第3話

「あなたのお世話は、アブデュル女史に任せます。――アブデュル」

「はい」



 呼ばれて一歩横に踏み出し、遥火ようかに向かって礼をしたのは、あの右奥の、おばさんだった。一番長いこと遥火に驚愕きょうがくの眼差しを向けていた人だ。いや、彼女には隠そうなんて気は無かったのかもしれない。お辞儀をして顔を上げた今でさえ、遥火をそうゆう目で見ている。遥火は本心を押し隠すのが一番上手な当主を一番嫌いになった。だが、押し隠そうともせずずっとそんな表情で見つめてくる人を好きになるわけでももちろんなかった。彼女もかなり嫌いだ!



「アブデュルのことはアブデュル女史と呼びなさい。彼女の言うことを良く聞き、慣れるまでは一人で行動しないこと。良いですか?」



 聞かれた遥火はうなずきもせず、やはりポカンとサファヴィーを見つめていた。


 ――こいつ、今突然命令口調になった…。なんて早く本性を見せるんだろう。


 だが、サファヴィーには遥火の返事など必要なかったらしい。彼は、



「ではあとはアブデュルに任せます。なにかあったら人をよこしてください。食事は遥火も一緒にとります。その席で彼女には自己紹介をしてもらいましょう。――では、私は仕事に戻ります」



 と言ってさっさと階段をあと一段か二段登って行ってしまった。


 ――だからあんなにちょっとしか階段を下りなかったのね。


 遥火は憎々しげに思った。「ヨウカ」って呼び捨てにしたわ。嫌いになると何をされるのも嫌になる…。



 サファヴィーの姿が完全に見えなくなると、アブデュル女史がおもむろに遥火に向かって歩みだした。



 遥火は身を固くして、そして身構えた。遥火を見る表情はいまだ健在のまま、アブデュル女史は言い切った。


「挨拶も、話も、何もかもあとです。とにかく入浴していただきます。その汚い靴も服も脱いでしまうのです。まったく恐ろしい姿!あなたはこれまでいったいどのような暮らしをしてきたのですか?」

 

 カッチーン!!


 アブデュル女史の言葉はしっかり遥火の腹立ち数値計を振り切らせた。普段の遥火なら、初めて訪れたこんな豪邸で反抗して叫びだしてしまうほど考えなしでも度胸ありでもなかった。



 しかし今は四週間前に両親を亡くしていた。そしてこれまでこの城における本当に短い滞在時間にも確実に大きな不快感を被っていた。両親が死んで、別れたくもない兄弟たちと別れ、来たくもないのにここへ来た。それなのにこの女は自分の、自分の今までの暮らしさえも侮辱したのだ。遥火は心の内からあふれ出してきた言葉をぶちまけてやった。



「何が、なっ、おそろしい姿ですってぇ!? さっきからみんなして人のことを化物かなんかみたいにじろじろ見て、やっぱりそう思ってたのね! 何よ! あんたたちなんて金があるだけのロクデナシじゃないの。そうやって自分より貧乏で汚い服を着ている人を見下すのね。ええよく筋が通ってますこと! 両親が死んで、兄弟とも別れ別れの、哀れな汚くって貧しい少女はあんたたちみたいな頭に金しか詰まってない連中に蔑まれるのよ! あいつも何よ、サファヴィー=エカチェリーナ?? さぞや私の名前を覚えるのは簡単だったでしょうよ。あいつも顔と身なりがいいだけで中身はあたしの格好よりずっと汚いじゃない。あたしを見て汚いって思ったのに、自分はそんなこと少しも思わなかったって顔して!!

 ――大っ嫌いよ、あんたたちなんてっ! この家の人たちも、ぜーんぶっ!!」



 言い終えると、玄関ホールは水を打ったようにしんと静まり返っていた。天井が二階までつき抜けになっている、恐ろしく広いこの部屋の中でも、遥火のわめき声は十分に響き渡った。



 アブデュル女史も、その後ろの並んでいる人々も、みんな遥火が始めて城を見たときと同じか、それ以上唖然としている。そのため、列の一番後ろにいた一人の男がそろそろと階段を上がっていったのに、誰一人気が付かなかった。



 一方遥火は一気にまくし立てたため真っ赤になってしまった顔で荒い息を吐いていた。そして遥火の息が整ったころ、沈黙は終わりを告げた。


「な…なんて…」


 アブデュル女史だった。あまりのことにしゃべるのも大変そうだ。


「なんてことを! あなたのことを汚いと言ったのは当たり前ではありませんか! その服、その顔、その靴! 本当にその通り。どれにも泥がこびり付いているではありませんか! それに、まあ、当主のことまで。あの方の心があなたの身なりよりも汚いですって!? あなたを見て汚いと思わない人間はありません。当主はあなたのような方をご覧になった経験が無いからただ驚いていたのです。それを隠したのはあなたへの心遣いに決まっているでしょう! 血縁的には何の関係も無いあなたを引き取ってくださったあの方になんてことを! 訂正なさい!」


「引き取ってくれなんて頼んでないわよ。こんなひどいところだって知ってたら尚更よっ! 心遣いですって!? 何であんたにそんなことが分かるのよ。ずっとこっち向いてて、あいつの方なんか見てなかったじゃない」


「まあまあまあ…! なんて子!」


 アブデュル女史はあまりの怒りに体をわななかせていた。こんなこと人生で初めてだ!



 そのとき、みんなの背後、遥火の前方からカツカツカツッと二人分の足音が近づいてきた。みんながその音のした方に目を向ける。案の上階段の上にはサファヴィーの姿があった。


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