第8話

 楽しい夢をみていた。それだけは確かだった。


 次の日の朝、遥火ようかはその楽しい夢の中から、甲高い怒鳴り声によって引きずりだされた。


「遥火様起きてください。遥火様!」


 起こしにきたのは昨晩さくばん遥火を部屋まで連れてきたのと同じ、女使用人だった。


「まもなく朝食のお時間です」


 目を開けた遥火は、始めきょとんとして、やがて、ああそうかと理解した。ここは家族五人で眠る土の匂いのする部屋でも、兄弟三人で眠る涙に濡れた部屋でもない。まして、起き上がるときは屈まないと天井で頭を強打してしまう窮屈な夜行列車の二階の寝台でもないのだ。


 ここは昨日着いた、おっそろしく金のあるお城の、その一室。自分が引き取られた、ひどく嫌なところ。


 使用人がドアの向こうに消えたのを見送り、遥火はその続きに「しかし」とつけた。同時に、彼女に押し付けられた黄色の上品なブラウスと黄緑色の丈の長いスカートをぽいと放り投げる。


 しかし、ここで過ごさねばならないのも今日まで、いや、ひょっとするとあと一時間もないかもしれない。朝食が済むか済まないかのうちに、アブデュル女史にたっぷり言い諭されたサファヴィーが決断するはずだ。そう、こんなところ、早くもおさらばというわけだ! 


 うきうきする一方、一抹の不安を抱えながら、遥火はかばんのチャックを開ける。かばんは、元の家から持ってきたものだ。


 御者に言われて馬車に置いたままにしておいたのだが、ちゃんと運んでもらえたらしい。


 不安に思ったのは、ここを出てからのことを考えてしまったからだっだ。どうやって生きていこう? 働けるだろうか。自分のような子供を雇ってくれるところなんてあるのだろうか?


 先々のことを心配するのはそこまでで、遥火は突然、ぎゃっと悲鳴を上げた。

 遥火がかばんの中からつかみ上げたのは、青いしゃれたデザインのシャツだった。入れた覚えどころか一目だって見た覚えがない。


 慌ててかばんをひっくり返して、遥火は「キー!!」と叫び声を上げた。そのまま立ち上がり、かばんから出てきたものの山を蹴りつけて地団駄じたんだを踏む。

 えりの長い薄紫色の長袖ブラウス…ピカピカのスパンコールがたくさんついた黄色の一段のスカート…肩のぱっくり開いた涼しげな水色ブラウス…。


 なんだこれは。どれもこれも一度だって見たことがない、ましてや元の家にあったはずもない新品のおしゃれな洋服! それに対して、あるはずの服は影も形も見当たらなかった。昨日城に着てきた服と同じ型の服、二着だ。一着は着替え用の古着、もう一着は別れ際に村人たちがくれた新品だったのに…。靴下も…腹巻まで、透き通った色の、柔らかいものにかえられている。


 ――な、な、なんてこと!


 遥火は憤慨ふんがいしすぎてくらくらしてきた。あいつらのどこにあたしの服を勝手に持っていく権限があるわけ? 信じられない。…許せない!

 

 ――見てらっしゃい。


 遥火は目をぎらぎらさせて、足元にそびえる洋服の山を決然と睨みつけた。

 

 一階の食堂では、遥火を起こしに出て行った使用人が戻ってきてから三十分が経っていた。もうすっかり整えられた朝食を前に、屋敷の主と使用人たちが食卓の周りを埋め尽くしている。空いている席はただ一つ。下座の左横、遥火の席だ。


「遅いですね」


 アブデュル女子がイライラとつぶやいた。それをなだめるように隣の席の当主が声をかける。


「もうすぐいらっしゃいますよ。初めて着る服ばかりでしょうから準備に戸惑っているのでしょう」


「わたしは、遥火は食事にこないつもりなんだと思いますわ。サファヴィー様」


 フロンティアが言った。二十分前までは、怒り心頭で押し入ってくるほうに賭けていたが、それにしては時間がかかりすぎている。


「なぜです? 遥火は食事が嫌いなようには見えませんでしたよ」


 サファヴィーがこう返すと、フロンティアとシーアは視線を交わし合ってこっそりため息をついた。朝食はまだ当分食べられそうにない。


「しかし、遥火は服の合わせ方も知りませんわ。やはりわたしたちが着せて差し上げた方が良かったのではありませんか?」


 遥火を起こしに行った使用人が言った。


「遥火は他人に衣服を着せられるのを昨日とても嫌がっていたそうです。それに、今回の着こなしで彼女の感性を知ることができるでしょう。楽しみです」


「感性なんてあるわけないわ」


 使用人の一人はぼそっとつぶやいた。


 ――こないに決まっている!


 フロンティアとシーアは思っていて、カールはまだベッドの中で寝こけていると踏んでいた。


 食卓を囲んだ一行の中で、正解に最も近い予見を抱いた人物は、朝からおびえた表情をしたニジェールだった。彼は、何かみなの予想より遙かに悪いことが起こるのではないかと思ってびくびくしていた。


 突然、サファヴィーが表情を変えて正面に目を向けた。彼を見つめていた多くの者がそれに従い、やがて全員が同じ方向を見つめる。

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