第7話

「ねえ見て。愛人が正妻に助けを求めてるの図、おもしろいでしょ」


 旅館の畳の床に直に座って、私と肩を寄せ合っていた玲司は、光る画面を一瞥したあと小さくため息をついた。


「ゆーか」


 玲司に肉声で名前を呼ばれるのはじつに七年ぶりのことになる。


 眠れないときはこれを使ってと医師から処方されてた三日分の睡眠薬とか、家に常備していた風邪薬とか、私が飲んでたサプリとか、とにかくありとあらゆる錠剤をちゃんぽんにしてワインとともに流し込んだ先輩は、しこたま吐いたあと昏倒しのだという。


 マナーモードにしたスマホに先輩のガールフレンドから大量のメッセージが溜まっていたとき、私は玲司に手を引かれて電車に乗っていた。


 逃避行がしたいといった私のために玲司が探してくれた宿まで、三時間半かけて揺られながら、遠くにやってきた。


 畳の部屋で身を寄せ、互いに互いへと体重を預けたまま、私たちはことの顛末を眺めていた。


 はじめは状況説明だったメッセージは反応がない怒りの声へと代わり、今となってはお願いだから電話に出てという懇願の文面になっていた。


「おまえはこれでいいのかよ」


 そういわれて、私の口から漏れ出たのは笑い声だった。けれど、呼吸をするたびに繰り返しのどが詰まるようなこれは嗚咽にも似ていた。


 飲み込んだ粒を吐かせるために水を無理矢理流し込まれて、腹を圧迫されて、のたうち回ることもできずにされるがまま苦しんだであろうあのひとのことを思う。水が満ちるような苦しさとともに、心が強く揺さぶられる。ああ、と思わず息が漏れる。


「れーじ」

「おう」

「明日病院に行くからいっしょについてきて」

「うん」

「だけど今日はもう無理だから、ゆるして」

「わかってる」


 私の隣でずっと畳の目を数えていた玲司が、ぽつりと「ごめんな」といった。伏せられた瞳は猫のように目尻がつり上がっていて、くるくるとうねる髪は異国の血が交じったような明るい色をしている。


 胸の奥から、ずっと閉じ込めていた、とっくに壊死していたと思っていた気持ちが溢れてくる。


「遅いよ、バカ」


 十七歳の夏、両親が離婚した。二人はよく話し合った結果、財産分与の延長のように粛々と、おやつのクッキーを割るような気軽さで、双子の姉弟を平等に半分こに分けた。


 水原玲司は私の双子の弟である。


 私たちは高校生になってからもいっしょにゲームをしたり同じものについて議論したり、けっこう仲の良いきょうだいだった。


「なんで私を置いて出ていったの。父さんか母さんかなんてそんなのどっちでもよかった、ただ玲司といっしょにしてくれって、私いったのに」

「ああ」

「なんで迎えに来てくれなかったの、これからはふたりで支え合っていこうって、約束してたのに、なんで」

「ごめんな」


 十七歳の夏の日、離婚する報告を父方の実家にしに行くといって私以外の三人は出かけていった。玲司と私は別々の高校に通っていて、定期試験が近かった私だけ、ひとり置いていかれたのだった。


 両親が未成年の私を預けるのに選んだのは、二人の離婚の元凶となった父の愛人の元だった。


 三日で迎えに来てくれるはずの両親は一週間が経っても戻らず、いつでも連絡をくれるといっていた玲司からは、一日でメールの返信が途絶えた。


 私は賞味期限が三日過ぎたパンを朝食にして学校へ行き、夜は女とともに夕飯を囲って魚の食べ方の指導を受けた。食事のあとには、大学を出ているのだという女から数学の勉強法について学校の方針への意見をいわれたり、運動不足を指摘されたりしながら、十日間を過ごした。その翌日になってようやく玲司からメールが届いた。


『え、おまえまだ愛人ん家にいるの?』


 父の実家で揉めた両親はそのままケンカ別れをしていた。あの日、玄関で三人を見送る私に、気にするような視線向けてから出ていった玲司とは、それっきりになった。以来七年間のほとんどをメールでしかやり取りしていない。


 腹立たしく別れた夫の愛人の家までやってくるだけの胆力は母になかった。


 もう電車にくらいひとりで乗れるし、路線だって調べられるし、お金の使い方だってわかるのに、未成年だからとひとり自宅に帰ることは許されなかった。私がいないほうが、家の片付けも楽だったのかもしれない。


 ようやく帰ってこいといわれたとき、私は愛人に頭を下げて滞在の礼をいわなければならなかった。住人が半分に減った久しぶりの我が家では、さっそく不機嫌そうな母親が私の勉強の進み具合を尋ねた。


 だれも私に謝ってくれる人間はいなかった。今の今まで。


 どうしてそんなことができたのと問い詰めたかったし、なんでよと腹を立てたかった。でも、生活費とか大学とか将来とか、二人の離婚調停とか、雑多なことが身の回りにはたくさんあって、そうした日々のダメージを背負いながらあのとき受けた傷まで直視する力はなくて、私は、目を逸らすことを選びつづけていた。だけど。


 きっとあのとき私は死んで見せてよかったのだ。オーバードーズでも手首を切るでも、泣き喚いて、頭皮に爪を立てて、ひどいと叫んでよかったのだ。父と母を、玲司を、責めてよかったのだ。そう思わせてくれたのは先輩だった。


 そのことにはたと気がついて、悲しくて悔しくてしんどくて、たまらなくあの人が愛しくなった。私のために、私のせいで傷ついて、ためらわずに心臓を掻きむしったひと。


「先輩に会いたい」


 ようやくあの日の呪いが消えていくような気がした。


「先輩に謝りにいかなきゃ、私はあのひとに謝りにいかなきゃ」


 同じだけの傷を負わせて、私の代わりに傷ついてくれたひと。


 あのひとの傷痕を見ることができたなら、きっと私は今よりずっと楽に息をすることができる。




 俺の胸元に片耳をつけて、彼女はぼんやりと心電図を眺めていた。その手は俺の手をしっかりと、離さないように握っている。


「やあ、おひめさま」


 そう声をかけると、彼女は少し目を見開いて身体を起こした。目を開けている俺を見て、泣き笑いのような顔をした。


「おはよう、私の王子様」


 手を握ったままの彼女がそっと距離を縮めて、俺の額にキスをした。


「置いて出ていってごめんなさい。家に他の女を呼んでごめんなさい」


 そのことをいわれるとまだ心臓のあたりがぞわぞわする。


「いっしょう、ゆるせない、かもしれない」


 受けた傷は一生痛むかもしれない。


「うん、それでいいよ」


 私のこと一生忘れられないってことだよねと、握りしめた手を頬に宛てて、彼女が嬉しそうに微笑む。


「それでもまだ、そばにいてもいい?」


 そう問う彼女に、ああ、と思って目を閉じた。




 いつか、いつの日か、「俺のことを置き去りにしたくせに」と今日のことを盾にして、このひとが私を呪う日が来るかもしれない。でもきっとその言葉は甘やかだ。愛してるっていわれるみたいに。

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この夜が完結するまで 祈岡青 @butter_knife4

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