第4話

「あの、アブデュル女史、何かありましたので当主をお呼びいたしました…」


 サファヴィーの横に立つ、気の弱そうなさっきの執事が、アブデュル女史を窺うように見ながら気弱そうに言った。


「ニジェール!」


 アブデュル女史が悲鳴じみた金切り声を上げる。


「あれほどどうでも良いことで当主のお仕事の邪魔をするなと…いえ、どうでもいいことではありませんね。ここは当主にいて頂いた方がよろしいかも」



 アブデュル女史が思案顔しあんがおでこう言うと、ニジェールと呼ばれた青年は明らかにほっとした表情を見せた。と、ついに当のサファヴィーが口を開いた。



「いいえアブデュル。良いのですよ、ニジェール。この家の者は誰であっても私を呼びつけてよいのです。ましてやあなたは私の秘書なのですから。――ええ、それで、遥火ようか



 サファヴィーは視線をニジェールから遥火に向けた。白い顔がさらに白くなっている。



「その、いったいどうしたのですか? 私は初めて聞きました。あんな…いやいや、申し訳なかった。私の配慮の足りなさがあなたを傷つけてしまったようです。許してください」



 遥火はイライラした。様子から察するに彼は自分の暴言を聞いたようだが、最初のやつはその何分も前にここを離れていたから聞いてないはずだ。とすると二度目の、アブデュル女史にちょっと言い返しただけのものでこれだけショックだったらしい。


 ――それに何? 申し訳ない? この後に及んでもまだ善人ぶるのね。


 今や遥火は絶好調のようだった。皮肉の効いた罵詈ばり雑言ぞうごんがすらすらと口を出てくる。



「配慮が足らないってなによ? どんな配慮が必要だったって? ゴキブリでも、モグラでも見せておいてこの人たちを、汚いものを見ても驚かないように訓練しておくこと? あたしが怒ってること、本当に分かりもしないで、謝っときゃあ自分がいい人に見えるって思ってるわけ!」



 さあお望み通りさらにすごい暴言を吐いてやった。思ったとおり、サファヴィーはもう遥火がこの城を見たときの三倍は唖然としている。アブデュル女史はもう十回もまあまあまあって言い続けている。そしてついに女史の「まあ」が止まった。



「…まあまあまあ! もう、当主にまで! もう結構です。もうあなたの言うことは聞きません。フロンティア! シーア! そして皆さんも、手伝ってください! この子をお風呂に入れてしまうのです! そうしたらあかと一緒にこの子の心にこびり付いた今みたいな汚い言葉も少しは落とせるかもしれません!」


「入らないわよっ! お風呂なんて大嫌い。特にこんな腹黒城のお風呂はねっ!」


「なんって憎たらしい子!! みなさん、かかりなさい!!!」


 整然と並んでいた人たちがどっと動き、一斉に遥火を取り押さえにかかった。気付いてみるとどの人もみな、話に出てくる召使いの格好をしている。アブデュル女史は使用しよう人頭にんがしらなのだ。



 でも今はそんなことより使用人たちのこの手をかいくぐることの方が遥火にとっては大事だった。



「寄らないでよっ! あたし、水虫なのよ! 触ったら一瞬でうつるんだから!! そしたら死ぬわよっ! かゆくてもだえ死ぬのよ!」



 ニジェールも下に降りて行ってしまった。一人階段の上に残ったサファヴィーは、眼下に広がる玄関ホールの光景を呆然と見つめていた。昨日までは厳かで、清々と輝いていたホールが…。玄関から階段まで真っ直ぐに伸びた赤い絨毯の左右に、きちんと整列した使用人たちが控えていたホールが…。

 ――今では、赤い絨毯はあちこちよじれている。少女の「水虫!」という言葉に使用人の半分が逃げ出し、それを少女が追い、そして残りの半分が少女を追っている。


「大丈夫! 水虫は簡単にはうつらないわ! それに、足に触れなきゃいいのよ」



 使用人の一人がこう叫ぶのを聞いて、サファヴィーは右の人差し指でこめかみを押さえる。そのまま、ふらふらと仕事場へ戻っていった。

 


 それから三時間後、サファヴィーは夕食の並べられた白いテーブルクロスのかかった長机の上座に座っていた。まだ誰一人そろっていない食卓の両脇を見やってため息をつく。そしてその四分後、使用人たちに押さえつけられるようにして正面の扉から入ってきた少女に、いくらか目を見張った。



 そこに立っていたのは昼間とはまるで別人の少女だった。似ているところがあるとすればこの国では彼女と、その兄弟だけしかもっていないであろう黒髪と、黒い目ぐらいだ。しかし実のところ、はっきりそれと分かるにはただその顔に浮かんだ表情を見るだけで十分だったのだが…。



 しかし顔つきはどうあれ、遥火は本当に美しくなっていた。まさに垢抜けたというやつだ。



 ――そういえば母さんの肌は真っ白だった。



 遥火は鏡で自分の姿を見て思った。それに、父も、日に焼けていない部分は結構色白だった気がする。遥火は日に焼けていたはずだった。だが、いつも水を少し浴びる程度の風呂だったので、全身に残った泥が、太陽の光をこれまで防いでいたらしい。日焼けだと思っていたものが土や泥だったのだ。



 今、城の、泡立ちのよいおかしな匂い(この匂いを使用人たちはかぐわしい香りと呼んでいたが)のする石鹸をつけた、ちくちくする布で、使用人たちにここぞとばかりに磨かれた遥火の肌は白く輝いていた。それが目や髪のつややかな黒ととてもよく映えている。髪も使用人たちに無理やり三度も洗わされ、何百回もくしを通された。そのせいで、今のような「艶やかな」と形容されるまでになっている。



 服はこれでもかというほどフリルのついた、スカートが三段になっている真っ赤な服を無理やり着せられた。しかもこの腹回りがきつすぎる。遥火はアバラが見えるくらい痩せてはいたが、便秘のため下腹だけがぽっこり出ていた。

 ついでに言えば、たまたま遥火を取り上げた産婆さんばの腕が悪かったために、彼女は軽いでべそだった。それも風呂に入れられたとき、使用人たちにしっかり見られてしまっている。


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