第2話

 二年ちょっと前、仕事でしぬほど悩んでいたときに、私は先輩と出会った。


「信じられる? 入ってまだ半年しか経ってない私に企画丸投げする? パートと派遣のマネジメントして他部署と折衝しろと? この会社は私以外全員無能か?」

「どうどう、佑果ステイ」


 もう、どうにもこうにもストレスを発散していくだけでは首が絞まりそうだった私に、大学時代からの友人は呆れながらいった。


「うちの大学の卒業生で集まって、仕事とか資格勉強の相談したりする交流会あるけど行ってみる?」

「行く!」


 と、二つ返事でついていったら、それは交流会という名の合コンだった。


 いわゆる良い大学と呼ばれる部類の学校ではあったけれど、OBOGがこんなにもきらびやかな世界の住人だとは思ってもいなかった。

 有名ホテルの会場に、フォーマルな格好に身を包んだ人々が溢れている。シャンパンの入ったグラスを持つ手は男女ともに上流階級の人間のような気品があった。けれど、何をしているかと思えば「綺麗ですね」「あら、そんな使い古された手に引っ掛かるとでも?」「本心から出た言葉ですよ。つい話しかけてしまいました」といった具合だったわけで、一瞬にして頭痛がしてきた。


 なんの足しにもなりやしないと隅のドリンクコーナーでやけ酒をあおっていたら、くすくすと可笑しそうにして声をかけてきた人がいた。それが先輩だった。


「ねえ君、どうしたの? そんな怖い顔してカクテル飲んで」


 背丈をもてあますようにして、ドリンクの置かれた台にもたれかかったその人は、下からのぞき込むように私と目を合わせた。ばちりとぶつかった視線の先、いきなり現れたよく通った鼻筋、切れ長の涼しげな目元に、思考回路が止まりかける。慌てて自分の視界をシャットアウトした。


「ちょっとちょっと。そんなにあからさまに拒絶しないで。多少は傷付くんだけど」

「わ、ごめんなさい、私ちょっと急なイケメンには耐性なくて、ごめんなさい」


 ぶは、と隣でその人が吹き出すのがわかった。のちのち先輩からは「あんなに素直に白状したのは佑果ちゃんがはじめてだったよ、酔ってたんだねえ」といわれた。


「ねえねえ、なんでそんなに怒ってたのか教えてくれる?」


 ひとしきり笑ったあとの弾んだ声が尋ねてくる。


「正直に、答えてもいいですか」

「どうぞ」

「せっかく社会で働いている先輩たちの意見を伺える機会だと思っていたのに、来てみたらただの合コンだったからです」


 本当にそんな率直なことがいえたのは、酔ってたからでもあるけど、話しかけてくる先輩の声がずっと優しげだったからだ。


「そっか、仕事で悩みがあるんだ」

「はい」

「よかったら聞こうか? 一応俺も社会で働いている先輩として」

「いいんですか?」

「うん」


 先輩はとても聞き上手だったし、真剣に話を聞いてくれたあとには、いくつか具体的なアドバイスもくれた。それがどれほど嬉しくて頼もしかったか。


「ああ、そういえば俺は85期生の青山誠人あおやままさとっていうんだけど、君は?」


 とっさに自分が何期生だったのかは出てこなかった。85期生といわれても、それが自分よりいくつ上の世代なのかもわからない。


「えと、私、星野佑果ほしのゆうかです。今年卒業したばっかなんですけど」

「え、うそ、新入社員?」


 うわー、ブラックだねーと親身になっていってくれただけでもだいぶ気持ちが救われたことを覚えている。


 また何かあったら連絡してと、交流会のメッセージグループを教えてもらい、その日は別れた。帰ってから卒業証書を引っ張りだして、自分が92期生だったことと、先輩が七つ上なことも知った。


 一週間して、青山先輩から『どう、元気にしてる?』という連絡が来た。話しやすいようにと、先輩は私がやり取りに慣れるまで定期的に会話を投げてくれた。その心遣いはさすが大人の男性で、憧れるのにも惚れるのにもそう時間はかからなかった。私のほうは、の話であるけれど。


「そろそろいっしょに住もうか」

「うん? え?」


 春先、まだ少し肌寒くて、外出に上着が手放せなかったあたり。カフェの二人席で私の正面に座る先輩は、頬杖をついていて、なんてことないみたいにそういった。口元は笑っている。こういう冗談をいう人じゃないのに、どうしたんだろうと私は思っていた。


「えと、先輩なにかありました?」

「いやあ、頃合いかなって思って」

「ころあい」

「うん、だってもうそろそろ付き合って二年くらい経つじゃん?」

「え?」


 しばらくのあいだ沈黙が降りる。


「付き合ってたんですか、私たち」

「うん。だってデートでしょ、二人きりで頻繁に会うなんてのは」

「え、デートなんですかこれ」

「うん、デートでしょ」


 口元まで持ってきていたカフェオレのカップを力なくソーサーに戻した。デート、だったのか、と思考が頭の中をぐるぐるしている。確かに最近は仕事の相談だけでなく、近況報告とか、行きたいお店に付き合ってもらうことが多くなっていた。いわれてみればデートだ。でも、先輩みたいな人はきっとすごくモテるし、私みたいな立ち位置の子はたくさんいるんだと思っていた。だから気兼ねなく好きになれて、会えていたというのもある。


 完全に言葉をなくした私に向かって、先輩は白い歯を見せて笑った。


「大丈夫、だって佑果ちゃん俺のこと好きでしょ。結婚もしちゃおっか」


 あまりにも爽やかに言い放つので、こちらも「あ、はい」と勢いで頷いてしまった。



 ワーカホリックの娘になかなか彼氏ができないことを心配していた母親はしかし、結婚するかもしれないという報告にあまりいい顔はしなかった。


「相手の男のスペックが高すぎる。佑果は美人でもないし家事も得意じゃないのに。ねえ、大丈夫? 騙されてない?」

「うーん」


 曖昧に微笑み返す。私にも先輩にも失礼なんじゃないかと指摘したい気もしたが、余計な墓穴は掘りたくなかったので黙っておくことにした。うちの母は父と離婚している。その件は私にも多少の爪痕を残していて、要するにこの手の話は二人とも地雷だった。


「そんなかっこいい人浮気するんじゃないの? あんたまともに付き合った人、その人以外にいるの? 外見だけじゃなく中身も見て」

「先輩以外にまともに付き合った人はいないけど、とりあえず先輩はいい人だよ。顔だけなんかじゃない」


 先輩とまともに付き合ってるのかどうかすらも不明だったけれど、そこだけは母の言葉を遮った。そこだけはきちんといわなくてはならない。

 これまで幾度となく助けられ、励まされ、慰められてきた確かな実績が先輩にはある。そう、今までのことはうそじゃないのだ。


「佑果」


 一人で頷く私の名前を母は呼んだ。


「自分の身の丈に合った人と結婚しなさい」


 それはつまり私と先輩は釣り合わないというド直球の言葉だったけれど、正論で、自覚もあったから腹も立たなかった。


「青山先輩、私、結婚式したくないですし、子供ほしくないですし、自分以外の他人にごはんを作ってあげるの苦手ですし、なんなら家事全般やりたくないんですけど」


 それでもいいのかという先輩への最終確認であると同時に、私自身のための条件設定でもあった。こんなでもいいのかと、これだけしてもらうのだからいいよなの条件。


「いいよ」


 我ながら何様のつもりだと自嘲したくなるような条件だったのに、先輩はいつもの笑顔であっさりとそれらを承諾してしまった。退路は断たれた。そうしたら、逆にものすごく書類にサインしたくなった。既成事実は大事だ。


 今まで先輩がしてくれたことでどんなに救われたか。その感謝の念だけでも五十点入るし、さらに商社マンだし住んでるマンションはすごく広いし、実家も裕福だし、そもそも先輩の顔がめちゃめちゃ好み、全然イケる、ということも踏まえて。これだけあれば余裕で百点だと何度も頷いたはずだった。たとえこの契約に感情が伴わなくなったとしても、これだけの条件があればお釣りがくる。だからきっと傷つかなくて済む。


 そう当時の私は思っていて、今現在の私といえば、広々としたベッドのうえにひとり残されて、愚かにも綺麗に割り切ることができず、腕で顔を覆って呻いたりなどしているのである。


 そんなどうしようもない日々を繰り返していたある日、先輩が家で倒れた。

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