Ride 3

 スカイブルーとはこういう日のことを言うのだろう。透き通るほど青い空へ向かって背伸びをする。午前中はまだ気温も上がりきっていなくて清々しい。土曜日なのもあって家族連れやカップルが駅を行き来していた。これから遊園地や動物園にでも向かうのだろう。

 おはようございます、と梨緒が小走りにやってくる。星マークが入ったオレンジ色の長袖Tシャツに緑の綿パンを着ていた。私服の彼女を見るのは新鮮だ。

 自分はメッシュジャケットにデニムのスカート、その下にスパッツを着用している。

「あの、待たせちゃいましたか」

「ううん、さっき来たところ。はい、このメットかぶって」

 魅希がいつもかぶっている赤い炎柄のフルフェイスメットを彼女へ渡し、自分は予備で所持している赤いハーフメットをかぶる。

 赤縁メガネを外し、メットに頭をねじこもうとする梨緒。しかし苦戦してなかなか入らなかった。頭頂部を押さえて躍起になってかぶろうとする様子が子供みたいで可愛らしい。

「私、頭が大きいんですかね」

「ちょっとしたコツがあるのよ」

 貸してごらん、と魅希が受け取る。

「まずこうやって両側の顎ヒモのところを広げるようにして持ってみて」

「こ、こうですか?」

「そう、それから少し顔を上げてオデコからかぶるイメージでやってみ」

 今度はスムーズに彼女の頭がメットへ収まっていく。

「できましたっ! すごい、こうやってかぶるんですね!」

 最後にメガネをかければ完成だ。初めての体験だったのか、メットの中の双眸がキラキラと輝いている。要は耳が引っかからないようにやればいいのだ。

 路肩に止めたハイパーシェルに魅希がまたがる。ガソリンも満タンにしてきた、準備万端だ。

「マフラーが熱いから絶対に触らないで乗ってね」

「排気ガスの出るところですよね」

 タンデムステップに足をかけた彼女は恐る恐るシートをまたいだ。腰のあたりを掴ませ、膝も閉じさせる。初めて後ろに乗ると恐さがあるだろうが、あとは慣れてもらうしかない。

 エンジンを始動させる。アクセルを空吹かしすると軽快にエンジンが応えてくれた。今日も絶好調だ。

「出発進行っ!」

 バイクを動かし始めたら梨緒はほとんど密着するようにしがみついてくる。全身にムダな力が入っていた。自分も父の後ろに初めて乗せてもらったときはそうだった。いまでもその感覚を覚えている。おかげで体が無意識に順応し、自分で運転するのも呑みこみが早かった。

 大通りに出るとそれも徐々に薄れてくる。風の心地良さや空の青さ、広さに癒されるのだ。乗用車にしか乗ったことがない者は人生を損していると思う。バイクは人を運ぶためだけの乗り物ではない。車体と一体になり、バランスをとって駆け抜けるスポーツだ。外気により肌で速度を感じられる分、バカみたいにアクセルを開かなくたっていい。

 途中、コンビニで休憩を挟みつつ東京の西側にやってきた。東京と言うとTHE都会と思われがちだが、西端はわりと山が多い。

 曲がりくねった道をゆったり走って見えてきたのはトンネルだ。

「いい? いまこの感じを覚えておいて」

「え? え? なんですか?」

 いいから、と言ってトンネルに突入する。日影というのもあって、さすがに中は少々ひんやりしていた。薄暗い抜け穴は別世界へ連れて行ってくれる不思議な存在だ。

 出口の白光が眼前に迫る。

 抜けた──瞬間、景色は緑で埋まった。空気が涼やかなものへ変化し、肌を心地良く撫でる。夏の毒素を全部消したみたいな世界になっていた。

 わぁ、と梨緒の感嘆した声が聞こえてくる。たった数百メートルの距離で激変する空間はまさにファンタジーだ。

「ちっぽけなことでウジウジしてるのがバカらしくなるでしょ!」

 はいっ、と返事があった。

 良かった、そう感じてもらえただけでも来た甲斐がある。魅希は嬉しくなってスピードを上げた。梨緒の笑い声混じりの悲鳴が山中に響く。左右に曲がりくねったカーブを軽やかに走破した。すれ違うバイクの対向車にピースしてあげるといいよ、と教えたら彼女は早速実行し、他のライダーにピースを返してもらって喜んだ。

 駐車場へバイクを停車し、二人して降りる。木々に囲まれた小ぶりな店には甘味処の暖簾がかけてあった。以前に走り回って見つけた穴場の店である。席は店の前に赤い毛せんのかかった縁台が二つあるのみだ。そのシンプルさが味があって良い。

 間もなくして気の良さそうな老婆が出てきた。魅希はあずき抹茶アイスを、梨緒はクリーム白玉あんみつを頼んだ。

 一口食べれば口内に甘みが染み渡る。全身の疲労感が霧散していくかのようだ。見れば梨緒の方も美味しそうである。

 魅希はそっとスプーンを忍ばせて近づいた。

「白玉もーらいっ!」

 パクッと口に含む。モグモグ。マッタリとしていながらモチモチとしていて、それでいてしつこくなく、ほんのりとある甘さが最高だ。

 首を傾げる魅希。

「どったの? 硬直しちゃって」

「うぅ……」

 メガネレンズの奥を覗きこむ。彼女の瞳からは涙が溢れようとしていた。

「最後にとっておいたのにぃ……」

 意図したリアクションではない。これではただの悪者だ。この手のイタズラは日常茶飯事で、泣いてしまうとは想像すらしていなかった。普通のコはこの程度で泣いてしまうものなのか?

 なににしても現に彼女は悲しんでいる。なんとかしなくてはならなかった。

「ご、ごめんごめん! ほら、アタシの抹茶アイス食べていいよ?」

 涙をハンカチで拭いながら梨緒が見てくる。

「あずきも……?」

「うん、あずきも! もうあれだ、全部あげちゃう!」

 鼻をすすった彼女はようやく笑顔になってくれた。

 じゃあちょっとだけ、と言って抹茶アイスをスプーンですくう。

「とっても美味しいです」

「そ、そう。良かった良かった、うん」

 大きく息を吐く。人生で一番焦ったかもしれない。

 それにしても意外な一面を目撃したものだ。頭が良く、試験でも負けなしでドライな部分もあるのに、こんな子供っぽいところもあるとは。

 そもそも梨緒はどうして陽丘学園を志望したのか。彼女の学力であればもっと日本有数の有名校にも余裕で入れたはずだ。

 甘味も食べ終わっていざ訊こうとしたら、店の一角に目を留めて梨緒が立ってしまった。

「鐘乃さん、あれ見てください」

「おみやげコーナーのこと?」

 はい、と言って彼女は向かう。

 訊くタイミングを逃してしまった。まぁまたいつか尋ねればいっか。魅希も彼女にならっておみやげコーナーを覗く。

 甘味に関係する飲食系の物やオモチャ、定番のキーホルダーも狭いスペースで所狭しに置いてある。魅希はキーホルダーを物色してみた。

「アタシ好きなのよね、こういうの」

「バイクのカギにいっぱい付けてますよね。私は可愛い物が好きです」

 バイクで行った先で気に入った物やその土地にちなんだ物があれば買っている。記憶はいつか薄れていくが、形として残っていれば案外覚えていられるものだ。

「どれか気に入ったのあった?」

「これ好きです。でもちょっと高いんで」

 おみやげ屋の物は割高な品が多い。ある程度は仕方がなかった。

 彼女の小さな手がつまんだのはデフォルメされた三毛猫の飾りが付いたキーホルダーだ。それを取って魅希は店内へ声をかける。

「オバアちゃん、これ二つちょうだい」

 え、と目を丸くしたのは梨緒だ。

 支払いを済ませ、一つを渡す。

「あげる、二人の初ツーリング記念」

「そ、そんな、悪いですよ。私、お金出します!」

「いいからいいから。それともアタシのキーホルダーを受け取れないっていうの?」

 冗談混じりに軽く脅してみせる。

 うぅ~、と弱々しく唸った梨緒は苦笑した。

「なんかズルいです」

「そうよ、アタシはそういう女なの」

 二人して吹き出し、笑ってしまう。

 木漏れ日にキーホルダーを照らす梨緒。優しくそれを握り締め、胸元にやった。まぶたを閉じ、まるでその物に宿った魂を感じ取ろうとしているみたいだ。

 大きな瞳が開かれる。

「私、やってみます」

「ほぇ? なにを?」

「またあの人達がちょっかいを出してきたら、もうやめてって」

 ヤンキー少女のことを言っているのだろう。微々たる効果でもあれば上等だと考えていたのに、よくそこまで勇気を持ってくれたものだ。思っていたよりも彼女は強い心を持っていた。

 天パー頭に手をやってクシャクシャと撫でてあげる。梨緒がくすぐったそうにし、照れたようにはにかんだ。

 店内で食器類の割れる音。

 二人は顔を見合わせ、中をうかがう。薄暗い室内は狭い土間と四畳半ほどの座敷があり、奥には厨房らしきものが見えた。

 老婆はその厨房にうつ伏せになって倒れている。周りには食器の破片が散らばっていた。つまずいたにしては起きようとしない。打ちどころが悪かったか、あるいは病気で倒れたか──なんにしても放ってはおけなかった。

 梨緒には外で待っていてもらい、土間へ入りこむ。

「オバアちゃん、大丈夫?」

 呼びかけにもまるで応じない。そもそも呼吸をしている気配がなかった。

 唐突なトラブルに思考が停止してしまう。こんなとき、なにを優先すべきなのか判断がつかなくなった。平常時なら納得のいく答えを導き出せただろう。

 覚醒させてくれたのは梨緒の声だ。

「私、救急車呼びます」

 彼女は冷静だった。二人いるのだから一人は電話、一人は人工呼吸など救命活動をすればいいのだ。ようやく魅希の脳も再稼動し始める。

 彼女の言葉に、うん、と首肯しかけてやめた。

「待って、なにか変よ」

 スマホを片手に梨緒も並んで見る。

 老婆の全身が大きく脈動していた。関節でもない部位が膨らんだりヘコんだりしている。皮膚の内側になにかが潜んでいるみたいだった。ホラー映画のCGを見ている気分だ。

 梨緒を腕で押さえ、ゆっくり退かせる。そうこうしているうちに老婆の肉体は異様な盛り上がりを見せた。四肢の筋肉が膨れ、いびつな塊へと化けていく。胴体も大きく分厚くなった。全身の毛穴からは体毛が急速に伸び、クマに似た姿に変わる。

 起こした顔は老婆のそれではない。瞳は紫で、顎が狼のように突き出して発達し、毛の少ない耳は鋭くとがっている。

 梨緒が息を呑んだ。

「あれって、もしかして……」

「餓鬼よ」

 何度か見かけたことがあるものの、目の前で転化したのは初めてだ。

 三〇年ほど前に発見された奇病で、万能薬AHMでも治せないとされている。なぜかほとんど日本でしか起こらない現象。主に五〇代以上の老いた者が発症するとニュースや検証番組で放送されていた。

 餓鬼が立とうとして建物のあちこちがギシギシと悲鳴を上げる。

「出るわよっ!」

 とっさに梨緒を抱え、敷居を跳び越えて地面へ転がる。

 間一髪、木造の柱が倒れる破砕音とともに店が潰れた。辺りに砂ボコリが舞い、視界を不鮮明にさせる。

「死んだんですか……?」

「まだよ、餓鬼の頑強さや身体能力は人間の数倍はあるもの」

 説明しつつバイクのエンジンをかける。梨緒にメットをかぶらせ、いつでも発進できるようにした。一人ならともかく彼女をかばいながら戦うのは不可能だ。

 餓鬼退治を任務にしているのは異相警防隊である。そこへ所属する麗華に以前、話を聞いたことがあった。対抗するには銃器を使うか、麗華みたいに特殊な力が必要だ。人間が太刀打ちできないわけではなく、あくまで一般人にとっては脅威というだけだった。

 もちろん侮ってはならない。食欲が大きく、若い肉を求めて若者を狙う習性がある。基本的に知能はないが、圧倒的な身体能力で標的にされたら終わりだ。

 それ以外のことは不明だという。死ぬと全身が灰になってしまい、分析をしてもタンパク質が炭化した物としか分からないようで、餓鬼研究は一向に進んでいないらしかった。捕獲するにしても凶暴すぎて管理するリスクがありすぎるという。

 バイクへ乗りこんで発進しようとすると建物の残骸から黒い影が悠々と立ち上がった。体長は軽く二メートル前後はある。鋭利な牙の生えた口を開き、野太い咆哮が発された。大気がビリビリと震える。

 頭痛がし、脳裏に昔の体験がフラッシュバックした。

 あれは幼稚園児のときのことだ。父のバイクの後ろに乗って、ちょうどこうした山奥に来たことがあった。そこで餓鬼と鉢合わせ、運悪く父は大ケガを負ってしまった。自分は恐怖からか意識を失い──目を覚ますと餓鬼は息絶えていた。きっと異相警防隊が来てくれたのだろう。餓鬼と対面したイメージが強すぎて他の部分はあやふやだった。

 餓鬼の紫眼がこちらを射抜く。前足をついて疾駆してこようとする寸前、魅希はアクセルを開いた。いくら能力が高かろうと文明の利器には敵わない。距離は瞬く間に開き、安全と言える場所に来るまで時間はかからなかった。

 頂点に達した太陽が下ろうとしている。餓鬼がショッキングだったせいか、梨緒はずっと沈黙していた。命の危機といきなり直面すれば誰だってそうなるだろう。

 朝とは別の駅前に到着する。時刻は夕方だ。いまだに空は青く、明るかった。

 バイクを降りた梨緒からメットを返却してもらった。

「本当にこの駅で良かったの? こっからだとちょっと家遠いでしょ」

「いえ、ちょっと用事があって」

 彼女がペコリとお辞儀をする。その表情は朝よりも柔和なものへなっていた。

「今日はありがとうございました。すっごく楽しかったです」

 どういたしましてをすると、また学校で、と言って別れた。

 いったいなんの用事だろうか。駅には向かわずに彼女は別の道へ逸れて人の波へ呑まれていった。あれだけ勉強ができるぐらいだ、塾かなにかに通っているのだろう。

「さぁて、もう一っ走りしちゃいますか」

 フルフェイスメットをかぶり、魅希は軽くなった車体で盛大にウイリーをした。

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