていく。壁際に来てようやく止まった。魅希の口の端から一筋の血が垂れた。腕越しにもダメージがある。

 血を親指で拭う魅希。

「アンタね、麗華がどんな気持ちで──」

 傍で倒れる彼女が足首を掴み、首を左右へ振る。殺されそうになっているというのに本心をまだ言わないでおくらしい。呆れた根性だった。

「いいわ、アタシが麗華に代わってお仕置きしてあげる。魅希お姉様と呼びなさい」

「フンッ、物理攻撃が利く奴に俺は負けない!」

 桂一郎が走りこんでくる。

 麗華は頬を染めた。

「お、お姉様……なんて甘美な響き、ですわ」

「アンタは寝てなさい」

 デコピンをすると彼女は倒れ伏せる。

 助走つきの拳に合わせて魅希は拳を打った。岩と岩が当たったみたいな響きが周囲に木霊する。すかさず蹴り。これも同じように返し、脚が交差する。グラついた隙を逃さない、ボディブローを見舞うと彼は爪先立ちになって嗚咽した。手応えを感じていたら左からフックが飛んでくる。頬に命中し、体が弾かれた。倒れそうになるのを膝で踏ん張って堪える。

 同時に拳を振るった。双方の顔面にそれはめりこみ、互いに鼻血を噴く。魅希はそれを手の甲で拭い、桂一郎を睨んだ。いままでケンカした中で最も骨のある相手かもしれない。彼の方も似たようなことを思っているのだろう、苦渋の顔つきをしている。

 緊迫した空気を破ったのは声変わりしていない少年の声だった。

「えぇ~? お姉ちゃん、なにしてんの? そんなことしたってなんの得にもならないじゃん」

 縁側の前に現れたのは涼斗である。麗華の叔父が、少年王、と驚愕したように呼んだ。やはり二人は知り合いらしかった。

「アンタ、どうしてこんなところに?」

「次期当主になりたいらしいから僕がガイコツお姉ちゃんの弱点を教えてあげたんだよ」

「アンタが? 弱点を?」

 興奮状態にある魅希の脳では理解が追いつかなかった。

 彼は無邪気に笑う。

「そう。このオジちゃんが当主になりたいんだって」

 叔父は慌てふためき、否定するように首を振った。

 桂一郎は涼斗と初対面のようで、怪訝そうに彼を見ている。

 なんとなく話の全容が分かってきた。次期当主の座を狙っていたのは桂一郎だけではなかったのだ。叔父は情報を知る涼斗と知り合い、麗華の弱点を仕入れたのだろう。それを桂一郎に吹き込み、自分は高みの見物で潰し合わせようとしたか、あるいは表向きの当主を桂一郎にして裏で操ろうとでもしたのか。どちらにせよ姑息な大人のやりそうなことだ。

「まさか麗華に弱点があるなんてね。最近少し様子がおかしかったけど」

「ガイコツお姉ちゃんは生理期間中だけ能力が不安定になるんだよ」

 初耳だった。彼女の様子や発言を思い出して納得する。彼女はそれっぽいサインを出していたのだ。変態っぷりが目立ち、気にしたこともなかった。

 しかしどうして親類でも知らなかったことを涼斗は知っているのか。

「アンタ、いったい何者なの?」

「僕? 僕は少年王の澄井涼斗だよ」

 説明になっていなかった。問い詰めようと魅希は口を開きかける。

 少年は首を絞められて目を見開いた。叔父が涼斗に両手をかけている。

「ペラペラと余計なことをしゃべりやがって、クソガキが。使用人を全員慰安旅行に行かせた今日しかチャンスがないっていうのに面倒をかけさせるんじゃねぇ」

 彼の表情に柔和さはなかった。真っ赤になり、シワを刻んで凶暴な顔つきになっている。

「もうこのガキにも用はねぇ。ここにいる全員、皆殺しに──」

 いつの間にか涼斗が変わった形の注射器を持っていた。針が深々と叔父の腕に突き刺さっている。新幹線の先頭車両みたいなシルエットで金属製だ。ガラス部から透けて見える中身は紫色である。涼斗は注射器の末尾についたボタンを容赦なく押した。

 圧縮音がして瞬時に中身が注入される。叫んだ叔父はよたついて足をもつれさせ、縁側で転んだ。呼吸は荒く、体を痙攣させている。

「な、なにを打ちやがった、クソガキッ!」

 解放されてケホケホと咳をした涼斗はニッコリとした。

「バカだなぁ、オジちゃん。僕、威圧的な大人って嫌いなんだよねぇ」

 叔父が喉を掻き乱し、泡を噴いている。それを楽しげに眺める涼斗は、昆虫標本を観賞している姿と重なった。みんなは茫然としていた。

 一際に激しく痙攣した叔父はそれからピクリとも動かなくなる。目は飛び出しそうなぐらい開き、手足がピンと伸びて硬直していた。

 再び叔父の体が蠢きだす。肉体になにかが棲みついているのではないかと思えるほど筋肉が膨張と収縮を繰り返す。それは次第に早く大きくなり、全身に巡る。体躯は巨大になっていき、黒い体毛が伸びた。頭蓋骨からして変化し、鼻と口が前へ突き出していく。

 黒い影がゆっくりと体を起こした。

 餓鬼だ。梨緒とのツーリングで目撃したときと同じだった。一つ違うのは、涼斗の注射により意図的に転化が起きたことである。

「どうして突然、叔父さんが餓鬼に……?」

 信じられないモノを目撃して桂一郎は棒立ちになっていた。

 危ないっ、と魅希は横っ跳びをして彼に体当たりをする。わずかに間に合わなかった。俊敏に薙ぎ払われた餓鬼の腕が二人を弾き飛ばす。灯篭に直撃して倒れた。致命傷は免れる。

 魅希は餓鬼を見据え、桂一郎に話しかけた。

「アンタ、餓鬼退治の経験は?」

「ないよ。異相警防隊に志願したけど年齢制限で引っかかったから」

 慣れた麗華であれば一匹程度は楽勝だろうが、彼女はまだ意識を失っている。それに力が不安定では立ち向かうのは無理がある。敵にはしっかりロックオンされていて逃げるのも不可能だ。異相警防隊を呼んでいる時間もなかった。

「二人でなんとかするわよ」

「足を引っ張らないでくれよ」

 生意気な彼にゲンコツをくれてやり、魅希は疾走する。餓鬼の腕を跳躍してかわし、とがった耳を掴んで膝蹴りを顔に食らわせる。そこへ桂一郎の鋼鉄化したストレートパンチが腹部にめりこんだ。

 餓鬼は咆哮して体を回転させる。圧倒的な膂力により魅希はまたも飛ばされた。襖を突き破って転がり、和室へ到達する。体中が悲鳴をしていて、いまにもバラバラになりそうだった。

 梁や柱を破壊しながら餓鬼が侵入してくる。素手では敵いそうにない。なにか武器はないかと思ったら将棋盤があった。叔父が家宝にすると言っていた足つきの立派な代物だ。

 それを思いっきり投げつける。厚い胸板に当たって跳ね返った。ダメージはほとんどなくても敵は気をとられたらしい、隙が生まれる。ダッシュをして魅希はドロップキックをかました。全体重と力、勢いが加わって餓鬼は転倒する。

 魅希は素早く体勢を立て直して攻撃に備えた。ところが餓鬼は体を起こしたのに将棋盤が気になるようでそれを掴んだり転がしたりしている。

「どけ、俺が殺ってやる!」

「バカッ! 油断は大敵よっ!」

 背後から鋼鉄化した脚で蹴ろうとした桂一郎は寸前で敵の裏拳に阻まれる。まともに食らった彼がこちらへ飛んできた。キャッチしようとした魅希まで巻き添えを食い、庭を横断して木造の小屋に突っこんだ。暗がりの中、なにやら色々なガラクタが降りかかってくる。

 桂一郎は目を回して伸びている。これだから子供は困る。

 痛む頭を押さえながら魅希は近くにあった支えを頼りに立った。なにかと思えば麗華のバイクだ。どうやらここは車庫として使っていたらしい。好都合にもキーは挿したままだった。

 非常にダサいバイクで乗るのが恥ずかしかったが背に腹は代えられない。スイッチをONにしてセルで一発始動させる。無意味にデカイ排気音が辺りに響き渡った。すぐに壊れるんじゃないわよ、とバイクへ語りかけてアクセルを開く。

 餓鬼が将棋盤を小脇に抱えて庭に出てきていた。こちらへ向けて咆哮する。それを真っ向から受けた。岩をジャンプ台にして魅希が跳ぶ。二〇〇キログラムを超える重量と五〇キロの速度によりパワーは倍増した。顔面へ直撃し、敵が仰向けになる。おまけに着地と同時にそれを踏みつけた。骨の軋む響きがタイヤを伝って感じられる。

 後輪をスライドさせてUターンした魅希は餓鬼を向いた。さすがのバケモノもバイクの力には勝てなかったらしい、身じろぎ一つしなくなっている。

 拍手がされた。縁側から出現した涼斗は機嫌が良さそうだ。

「お姉ちゃんってすっごいんだね。本当に普通の人間?」

「人を餓鬼みたいに言わないでよね。アタシはれっきとした一般人よ」

 一部、不思議な力は持っていても一般人でありたいという希望を込める。少なくとも麗華や餓鬼のような極端な変貌を遂げないだけ普通と言えるだろう。

 涼斗がまた注射器を出した。

「サンプルも採集できたし帰るつもりだったんだけど、僕も遊びたくなっちゃったよ」

「もしかしてアンタも餓鬼になるつもり?」

 バイクという武器はあれど、勘弁してほしかった。腕も脚もあちこちがズキズキ痛んでいる。ついでに言うと先程の衝撃でバイクのエンジンが不規則な鼓動へ変わっていた。

 彼は八重歯を見せて笑む。

「さっきのは餓鬼になるよう特化した物。でもこっちは新型だよ」

 首へ針を突き刺してボタンを押した。プシュッと鳴って中身の紫がかった液体が注入される。

「さぁ遊ぼうよ、お姉ちゃん」

 麗華の叔父のときと違って彼に変化はみられなかった。少なくとも苦痛にもがいて倒れたりはしない。確かな足取りで庭へ降り立つ。外見には変わった様子がなかった。

 唯一の差異は瞳の色だ。薄茶色だったそれは餓鬼と似た紫に変化している。口ぶりからして相応の力を保有していると考えた方がいい。それなのに外見が子供のままで、いまいち実感が湧かなかった。

「どうしたの、お姉ちゃん」

 いきなりゼロ距離に彼がいた。一〇メートルは離れていたのに、である。まばたきをした間に肉薄したのだ。とっさに魅希が拳を打つも、空を切るのみ。

 宙で旋回した彼の細い足がしなってバイクを打つ。車体は綿毛のように軽々と浮いて魅希ごと飛ばされた。小さな体のどこにそんな力があるというのか。魅希は池に突っこみ、水浸しになる。バイクは岸に引っかかっていた。

 バイクを起こす魅希の肩を涼斗が突く。ノールックの裏拳は彼の銀髪を触れるだけだった。続けざまに左右のコンビネーションで拳を乱れ打つ。そのどれもが受け流しやスウェーをされて不発だ。なにもかもが子供の規格から外れている。

 この野郎、と発射させた渾身の一撃を待っていたのは手痛いカウンターだった。腹部に小さな拳が打ちこまれ、肺の中の空気を吐き出させられる。呼吸ができなくなり、腹を押さえた。

 距離をとった涼斗は余裕の表情である。

「変だと思ってるでしょ? 子供の僕がどうしてこんなに格闘に長けてるのかって」

 左手を見せた。手首にはシルバーバングルが巻いてある。

「これを媒介して脳に直接データが送られてくるんだ。体格や腕力はさっきの新型の薬でカバーできる。だからいまの僕はあらゆる格闘技の達人レベルなんだよ」

 紫の瞳が爛々と輝いた。

 原理はいまいち理解し難かったが、そういうものだというのは把握する。魅希は再度バイクにまたがり、エンジンをかけた。

「それを聞いて安心したわ」

「安心? 絶望の間違いじゃないの?」

 両手を頭の後ろで組んだ彼は八重歯を見せた。

 ニヤリと笑んだ魅希がアクセルを全開にしてウイリーをする。影が彼を覆った。少し驚いた感じの敵は、しかし横へ跳んで回避した。強引に身を捻って後輪を支点に回転する車体。ホッとしていた小さな背をフロントタイヤで打つ。カス当たり。ゴロゴロと横転した標的に照準し、地面を滑走する。正面から受けようとした相手がバイクの突進力に負けて吹っ飛んだ。

 家の壁に当たり、涼斗が地に落ちる。彼は紫色の血を顔に垂らしながらも苦渋の表情はせずに立った。むしろ楽しげにしている。

「やっぱりすごいや、お姉ちゃん。バイクが手足みたいだね」

「こんな格闘技はデータにないでしょ」

「なるほど、確かに初見だ。この戦い方するのはお姉ちゃんだけだもんね」

「良い子はそろそろ帰る時間よ。負けを認めてさっさと家に行きなさい」

「そうはいかないよ。やっと面白くなってきたところなんだ、遊びはこれからじゃん」

 胸中で舌打ちをする魅希。ダメか。もし自分もバイクも万全であれば勝機はあっただろう。現在、肉体は悲鳴を上げているし、バイクもいまの攻めであちこちに不調が現れている。あと一度か二度、無理な動作をすれば活動を停止してしまう。頑強で乗り慣れたハイパーシェルさえあれば対抗できるのに、と悔しさで奥歯を噛み締める。

 涼斗は子供だ、楽しみたいという欲求を満たすことしか頭にない。どちらかが再起不能になるまで付き合うしかなかった。

 屈伸をした彼が合図なしに向かってくる。魅希はフロントブレーキをロックし、その場でターンをした。後輪で巻き上げた土が目潰しとなる。一回転。ひるんだ彼を轢くつもりで疾走する。涼斗の目には土が入ったようで、目をこすっている。

 当たる寸前、彼は双眸を開いた。なんてね、と言って跳躍し、ロケットカウルに手をついた涼斗が頭上で逆立ちをする。クルッと回り、鎌の如く降りかかってくるのはカカト落としだ。

 腕で防御するのが精一杯だった。接触。骨が軋んだ。根性で腕を振り、彼を投げ飛ばす。

 バク宙をした彼が地面で膝をつく。

「おっかしいなぁ。折るつもりで打ったんだけど」

「バイクのサスペンションのおかげよ。これもバイク流格闘術の極意よ、覚えときなさい」

 はーい、と小学生らしく返事をする涼斗。

 危なかった。サスペンションが衝撃を吸収してくれなかったら本当に折られていた。極意など嘘だ、その場で思いついた後付けの理論である。クラッチを握る手の感覚がない。加減が分からず、エンストしてしまいそうだった。バイクの前に自分が潰れるのもあり得る。

 そうも言っていられない、彼はやる気満々だ。

 魅希は最後の勝負を仕掛けるつもりでエンジンを吹かした。クラッチを繋ぎ、急発進をする。待ち構える彼を凝視し、その一メートル手前でフロントブレーキを握り締めた。後ろのタイヤがフワリと浮いて前のめりになる。前転してしまいそうになる車体を前輪とバランスで制御した。ロケットカウルでの打撃だと思ったのだろう、涼斗は反射的に腕をクロスしてガードに徹する。されどぶつかることはなかった。

「これ、ジャックナイフって技なのよ」

 カウル越しに教えてあげる。それからこれが、と前置きをした。

「アタシのオリジナルッ!」

 リアが落ちる勢いを単純な筋力で斜めの軌道に捻じ曲げる。フロントタイヤを軸に回転した車体は、例えるなら恐竜が太い尻尾を振るかのようだった。

 突然の横からの攻撃に涼斗は反応できない。鉄の塊といっても過言ではない車体をモロに食らって庭の中央に弾け跳ぶ。縦横斜め問わず高速でめちゃくちゃに転がった彼は倒れた餓鬼の体躯に当たって停止した。

 立つな、と願う。魅希はバイクにまたがっているのがやっとだった。膝は震え、レバーを握る指も力がない。離したらもう握り直す余力がなかった。

 願いは却下される。小さな体が四つん這いとなり、半身を起こして片膝をつき、そこに手をやって支え、すんなりと立ち上がった。彼の表情は変わらずにこやかだ。痛みや疲れを知らないのだろうか。攻撃が通用している感触がなかった。

「楽しすぎるよ。ねぇ、お姉ちゃん、もっともっと遊ぼうっ!」

 冗談じゃないわ、と魅希は悪態をつく。ほとんど力は残っていない。彼を打ちのめすビジョンがイメージできなかった。どれも自分がやられるところばかりだ。

 諦めかけたそのとき、涼斗が初めて苦しげに呻いた。胸を掻きむしり、膝をついて絶叫する。なにごとかと思っている間に彼の肉体がしぼんでいく。皮膚はたるみ、無数のシワが生まれた。注射の副作用かなにかだろうか。

 そこにいるのは可愛らしい少年ではなかった。輪郭に面影を少々残した老人だ。

 そんな姿になったにもかかわらず、彼は八重歯を見せて笑う。

「気にしないで、お姉ちゃん。さぁ、遊ぼう」

「遊ぼうって、アンタ──」

 彼の後ろで大きな影が起きていた。まだ死んでいなかったのだ。

 突き出した骨格の口が開く。鋭利な牙が彼の肩口を捕らえた。ベキベキと骨の砕ける音。紫の血液が絞り出され、白い半袖パーカーに色がついていく。

 涼斗は痛みに悶えるでもなく、単に少し残念そうにした。

「ありゃ、ゲームオーバーだね。バイバイ、お姉ちゃん」

 死の間際だというのにどうして笑顔でいられるのか理解に苦しむ。

 見るに堪えなかった。考えるよりも早く魅希はバイクで突進する。技もなにもないシンプルなそれは餓鬼を弾くに留まる。その口から涼斗が離れた。反動でバイクと分離した魅希も地に叩きつけられる。

「おいっ! 大丈夫か、アンタッ!」

 覚醒して車庫を出てきた桂一郎が叫ぶ。

 ダメだ、経験不足の彼では餓鬼には勝てない。魅希の方は起きるのすら難しく、時間稼ぎをするのがやっとだろう。

「逃げなさいっ! 異相警防隊を呼ぶのよっ!」

 魅希は崩れそうな膝を踏ん張って餓鬼と対峙する。数秒でも持ち応えれば桂一郎は外へ逃れられるだろう。あとは野となれ山となれだ。

 そういう流れを想定していたのに餓鬼はこちらを警戒し、近づいてこない。バイクでのプレスは相手に予想以上の嫌な印象を刻みこんだらしい。照準が逸れ、それは桂一郎へ向けられる。

「しまっ……!?」

 魅希が立ち塞がろうとしても脚がついてこなかった。餓鬼が四足で疾駆し、土の地面を蹴り上げる。状況の変化に対応できていない桂一郎は無抵抗だ。

 接近。鋭い爪が夕空に振り上げられる。まともに裂かれれば骨ごと持っていかれる。次には肉片となる彼の姿を想像して魅希の心臓がキュッと収縮した。

 そうはならない。

「ワタクシの大事な弟になにさらすんじゃですわぁっ!」

 麗華はガイコツ化していた。相手の爪が届くよりも速くその眉間に骨の拳を突き刺す。頭蓋を貫いて後頭部へ抜けた。腕を抜けば巨体がうつ伏せに倒れこむ。死骸は急速に炭化していき、風に吹かれてチリとなった。地面には黒い跡が残るだけだ。

 ハッとなって涼斗を顧みる。彼は仰向けになっていた。出血が酷い。魅希はハンカチを彼の肩口に巻きつけて止血を試みる。敵であろうとなんであろうと死なせたくなかった。理屈ではない、自分の魂が彼を助けたいと望んでいる。

 涼斗の目がうっすらと開いた。

「なにしてんの、お姉ちゃん」

「助けようとしてるのに決まってるでしょ」

「別にいいよ、なにしても死ぬし」

「バカ言うんじゃないわよっ! 今度バイクに乗せるって約束したでしょ!」

 約束かぁ、と彼が呟く。

「それってそんなに大事?」

「大事よ、約束を守るのは世界のなによりも大事っ!」

「僕にはよく分かんないや」

 力なく笑い、彼は息を吸った。

「でもまぁ、ありがとう、お姉ちゃん……」

 まぶたが閉じられる。呼吸が止まり、肺も上下するのをやめた。双眸からは透明な雫がこぼれ落ちる。魅希はそれを指ですくって拭ってあげた。

「分からないフリなんかして、アンタ分かってたんじゃないのよ……」

 救えなかったことに胸が痛んだ。

 涼斗の肉体がどんどん黒ずんでいく。それは餓鬼が息絶えたときと同様のものだった。肌は硬く黒い炭になり、やがて砕け散る。涼斗だったモノは跡形もなくなった。

 彼はいったいなんだったのだろう。無邪気な子供かと思っていたら急に強力な敵となって襲いかかってきたり、目的がさっぱり掴めない。疲労のせいもあって、考えはまとまらなかった。

 縁側の方では憤然とする麗華がいる。桂一郎は気まずそうにうつむいていた。涼斗や叔父の企みに意図せず乗っかったとはいえ、彼が麗華を殺そうとしなかったら大騒動に発展しなかったかもしれない。立場が苦しくなるのは当然だった。

「姉さん、俺のことを『大事』って言ったね」

 麗華はそっぽを向く。

「そんなこと言ってないですわ」

「俺、思い出したよ。いましてるそのリボンって俺が昔プレゼントした物──」

 無視し、土足のまま麗華が部屋へ入っていく。

 二階の窓から顔を出した彼女は雑誌や本の束を抱えていた。それを一斉にばらまく。

「魅希様、見てくださいですわっ!」

 桂一郎が顔を真っ赤にしておののいている。魅希は落ちてきた一冊のページを開いた。裸を晒した女の写真ばかりが載っていた。

「ほらほら、こ~んなのまでありますですわぁ~」

「ほほう、巨乳モノが趣味ときたか。アタシへのあてつけね」

 中学生だというのに、よくもここまで集めたものだ。一八歳以上なのを偽って買いに行っているのだろう。もしくは最近だとネットで注文しているかもしれない。

 非情にもエロ本の雨を降らせ続ける姉へ桂一郎がピョンピョン跳ねる。

「やめろーっ! てか、どうして姉さんが隠し場所をっ!?」

「隠してることならまだ知ってますわ! こんなエロ本マスターのくせに純情すぎて女友達もなく、同じクラスのキミコちゃんが好きだけど今年もほとんどしゃべらず終わる予感がする、夏──ですわ~っ!」

 わざわざ拡声器まで用意して近隣住人に向けて発信した。

 黒縁メガネがズレたまま桂一郎は唖然としている。

「恐ろしい、俺はもうこの人が恐ろしいよ……」

 なんだかんだで二人は仲がいいようだった。まだまだ暴露を続ける麗華みたいな姉は死んでも勘弁だが、自分にも兄弟がいたらと思える。

 魅希はバイクを起こし、車庫へ引いた。見てくれは悪くとも、今回これがなかったら命も危険だった。せめてねぐらに帰してやるのが礼儀というものだろう。

 空いたスペースへ収納し、サイドスタンドを下ろす。自分がここへ突っこんだせいで中はめちゃくちゃだ。工具やオイル缶などが散乱している。

 薄暗くて気づかなかった、隣にもバイクが止まっていた。麗華が二台持ちだとは知らなかった。どんなバイクなのか目を凝らしても輪郭がぼんやりうかがえるだけだ。

 天井を見ると電球が吊るしてある。初めからこれを点ければ良かったと苦笑しつつ、スイッチを入れた。車庫内が一気に明かりで照らされる。

 それはオフロードバイクだった。タンクは赤く、左右非対称のデザインだ。青い空と星空が左右に別れて描かれていた。本来ないはずのロケットカウルが付けられ、意味もなく長い背もたれの三段シートが装備されている。竹槍マフラーも忘れずに。

 恥ずかしい形状になっていたのは紛れもなく魅希のハイパーシェルである。兵太が目撃したバイクを持っていった少女というのは麗華のことだったのだ。犯人がこんな身近にいるとは考えが及ばなかった。

 車庫を出て、麗華に手招きをする。彼女はお仕置きをされるとも知らず、嬉しそうに小走りをした。魅希はニッコリとして彼女を迎えた。

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