この夜が完結するまで

祈岡青

第1話

 映画の地上波放送を眺めながらソファでうとうととしていたら、頭上から「大丈夫?」という優しげな声が降ってきた。うーん、と生返事をするとかすかな笑い声がして、おもむろに身体が宙に浮いた。融けそうな意識の中でまぶたを押し上げると、年上の彼の整った顔立ちと目が合った。面白いものを見ているかのように目を細めている。


「ほら、もう観念して寝なよ」


 彼が私を抱き寄せる。寄りかかった身体からはいい匂いがした。これはこの家のボディソープの匂いだ。触れた肩口や胸元から、彼の呼吸が伝わってくるのがくすぐったい。


「はい、お姫様。映画を観る前に歯は磨いた?」

「うん」

「よろしい。映画の前にちゃんとお風呂に入って寝間着に着替えたのもえらい」

「うん」


 ベッドに仰向けになりながら眺める彼のさらさらの黒髪、柔和な笑み、背が高く、頼もしい身体つき。


「おやすみなさい」


 正統派の王子様のような顔で私の額にキスをして、彼は部屋から出て行った。そうしてしばらくして、家の中に玄関扉の閉まる音が響く。


 暗い天井に向かって、左手を広げる。カーテンを閉めきった部屋のどこかからわずかに漏れ出た光を反射して、薬指を囲う小粒な石たちがきらきらと輝く。これらはすべてダイヤモンドなのだそうだ。


 いっしょに暮らすようになってから半年が経つけれど、彼のことを誠人さんと下の名前で呼ぶことも、夫や旦那と呼ぶことも未だに慣れない。


 いっしょになろうといってきたのは彼のほうからだった。七つも離れた先輩は私の憧れの人で、それと同じく先輩にとっての私も可愛い後輩の一人でしかなかったはずなのに、どうしてこの人は私にしたのだろうと今でも首を捻ることがある。そうやって、釣り合わないという自覚がありながら書類にサインしてしまったから。


「うぅ……」


 彼が夜な夜な出て行ったとして、本人に問いただすこともできず、呻くしかないでいるのだ。


 先輩には何人かガールフレンドがいる。


 そのどれもこれもがどこそこのパーティで出会った美女ぞろいであることを、私はピロリンと鳴った先輩のスマホの新着メッセージで偶然知ってしまった。写真を見て、ため息をついて、液晶画面をひっくり返した。浮気だという気持ちすらまともに湧かなかった。


 そりゃまあ、そうだよなーみたいな。私、そんなに胸も身長もないし、素肌にドレスを纏って着こなすなんてことできないし。それよか、彼女たちを抱き寄せて、普段私に見せるのとはまったく違う冷たい瞳をした先輩は、ひどく艶やかだった。背中がぞくぞくした。長い手足がよく映える細身のスーツと、よく磨かれた革靴と、こちらを見据える傲慢なほどの視線。


『はあ、うちの旦那は今日もかっこよかった』

『あっそう』

『ねえでも玲司、私、あなたのことも愛してるから』

『あっそう』


 幼馴染みの水原玲司みずはられいじに不倫ごっこをしようと持ちかけたのは私のほうだった。毎夜出ていってしまう完全無欠な先輩への、せめてもの密かな反抗。巻き込まれた玲司は黙って私のわがままを流してくれるのだから、本当、気心の知れたマイボーイフレンドには頭が上がらない。


『で、玲司くんは彼女できないんですか』

『できないんじゃなくて作らないんですー。女に興味ないんですー』

『ではいっそうちの青山先輩と付き合ってみる……?』

『男にはもっと興味ねーよあんぽんたん。寝ろ。』

『ウッス』


 暗闇で光るディスプレイに向かって、くふ、と笑いが漏れた。塞ぎ込みそうだった気持ちが上昇していくのを感じる。

 気も済んだしおやすみの挨拶をしようと思っていたら、新しいメッセージが届いた。


『おまえこそ別れねーの』


 うん、と自分でひとつ頷く。


 佑果ちゃん、と私に向けられた先輩の優しい眼差し、頭を撫でる手つき、子供をあやすような穏やかな声音。それらを忘れられないから傷付く。でもそれだけってわけでもない。


『全部捨て切れるほど私は強くないから』


 先輩の心の一番だってほしかったけど、付随物もほしかったから。

 大手総合商社勤務で、頭良くて、社交的で、かっこいい。そんな先輩ほどの超優良物件をみすみす逃せるほど、私は恋も愛も信じられない。

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