第5話
音を立てて全身の血の気が引いた。腕の中の先輩が呻き声のあいまに「頭」とか「気持ち悪い」とかいうものだから、脳の血管が切れたかと思って、人生で初めて救急車を呼んだ。最近飲みに行ったまま帰れずに会社に直行していることは知っていたし、その回数の多さになんとなく不安になってもいたから。
「先輩」
「なまえ」
病室の白いベッドで目を閉じているはずの彼から、すかさずそんな突っ込みがあった。
「貧血と疲労と寝不足のトリプルパンチですって。点滴が終わったら帰ってもいいらしいですけど、数日間は絶対安静だそうですよ」
「敬語」
「真面目な話をしているのですが?」
先輩は倒れてから少しわがままになったと思う。子供のようにくちびるを尖らせて不満を露にする先輩の姿なんて、見たこともないし想像したこともなかった。
「とにかく、今回は軽症で済みましたけど、早急な生活リズムと食習慣の改善が必要です。三十代ってシャレにならないですよ?」
こちらとしてもまた救急車沙汰は勘弁してほしいという願いを込める。もぞもぞと身じろぎをして、先輩は不服そうな顔を私に向けた。
「じゃあ佑果ちゃんがごはん作って」
「はい?」
「佑果ちゃんが手作りごはん作って待っててくれるなら毎日ちゃんと帰る」
そんなわけで、私は仕事帰りに『身体にやさしいおかず』とか『栄養バランスの基礎』とかいう本をどっさりと買って、ほとんど使ったことのない最寄り駅付近のオーガニックスーパーに行かないといけなくなった。どうせ今から発生する食費は先輩持ちだし、やるからにはとことんこだわってやるという気持ちで、高い食材を買う。
別に料理をすること自体は嫌いじゃない。レシピ通りに作るのも得意だ。先輩の家のあの無駄に広いシステムキッチンならよっぽど快適に作業ができるだろう。本のとおりに作るのだから味の文句もいわせない。
そうやって鼻息も荒くマンションに到着し、オートロックと華々しいエレベーターホールを抜け、1102号室へと向かう。部屋の前まで来たところで、鍵を差し入れるより早くドアのほうが先に開いた。
「おかえり佑果ちゃん。そろそろ帰ってくる頃だと思ってた」
少しくたびれたシャツとゆるいズボン姿の先輩はなんだかずいぶんと幼く見えた。七つも離れているように見えない。不覚にもきゅんとさせられたわけだけれど、ただいまと一歩近づいたところで、嗅ぎなれない苦い匂いがして目を剥いた。
「先輩、まさか、煙草吸いました?」
「うんまあ。ひまだったから少し挑戦しようと思って」
「あなたまたぶっ倒れたいんですか!」
えー、大丈夫だよ一本くらいといい終える前に、先輩がごほごほと咳き込んだ。信じられない。
救急車で運ばれている最中、河畔の花畑にいる夢を見たのだという先輩は、その三途の川岸に頭のネジを何本か置いてきてしまったらしい。
玄関先でまだ咳をしている先輩の手を片方に掴み、もう一方に鞄とスーパーの袋を下げて居間に入った。中央に置かれているソファに先輩を座らせ、端のほうでくしゃくしゃになっていた毛布をたたみ直して膝にかけてやる。
「昼のお薬は飲みましたか」
「まだ」
「は?」
「飲ませて」
小首を傾げた先輩が私に微笑みかけた。座っている先輩からの視線は必然的に上目遣いになる。あざとい。
「それっていわゆる口移し的なことですか」
「可能なら?」
「粘膜での接触はまだちょっと」
「ねえ、言い方」
ちぇーと盛大に眉をひそめたあと、一転して先輩は上機嫌に笑った。
「なんだか立場が逆転したみたいだね」
倒れたことにかこつけて仕事を一週間ほど休むことに決めた先輩は、前までの完璧な年上男性っぷりをすっかり捨ててしまった。
「ねー」
「ぐえっ」
にんじんを切っている私のところまでやってきて、私の頭上にあごをのせるようなこともするようになった。ちょうどつむじにヒットしたせいで蛙が潰れたような声が出た。肩口に移動した先輩の頭がぷるぷると震えている。声を押し殺して笑っているのだ。
「ほんといっときますけど、今私片手に包丁持ってますからね?」
「ごめんごめん」
前より頭がゆるゆるとして可愛くなった。かっこいい先輩も大好きだったけど、こちらもまた悪くない。うん。だけどなぜか、こんなときほど無性に外の空気が吸いたくなる。
『玲司くんいる?』
『おう。旦那大丈夫?』
『ぶっ倒れてから可愛くなった』
『おう……?』
人の身体に体重を預けたままぼんやりし始めた先輩を、リビング隣の自室のベッドにまで追いやり、沸騰した鍋に切った野菜入れて弱火にかけたところで、私はずるずると崩れ落ちた。
『どうしてか息が詰まりそう』
世界が閉じていくような、胸に水が満ちていくような息のできなさがある。
『私さ、先輩のこと』
言葉をまとめようとしたとき、鍋が水蒸気を吹き上げて唸った。慌てて蓋を取ったおかげで中身がこぼれるのはまぬがれた。火を止める。横の炊飯器では米が炊き上がるまであと40分と表示されていた。
「風呂でも入っちゃおうかなあ」
あと皿に盛るだけだし。そうしてだるだると一番奥の自室に向い、着替えを手にとって出てきたところで、ひょっこりと先輩に出くわした。
「おふろ?」
「あれ、寝てなかったんですか」
「うーん」
ラフな格好でこすこすと瞳のあたりをこする先輩はやはりあざといし可愛い。
「俺もいっしょに入る」
「は? それはさすがにないです」
不満げな声を上げる先輩を手で追い払い、そうそうにバスルームの扉を閉めた。
頭からシャワーを浴びて、壁のタイル地に額を押し付けて、考え事を空っぽにしたとき、私の内側から泡立つのは暗い声だ。
頭がぼうっとしたままバスルームを出たところで、うずくまっている先輩がいて、思わず「うわ!?」と声が出た。
「先輩!? どうしたんですか」
触れようとした手を掴まれて、引き込まれた。体勢を崩して倒れ込んだ私を覆うように抱き締めた先輩の表情は見えなくて、まるで繭の中に閉じ込められたようだった。
「佑果ちゃんあったかいね」
「風呂あがり、ですから」
シャツの胸元のボタンが三つも開いている。そのあいだから触れた先輩の肌は驚くほど冷たい。それで、湯たんぽかなにかの代わりのように私を抱いて頬を寄せる先輩に、ああ、と思った。
先輩がかわいくて、先輩のことが欲しくて、息が詰まりそうだ。こんなにもゆるゆるとして、少し弱っている先輩を置き去りにして、どこかへ行ってしまいたい。
私がいなくなったら先輩はごはんを食べるだろうか。薬を飲むだろうか。ちゃんと眠るだろうか。先輩は、傷付いてくれるだろうか。
心臓をかきむしって苦しむあなたが見てみたい。私はこのひとを、傷ものにしたい。
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