第4話


 二人でゾンビものの映画を観ていた。わーきゃーいいながら、登場人物に野次を飛ばしながら、俺たちは笑いあって腕を絡ませていた。不意に目が合う。少しだけ真剣な面持ちで彼女の肩に手を置くと、笑顔が少し強ばった。いっそ怯えているに近い。いっしょに暮らすようになってもまだ俺のことを青山先輩と呼ぶ彼女に、少しだけ微笑む。


「キス怖い?」

「まだ心の準備が、ちょっと」

「じゃあ今日はやめとこうか」


 本当のところは"今日も"だったけれど、婚姻届も出したし、今さら先を急ぐようなことはしないつもりだった。けれど。


「いえ!」


 思ったよりも強い声で彼女は俺を引き留めた。大きく見開かれた目が、必死になって俺を見つめている。


「やります」


 さて、君はそうやってこないだの新プロジェクトも引き受けたな? ということがちょっと頭を過った。


 ごくりとのどを鳴らして、だけど手を伸ばしてすがりつく相手も俺しかいないこの状態を、どう打開するつもりだろう。内心楽しみに眺めていたら、急にシャツの胸ぐらを掴まれて、きつく目をつむった彼女のくちびるが軽やかに俺に触れた。ふわりと長い髪が揺れ、シャンプーの匂いがする。


 甘やかな時間は一瞬だった。勢いよく顔を上げた彼女は、完全に取り乱した様子で「おやすみなさい!」と言い残して部屋に戻ってしまった。


 テレビ画面ではまだゾンビの首が吹っ飛んだりしている。


 大きくため息をついて、頭を抱えた。どうしようぐっときた。ぐっときたけど、さすがに追撃するのはまだだなという理性は働いた。


「あーもう」


 スマホを片手に取る。後腐れなく一夜だけパパっと遊んでくれるやつ、いないかなあ。そうやって外で発散するようになったのも、結局のところ全部君のためだと、俺は今でも思っているんだけど。


『不倫ごっこをしようよ』


 そう言い出したのは彼女のほうからだった。水原玲司という、聞いたこともない男の名前が彼女のスマホに出て、少しだけ気になって、メッセージを見てしまった。最近始まったばかりらしい水原玲司とのやり取りは数スクロールで終わってしまった。


「どこまでが浮気だと思う?」


 そんな話をしたのはいつだったか、まだセーターの上にコートを着込んでいたような季節の、雨の日だった。どこかのカフェのカウンター席で、雨粒に濡れた窓越しに通りを眺めていたとき。


「気持ちが移ったらです」


 それが彼女の答えだった。


「気持ちが移っていたらなにもかもダメです。メールするのも二人で会うのも手を繋ぐのもアウトです。ていうかそもそも、手を繋ぐのってそういう気持ちがないとしなくないですか?」

「まあ確かに」


 じつは何度か手を引くなどのさりげない方法で手は繋いでるんだよなあと思いつつ、頷く。


「その分、ワンナイトラブって意外と平気かもです」

「お、いうねえ」

「いやイメージですけどね。モテる男性はかっこいいっていう。とにかく一番大事なのは気持ちですよ」


 ふふん、となぜか得意気に鼻を鳴らした彼女の表情もつられて思い出す。


 俺のことをまだ先輩と呼ぶ君が、ぽんぽんと気軽に楽しげに知らない男とやり取りをしていて、あまつさえ愛してるとかなんとかいっている。

今すぐ押し倒してぐちゃぐちゃにしてしまいたいと思った。でもそれはきっと俺のわがままで八つ当たりだから、まだ、ソファでうとうととしている君にはぶつけない。


「大丈夫? 眠くなっちゃったの?」

「んー」


 猫がごろごろとのどを鳴らすのに似た返事をする年下の彼女はかわいい。髪を撫でて、抱き寄せて、額にキスをする。


 好かれているのを見誤ったりしないのに。君は俺のことが好きなのに、どうしてまだ俺のものになってくれないのだろう。


 その苦さや後味の悪さが煩わしくて、夜遊びに耽っていった自覚はあった。ちょうど仕事も忙しさを増していて、電源の落ちるぎりぎりまで会社にいることが多くなっていたし、気晴らしに酒を飲みに行けばあっというまに電車がなくなる。もういいやと朝まで飲み明かして、シャワーを浴びるためだけに家に帰りまた出社、なんてのをちょっと繰り返しすぎていたころ。


 台所でグラスとつまみの載っていた皿を洗う彼女を、ぼんやりとした頭で見やる。二人でいる時間は穏やかでいとしい。


 結局家に帰れても夜が深まれば外に出てしまいたくなる。今日もまたそうなるだろうなと思いつつ立ち上がろうとして、頭の芯がすっと冷えて、失敗した。たった今座っていたはずのソファを手で探りながら、ずるずると倒れ込む。


「え? 青山先輩?」


 ジャグジーから流れ出る水の音が異様によく聞こえた。呼吸を繰り返すことだけで精一杯だった。


「先輩!」


 すっ飛んできた彼女に、大丈夫とか苦しいとかそういうことではなくて、


「なまえ、よんで」


 気が付けばそういっていた。そして彼女はためらいなく俺の名前を呼んだ。


「誠人さん!」


 今にもホワイトアウトしそうな視界に彼女の泣きそうな顔が重なる。


 前に、彼女の乗っていた電車で急病人が出たからと、待ち合わせに一時間近く遅刻してきたことがあった。改札から出てきた彼女は真っ青な顔をしていて、俺を見つけるなり上着の袖口を掴んできた。事前に連絡をもらっていたので、弱々しげにごめんなさいと呟いた彼女には「気にしてないよ」と返した。それにしても、いついかなるときも後輩の立ち位置を遵守する彼女がこんな風に甘えてくるのは珍しい。


「ごとんって、糸が切れたみたいに隣の人が倒れて」


 袖口を握っている腕ごと引き寄せても、ほとんどゼロ距離になっても、彼女はまだ俺のことを見上げていた。


 「すごく怖かったです。快速だから次の駅まで7分もあるし、それまでに呼吸が止まったり心臓が止まったりしたらどうしようって。そのとき処置をしなきゃいけないのは近くにいる私なのかって、思ったら、逃げ出したくてたまらなかった」


 そんなことをいって何度も深呼吸をしていた彼女が、崩れ落ちる俺のことを抱き止めて、背中をさすって、手を握っている。俺の名前を何度も必死に呼んでくれている。俺はちゃんとこの子に好かれていたらしいと、場違いにも嬉しくなった。


 それだけで、目を閉じるには十分だった。

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