第13話

 ――きっと、あたしがなんでこの服を着ているのか忘れちゃったんだわ…。


 遥火ようかは思って「シーア、大丈夫よ」と声をかけようとした――が、その前に完璧に整えられた声が食堂に響いた。


「みなさん、良いのです。私が許したのです」


 使用人たちは再び驚いた表情を見せたが、納得がいったようだ。やっと顔を二人から机上に戻した。

 シーアもやっと記憶が戻ったようだった。安心したように息をついて、ごめんなさいねとでも言わんばかりに遥火にちらっと視線をくれた。そしてそのまま自分の席に向かって歩いていく。それに遥火も続いた。


 しかし、その直後、三度目のサファヴィーの声が食堂に響いた。しかも今度のは遥火に向けられたものだった。


「…ああ、遥火。今回はあなたはこちらです。こちらの席へどうぞ」


 そう言ってサファヴィーが示したのは、自分の席と角を挟んですぐ右隣の、奇妙に人の姿のない椅子だった。遥火は目を見開いた。そこは、昨日アブデュル女史が座っていた席だ。遥火は席を見回した。…なんてことだ、信じられない! 席が一つずつ、ずれている。まるで遥火を待ってますとばかりに! 遥火は長机の手前の、昨日シーアが座っていたあたりをちらっと窺った。案の上、席は一つしか空いていない。


「お断りよっ」


「いいえ、あなたの席はここです」


 サファヴィーがぴしゃりと言った。


「さっさときなさい」


 これはアブデュル女史だ。シーアはおろおろと突っ立ったままでいる。遥火は内心でため息をついた。


 ――もう、なんだってこんなときに…。


 でもそんな内心は少しだって顔に出さない。遥火は肩をいからせてずんずん歩き、音を立ててサファヴィーとアブデュル女史に挟まれた席に座った。


 世界で一番いちばんみじめな席だと遥火は確信していた。


「では食事を始めましょう」


 シーアが申し訳なさそうに席に着いてから、頭の上で声が聞こえた。ああ、もう、あんたなんて大っ嫌いよっ!


 食事が始まっても、遥火は水のグラスばかりを口に運んでその場をしのいでいた。時々目に入るシーアとフロンティアは気の毒そうな瞳で見つめ返してくる。


 カールとニジェールは同じ側の席なので見ることができないが、きっとシーアは彼らに話しただろう。それは遥火にとって、ほんの少しだけ慰めになった。そしてまた少し慰められたのが、給仕が運んできたメインディッシュの大きさだった。なにかの肉にソースがかかったものだったが、遥火のはアブデュル女史の半分くらいしかない。


 ――でもこんな嫌な空気のところじゃ、一口だって食べられないわよ。


 遥火がまだ水を飲むポーズをとりながら、肉をうれいを込めた瞳で見つめていたときである、突然斜め上から掠れたような小さな声が呼びかけてきた。


「…遥火」


 その声の主はなんとサファヴィーだった。この食卓では、食事中に給仕が間に入って料理を配るため、席と席の間が普通より広くとられている。遥火の席には、同じ側の隣であるアブデュル女史より、どちらかというと角を挟んだサファヴィーの方が近い。この声は、おそらくアブデュル女史には聞こえていないだろう。


「なによ」


 遥火もつられて、小声で言った。もしかして水しか飲んでないことがバレたのかしら…。


「えー、…あの、先ほどの…あれですが…」


 遥火は目をぱちくりさせた。おかしなことに、サファヴィーはまるでニジェールみたいにしどろもどろとつなぎ言葉ばかり言っていた。何が言いたいんだ、こいつは?


「『あれ』じゃ分かんないわよ。何?」

「……先ほどの、あなたの格好です」


 ――さっきの? …ああ! あの下着姿ね。

 遥火は得心した。なに、こいつ。まさか面と向かって文句でも言ってくるのかしら。


 遥火は注意深く相手を見つめた。


 だが、サファヴィーの様子は、文句や非難を言いだすような感じでは全くなかった。おかしなことに、もっと大変みたいだ。ひどく言いにくそうに、くるくると表情が変わっていく。遥火は思わずきょとんとしてその様子を見つめてしまった。


「その…私から言うのもなんなのですが、あのような格好は、たとえどんなに手持ちの服が気に入らなくともすべきではありません。それも、誰がいるか知れない外から目に入る窓際に近づくなど、とんでもありません」


「誰がいるか分からないって…。いるのはここの使用人か、あんたでしょ?」


「半分は男性なのですよ! それもあなたの親族でもなんでもない。…現に今日いたのは私でした」


 サファヴィーは明らかにアブデュル女史に聞かれたくないらしい。小声のまま、早口でまくし立てている。

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