Ride 6

 陽丘学園のプールは屋上に設置してある。水泳の授業の日はいつも陰鬱な気分になった。しかも今日は空が曇っていて肌寒さすらあり、涼めるというメリットもない。

 教師の指示に従って魅希はおっかなびっくりに水面へ足をつける。

 ちべたいっ。冷たさを我慢して肩まで浸かった。他に三人が同じようにプールへ入る。ビート板を持っているのは自分だけだった。ほとんどのスポーツはどれもそつなくこなせるのに、泳ぐのはどうしても苦手なのである。

 小学校に入学する前、家族で行った海水浴で引き潮に流されて溺れた経験があった。それからというもの水への恐怖心がついてしまったのだ。泳ぐとしても犬かきか全然進まないバタ足しかできない。ビート板の使用は恥ずかしいけどやむを得なかった。

 二五メートルをダントツのビリで泳ぎきり、プールサイドに上がる。後ろにはもう次の生徒が追いついていた。

 タオルが差し出される。

「見事な泳ぎっぷりですわ」

 待ち受けていたのは微笑を口角に湛えた藤堂麗華だ。水泳の授業は一組と二組の合同で、彼女とも顔を合わせなくてはならなかった。陰鬱になる一つの要素だ。普段ベッタリなだけに、授業の間ぐらいは避けたかった。

 一応礼を言ってタオルで顔を拭く。

 返却すると彼女はそれを見つめて頬を朱に染めた。おもむろにタオルへ顔を埋める。

「魅希様の香りと温もりを感じますわぁ~!」

「やめんか、気色悪いっ!」

 顔面全体で味わおうというのか頭を上下左右へ動かしている。引き剥がそうとしても一切離れなかった。ガイコツ化して増大した膂力に張り合うのは難しい。

 羽交い締めにして直接的に攻撃を仕掛ける。

 ふと麗華の動きが停止した。攻撃の効果があったわけではない。

 彼女はヌフフフと不気味に笑い出す。

「魅希様の小ぶりな胸の感触が伝わってきますわ」

「小ぶりとか言うなっ!」

 蹴りつけると勢い余って彼女がプールに落ちた。盛大に水しぶきが立つ。笛が吹かれ、教師に注意されてしまった。不条理さを感じつつも魅希は謝っておく。

 水面から顔を出した麗華は人間に戻っていた。彼女の胸はスク水なのに上からだと谷間がうかがえる。自分はというと水着がピッタリと肌に貼りついていた。

 プールサイドに足をかけて麗華が上がろうとする。

「気にしなくて大丈夫ですわ。ワタクシは小ぶりでも魅希様の胸なら大好物──」

「もう一回ぶち落としてほしいの? ん?」

 足で彼女の額を押さえつけてやった。

 体型などそんなにはコンプレックスを持っていないのに、麗華に言われると妙に腹が立つ。

「ああ、やめてくださいですわ。水責め? 水責めですの?」

 グイグイと足を押しこんだ。彼女はプールサイドの段差に指を引っかけて必死に堪えている。麗華をイジメるのは至極愉快だった。

 教師にまた叱られそうで、麗華イジメもそこそこに金網のフェンスへ寄りかかる。

 屋上からは校庭と正門がうかがえた。魅希は首を傾げる。まだ授業中で生徒は外へ出ていないはずなのに校門に人影があった。一人はオレンジの制服ズボンを着ている。鳳凰学園の生徒だ。もう一人は陽丘学園の青年で、なにかを話している。絡まれているようではなかった。

 目を凝らす。彼らの手の中で光が反射した。

「先生、トイレ行ってきます!」

 了承を待たずに魅希はラップタオルを羽織って屋内へ入る。上履きのかかとを踏んづけたまま階段を駆け下りた。昇降口でライディングシューズに履き替えて校庭を横切る。後ろから麗華もついてきていたが無視だ。

 いきなり水着姿で現れたから二人の青年はギョッとしている。

「アンタらでしょ、変なビンをうちの学校に流してるのは」

「ビン? モスドラのこと?」

 鳳凰学園のスキンヘッドの青年がガムをクチャクチャと噛みながら小ビンを見せた。そう、屋上からこれが見えたのだ。彼が持っているのはコルクが閉まっていて、以前に見た小ビンとは状態が異なっている。

「なんなの、モスドラって」

 問いかけにスキンヘッドは応えず、こちらを下から上まで舐めるように見てきた。

「お前、貧乳だな」

 鉄拳制裁。予備動作なしのパンチを鼻っ面に打ちこむ。彼はヨタヨタと歩道を後退り、ガードレールに当たって止まった。鼻血がボタボタと垂れ落ちる。

 魅希は仁王立ちで拳をポキポキ鳴らした。

「小さくて悪かったわね。けどそれがなにかアンタに迷惑かけた?」

 ドスの聞いた声色にスキンヘッドはヒィッと短く叫ぶ。魅希のことが肉食獣に見えたかもしれない。現に楯突いてくるなら顔の原形が分からなくなるほどボコボコニするつもりだった。

 すいませんでしたぁっ、と彼はつまずきながら逃走する。

 ふぅ、と息をつく魅希。麗華が胸について言ってくるから他の者に言われるのまで気になってきてしまった。小さいとは思っていたけど、そんなに貧乳なのだろうか。胸に手をやって確かめる。そこそこ膨らんでるのになぁ、と独り言。

 いや、いまはそれどころではない。

 もう一人の青年に事情を訊こうとするも、すでにいなくなっていた。結局、小ビンになにが入っていたのか分からずじまいである。パッと見ではなにも見受けられなかった。

 麗華が歩道に出てスキンヘッドの消えた方角を見ている。

「あの方、カバンに見たことないマークのシールを貼ってましたわ」

「デビルハックのやつでしょ。チームのシンボルマークよ」

 魅希の視界の端にも映っていた。コウモリの翼に槍が刺さったデザインである。前に見かけて緋劉に教えてもらったことがあった。

 シンボルマーク、と誰に言うでもなく呟いた麗華がウットリしている。

「そろそろハネウマにも欲しいですわ」

「いらないっての」

 声がすると思ったら教頭が小走りに向かってきていた。そこでなにをしているんだ、と言いながら迫りつつある。まずかった。他校生徒を殴ったとバレたら今度こそ退学になりかねない。

 ラップタオルを頭にかぶって顔を隠すと全力疾走で校舎へ駆けこんだ。

「──てわけなのよ」

 着替えを済ませて教室に戻った魅希は我孫子夜駒に校門でのことを一通り説明した。

 彼のロングウルフカットの髪は湿ってワカメみたいになっている。それを掻き上げて、なるほどなぁ、と肯いた。

「モスドラってのはモスキートドラッグのことだよ」

「蚊の麻薬?」

「俺も話で聞いただけだけどね。近頃、若者を中心に流行ってるらしいぜ」

 暇さえあればナンパをしている彼は変に情報通なところがある。触れ合った人の数だけ情報を得ているのだ。イスを後ろ向きにまたいで座る夜駒がスティック菓子をポリポリ食べた。

 その箱を向けられ、魅希は一本もらって咥える。

「蚊をどうするの? 食べるの?」

「いんや、血を吸わせるんだと。蚊の分泌液と血液が混ざったら麻薬効果が発生するらしい」

「どんな効果?」

「簡単に言えばアッパー系だな。頭が冴えて運動神経も良くなって、痛みにも鈍感になる。爽快すぎて居ても立ってもいられなくなるってよ」

 小ビンと繋がりがありそうな二人の症状によく似ていた。

「そんな分かりやすいの、すぐ警察に見つかるでしょ」

「ところがどっこい、モスドラは現代の薬物検査じゃ検知できないわけ。おまけに末端価格が一匹一五〇〇円とリーズナブルで買い求めやすい」

「逮捕できないなんて、厄介な代物ね」

「厄介なのはそれだけじゃないぜ。副作用と中毒性がないから、やめようと思えばやめられるんだ。持続時間も三時間だしさ。でも効果抜群さから効き目が切れたときに相対的に倦怠感を感じるようになる」

「それで手軽に入手できるってなると結果的に中毒みたいになりそうね」

 依存体質になると言った方が正しいか。そんなやすやすと利用できるのなら意志薄弱の若者などに広まるのも分かる。

 スティック菓子を咀嚼し、飲みこむ。

「突然変異かしら」

「噂では、国内産で遺伝子組み換えによって生み出されたって聞いたよ。だからモスドラも針を一回刺したら死ぬんだと。メスしかいないし、繁殖も不可能」

「じゃあ確実に誰かが裏で生産してるのね」

 このまま使用者が増え続けると事件にもなってくるだろう。梨緒や無害の善人が襲われでもしたらやり切れない気持ちになる。

「でもどうやって普通の蚊と見分けるの?」

「本物は眼をよーく見ると紫色らしい」

「そっか、やっぱ違いはあるのね」

 そうとはいえ小さな生物だ、区別するのは難しい。そこらへんの水辺で採集して一匹一五〇〇円で売りさばいたらかなりの儲けになる。一瞬、邪な計画が浮かび、首を振って否定した。

 夜駒が腕を組んで考えこんでいる。

「おかしいなぁ、俺どこであの小ビン見たんだろ」

「まだ思い出せないの? バカねぇ、アンタって」

 梨緒の一件のときにも同じことを言っていた。どうせナンパした少女と行ったデート先でおみやげをねだられて、小ビンの雑貨でも買わされたのだろう。

 ウンウン唸る夜駒からスティック菓子を奪って魅希はかじりついた。




 昼ご飯のあとの授業は殺人級の睡魔が訪れる。教師の声、チョークで黒板を叩く音、シャーペンの芯がノートを滑る音、そのどれもが心地良いリズムに感じられた。視界の周りがボヤけ、グルングルンとスローで回りだす。

 もうダメだ、夢の世界がアタシをいざなってる。

 いまにも机に沈みこみそうになっていると校庭が騒がしくなった。三〇人程度のヤンキー集団がバットなどの凶器を肩に担いで校庭に乗りこんでいる。

「守賀緋劉っ! 出てこい、オラァッ!」

 ご指名は緋劉のようだ。名前を聞いてすっかり目が覚める。魅希は窓際の席でことの成り行きを見守った。デビルハック時代のツケを払うときが来たらしい。彼には敵が多かった。転校してきてからの数ヶ月、居場所がバレなかったのは奇跡だ。

 間もなくして黒髪の青年が単独で現れる。臆した素振りはなく、一歩一歩と集団へ近づいた。

 授業は一時中断され、あちこちの教師が伝言や意見交換をしている。警察を呼ぶだの呼ばないだの話し合っていた。生徒一人がいまにもリンチされそうになっているのに呑気なものだ。

 ゴタゴタしている間に緋劉は集団のリーダーらしき青年に詰め寄られている。それがきっかけとなった。緋劉が先手でリーダーを殴り倒すと一斉に集団が襲いかかってくる。一人二人と返り討ちにしたが、背後からバットで殴られた。それを掴んで蹴りをかまし、横から来た者には頭突きを見舞う。するとまたもや後ろから的にかけられ、首に絡みつかれた。別のヤンキーが彼の腹部を蹴りつける。緋劉は背中の青年を投げ飛ばし、一人を巻き添えにして転倒させた。それを跳び越えて新たなヤンキーが襲い来る。

 たった数分で緋劉は血にまみれていた。いくら強くとも三〇人を同時に相手にするのは無理がある。裏を返せばそれだけ緋劉は絶対的な力を持っていて、生半可な数では勝てないと思われているということだ。

 ただし、一人相手にこの数はいくらなんでも見るに見兼ねる。彼は二重人格の変人だけど、それほど悪い奴でもない。助太刀をしたら退学だろうか。教師にマークされているから、即切られる可能性は高い。それならタオルでも巻いて参戦しようか。

 遠くから無数の轟音が響いた。魅希にとっては馴染みのある排気音である。道路を埋め尽くしたバイクの軍勢が敷地にどんどん雪崩れこんできた。一〇〇人はくだらない。

 増援部隊が来たのかと思ったが、どうやら違うらしかった。先にいたヤンキー集団が攻撃され、瞬く間に殲滅されていく。正直、バタバタと倒されていく様を見るのは快感だった。

 残ったのは緋劉一人である。バイクが彼を中心にして取り囲んだ。緋劉は膝に手をつき、肩で息をしながら首を巡らせている。

「ずいぶんと腑抜けたなぁ、緋劉さん」

 バイクの輪を抜けて出てきたのは金髪をオールバックにしたサングラスの青年だった。黒の特攻服姿で黒いネイキッドバイクにまたがり、緋劉を見下ろす。

「なんの用だ、鷹道たかみち

「勝手にチームを抜けて、なんの用だ、か。笑わせてくれるぜ」

 鷹道と呼ばれた青年の背後には旗がなびいていた。コウモリの翼を槍が貫いているシンボルが描かれている。関東最大の暴走族であるデビルハックであった。

「しっかりケジメつけねぇとメンツが立たねぇんだよ」

「まるでヤクザだな」

 緋劉が笑い飛ばすと、どうとでも言え、と鷹道は応じる。

「アンタ、こっちは抜けたくせに新しいチームに入ったんだってな」

「ハネウマのことか?」

「そのハネウマってのとデビルハック、どっちが上か方をつけようじゃねぇか」

 話が物騒な方向へ流れていた。ハネウマということは魅希も当然頭数に入れられてしまう。さすがに緋劉の過去の尻拭いまで手伝う気は起こらない。

 クツクツと喉で笑う緋劉。

「なんか勘違いしてねぇか。ハネウマは暴走族じゃねぇんだよ」

 鷹道は歯を食い縛るようにし、バイクのタンクを指先でトントン叩いた。

「それなら走りの勝負でいい」

「負けたらどうなるんだ?」

「チーム解散だ。アンタんところが負けたら、うちの兵隊がなにしでかすか分からねぇけどな」

 日時は後日改めて指定する、とだけ言い残してデビルハックは撤収した。

 遅ればせながらパトカーのサイレンが聞こえてくる。警察が到着したときには緋劉を含めた中核となっていた者は影も形もなかった。最初のヤンキー集団がいくらか連行されただけだ。

 保健室の前で待っていると戸が開き、包帯や絆創膏まみれの緋劉が出てきた。目と目が合い──彼はまた戸を閉める。

「コラコラ、逃げるんじゃありません」

 取っ手を掴んで力尽くで開放する。

 気まずそうにする緋劉の手首を握り、学食へ連れていった。昼時が過ぎてガラガラだ。目立たない端の席を陣取ることにする。

 イスに座るなり緋劉は頭を下げた。

「スマン。俺のせいで妙なことになっちまって」

 魅希は頬杖をついて嘆息する。

「んで、鷹道ってのは誰なの」

「アイツは梶尾鷹道かじお たかみちっていって俺がデビルハックの総長やってたときにつるんでた奴だ」

「アンタはチーム抜けたんでしょ。なんでいまさらそんなのが来るのよ」

「族の掟ってやつだ。入ったらそう簡単には抜けられないんだ、普通はな」

「くだらない」

「そう、くだらない集まりだ。俺が抜けてからはハデに暴れてるらしい。関東中の暴走族と衝突して吸収するか、もしくは潰してる。構成員は傘下含めて五〇〇人はいるって話だ」

 初めはそんなんじゃなかったんだけどな、と緋劉は視線を落とす。

「聞かせて、アンタのこと」

 彼は意外そうな顔をした。気になってしまったのだから仕方がない。くだらない勝負に参加するつもりはさらさらないが、話も聞かずに拒否するのはなにか違う。

「といっても、どっから話せばいいのか」

「アンタのことだから小学校からヤンチャしてたんでしょ」

 苦笑いをした彼は口内の傷が痛んだのか顔をしかめた。

「大したことはしてない。売られたケンカを買ってたら祭り上げられたんだ。しまいには上級生にもさん付けや君付けで呼ばれたりしてな。俺にヘコヘコする奴らばっかりだった」

 過去を思い返すように遠くを見つめている。

「ヘコヘコするくせに、裏ではデカイ口を叩きやがる。嘘臭くて生温い世界も高校に進学すればなにか変わるかもって期待したっけな」

「でも変わらなかった?」

「変わったとすればデビルハックができたことぐらいだ。中学時代から一学年下で慕ってくれていた鷹道が副総長でチームを仕切ってた。ケンカもするが、基本的には走るのが好きな奴の集まりだったんだ」

「なんだ、結構楽しそうにしてたんじゃない」

「いや、長くは続かなかった。知らない間にメンバーが増えて、次第にまた生温い世界になっていった。全部に膜が張ってるみたいな退屈な毎日でな、死んでるのと同じだった」

 包帯を巻かれた手の甲を緋劉が撫でる。

「そこに鐘乃が現れた」

「はぁ? なんでアタシが関係すんのよ」

「覚えてないか? 高一のときに勝負しただろ」

 覚えているのが癪で魅希はわざと応えなかった。たまたま夜に走り回っていたら緋劉と数人のデビルハックメンバーに出くわしたのだ。

 なんとなく流れでレースになって、それから──

「俺は完膚なきまでに負けた。お前の走りで目が覚めた気がしたんだ」

「ちょっと待って。じゃあチーム抜けたのも転校してきたのもアタシが原因ってこと?」

 緋劉の真っ直ぐな瞳に射抜かれる。嘘偽りのない意思が伝わってきた。

「鐘乃といれば生温い世界から解放されると思ったからな」

 魅希は頭を抱える。そうなると他人事として知らぬふりをできなくなるではないか。第三者のつもりで話を聞いていたからショックが大きい。

 そんな様子から緋劉は心中を察したようだ。

「これは俺の問題だ。鷹道も俺に裏切られたと思ってるんだろうし、ケリは一人でつける」

 それを聞いて魅希がパチンと指を鳴らす。

「さっすが緋劉、おとこねっ! くれぐれもアタシや梨緒を巻き添えにしちゃダメよ?」

「ああ、分かってる。ハネウマは誰にも壊させはしないさ」

「ハネウマ自体はどうでもいいんだけどね~」

 真面目な顔をして言うと彼は傷を痛そうにして笑った。

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